Month: May 2020

浜田寿美男『「私」とは何か』

講談社選書メチエ、1999年。

序章 人の世界の不思議な構図
第1章 ことばの世界と身体
第2章 ひとまずゼロに戻って―発達論的還元
第3章 身体のもつ心的構図
第4章 ことばの世界の手前で
第5章 ことばの世界の成り立ちと「私」の世界
第6章 関係性から生まれ、関係性に囚われた「私」

現象学的な発達心理学といえば分かりやすいだろうか、それほどべったり頼っているわけではないが、メルロ=ポンティ的な観点というか。ポイントは、言語や自己意識を獲得する最初の場面からして、他者との三者関係をとりむすぶ本源的な力に支えられているという認識。

たんに本書の「結論」を知るというだけでなく、著者とともに、人間存在のふしぎを辿る「発達論的還元」の道行きをたどるところに価値がある本。メルロ=ポンティの対人論、市川浩の身体論、廣松渉の共同主観的存在論などと同系列の議論であるが、一番取っつきやすいのは本書ではないか。

[J0034/200503]

S.バルネイ『マリアの出現』

近藤真理訳、せりか書房、1996年。フランス語原著は1992年。

第一部 マリア出現の創世記
第二部 中世キリスト教世界における「普通の」マリア顕現(5~15世紀)
第三部 近世における「異常な」マリア出現(16~20世紀)
結論――見ることなく信じることは不可能か?

なんと言ってもテーマがおもしろい。幻視ないし顕現でも、マリア一般でもなく、マリアの幻視/顕現に焦点をしぼっているところが良い。

――「マリアの意思表示をさまざまな異なる類型として区別できるようになったのは、「公」と「私」の区別がなされるようになったのは15世紀以降のことである。こうした概念の導入により、見者個人にしか関係しない「幻視」と、キリスト教社会全体を対象とした公のメッセージとしての「幻視」を区別することが可能になったのだ」(p. 9)

――「聖アウグスティヌスは、ある説教のなかで、「non videbant quia invidebant」すなわち、「異教徒の人々は見ることはない、なぜなら見たいという欲望そのものが見ることを妨げるからだ」と述べている。聖アウグスティヌスは、こう述べることで、同時に、キリスト教徒においても、見たいという欲望はかえって見ることを妨げるものであると説いているのだ。実際、彼がここで暗に非難しているのが、期限後数世紀の間、ローマ社会が非常に高い評価を与えていたある秘儀伝授の儀式であることは明らかだ」(p.38)

――「5世紀に古代文明が終焉を迎えるにいたって、マリア出現は、事実上、東方教会と西方教会の双方において、二つの異なる幻視様式として定着し始めるようになる」(p. 51)

――「紀元一千年に先立つ数世紀における宗教感情は、マリアの介入を求めることなどほとんどなかったし、まして神の公現など期待すべくもなかった。この時代の信者が求めたのは、むしろ、亡き殉教者や聖人の再来であって、当時の奇蹟的な幻視についての物語はそうしたエピソードが多い。その頃は、彼岸の世界との対話は、聖人たちの仲介によって成就すると信じられていたのだ。マリア信仰は、むしろ東方教会において早くから定着したのであり、西方教会はその点、かなり消極的であった。永眠、受胎告知、聖母誕生、マリアに関する一連の祭式が、ローマに導入されるのは、ようやく650年から7世紀末にかけてのことである」(pp. 60-61)

――「12世紀末、ゴシック建築の新しい技術によって、創造主の栄光が、ステンドグラスから放射される鮮やかな光のなかに安住の地を見いだすに至ったのと時を同じくして、キリスト教徒の視線も、すでに11世紀半ば頃から、キリストやマリアの姿を三次元で想定する習慣を身につけてしまっていた」(pp. 68-69)

――「聖人の仲介をひたすら求めていたこの時代の人々の目には、マリアは、介入(文字通り「間に入る」ことを意味する)を成しうる人物像のなかで、最も普遍的で、最も近づきやすい存在であった。こうした理由から、マリアに助けを求めようとする人は多かった。この最後の頼みの綱の威力を考えれば、この時代に報告されている幻視の例が量的に膨大である理由も容易に納得できるのだ。中世の人々のメンタリティーは、確かに、観念あるいは概念をイメージで象徴しようとする傾向が強い。つまり、この時代にあっては、出現というイメージも、仲介という概念を表象したものであり、仲介とは、神の声を聞けるようとりなしてくれることなのだ」(p. 78)

――14~15世紀の記述の中で。「聖母マリアについて言えば、彼女は、声を聞かせるだけで満足することは決してなく、必ず自らの姿を示すのが常だ。声が行動を促すのに対し、幻視は観想にいざなう」(p. 86)
 うーん、第一文も第二文も、それぞれ想像がふくらむ指摘だ。

――宗教改革によるマリア出現の否定

――「ドイツの宗教改革者ルターの理論に対抗するかたちで、16世紀初頭には反宗教改革の攻撃が始まることになるが、その前に、マリア顕現は、それまでにはなかった新しい霊的形態を取り始める。マリアは、身近な存在となり、新しい国家意識の担い手ともなるのだ。また、言語についても、以後は、ドイツ語、フランス語、スペイン語など、それぞれの幻視者の母国語を話すようになる。こうしたマリア顕現の変化は、当面のところ、14世紀にオランダに端を発した「デヴォチオ・モデルナ」と呼ばれる運動の延長線上にあると言えるだろう。これは、キリスト教徒を「観想の高み」にまで至らせることを目標とした運動である」(p. 99)

――カトリックによる再征服や、国王の権威の強化の手段としてのマリア顕現(p. 114)

――「17世紀の最後の数十年間は、この点で、決定的な転回期を成している。事実、この時代に至って、カトリックの公認教義の擁護者の言説においても、哲学者の言説におけると同様、現実という判断基準が、視角という判断基準に置き換わる傾向が現れる。以来、感覚によっても知力によっても把握不可能なものは除外され、幻視は狂気と考えられるようになる。加えて、理解可能なものとは、目に見えるもの、特に現実に可能なものと混同されて認識されるようにもなる」(p. 120)

――「マリア顕現は、ヴァンデ県を中心として起こった反革命運動の陣営に加わることになるのだが、この運動は、やがて1793年秋以降、共和派軍によって迫害される。「理性」の法に対する抵抗の森を隠すには、たった一本の木で十分である。ポワトゥー地方のサンローラン・ド・ラ・プレーヌの樫の木の中に、マリアは出現する。そして、何千という巡礼者がそれを見るために馳せ参じた。だが、共和派はその木を切り倒す。だが、そんなことが何の役にたつというのか。マリアにとっては、切り倒した木には出現できなくなったとしても、その隣の木に出現すればそれですむことなのだ。・・・・・・しかし、マリア顕現は、当時の権力に対して戦ったこうしたマイノリティーの人々以上にも、非聖職者や共和派の進軍を前にして、力を示さなかった。マリアは、ついに、革命以前のローマ教会の理性の視線の前からと同様に、国家の理性の視線の前からも、姿を消してしまったのだ。国家も教会も、もはや、マリアの出現を見ることを望まない時代になっていたのだ」(pp. 123-124)

訳者あとがきの、訳者の母親がみたマリアの夢の話、それに対する訳者の感じ方も妙に印象的。

[J0033/200502]

中谷内一也『安全。でも、安心できない・・・』

ちくま新書、2008年。

第1章 「安全」だけでは足りない!
第2章 信頼の心理学
第3章 信頼のマネジメント
第4章 価値観と信頼感
第5章 感情というシステム
終章 「使える」リスク心理学へ

―― 食にせよ、住にせよ、分業化が進み、専門家の仕事を消費者として利用する分業社会における安全という問題(p. 44-)

――信頼の非対称性原理:信頼を得るより失うための事実の量や時間は短い(pp. 70-74)。理由(1)マスメディアなど社会の中で顕在化しやすい、(2)否定的なことがらの方が、信頼評価へのインパクトが強い、(3)否定的な事実の方が一般化されやすく、論拠に使われやすい、(4)信頼の欠如はさらに信頼を低下させる情報処理の枠組みを形成する(確証バイアス)。以上、P. Slovic, “Perceived risk, trust, and democracy” (1993).

――一方、事前の信頼がある程度高ければ、信頼を維持・向上させる情報処理がなされる(p. 76)。

――「リスク管理という仕事は、減点主義で評価されやすいという性質を持っている。このような、高い評判を得ることが基本的に難しい仕事において、何があっても不遜な態度を変えず、秘密主義で、リスクにさらされている人への思いもみえない、としたらさすがのブラックジャックをしても信頼を得ることはたやすくないだろう。そういったことを考えると、リスク管理者は人びとの安全のために誠実な姿勢でリスク管理に取り組んでおり、そのことによって安全が確保されていることを、事故のない平時においてこそ積極的に示すべきだと思う」(p. 97-98)

――「関心が高い人は、主要価値を共有している認識できればその相手を信頼するし、価値が異なると認識すると信頼できない。一方、関心の低い人は価値の類似性評価と信頼とのかかわりは薄くなる・・・・・・」(p. 124)。ただし、留保付きの傾向性として。

――人は、ボツリヌス菌中毒や竜巻、洪水などといった、それによって死ぬという人がきわめて少ない項目に対しては、実際よりも過剰に高い死亡者数を推定してしまう(p. 141)。

――さまざまな種類の犯罪の発生頻度(回数)を推測してみるという簡単な実験(p. 142)。

――感情ヒューリスティックが優勢になる場面。時間を制約され、急いで判断をしなければならないような場合、分析的、理性的にものを考えることは難しい(p. 155)。また、リスクの大きさが確率ではなく、頻度で表現されている場合。抽象的な確率表現よりも具体的な頻度表現の方が感情を喚起させる(p. 156)。

類書と比すと、人をいかに納得させるか、というリスク管理に関わる実践的な側面を意識しているところに特徴と価値がある。現代社会分析というわけではない。

[J0031/200501]