Month: July 2020

吉川徹『日本の分断』

光文社新書、2018年。著者は、専門である計量社会学で精力的に仕事をしているが、『学歴社会のローカルトラック』のような厚い質的調査でも業績のある社会学者。

第1章 忍び寄る次の時代
第2章 現役世代の再発見
第3章 学歴分断社会
第4章 人生の分断
第5章 分断される「社会の心」
第6章 共生社会に向かって

いくつかのメモ。

―― 男性でも女性でも、高卒と大卒の賃金格差は人生の後段になるほど差が開いていく。「男-女」×「非大卒-大卒」×「若年-壮年」の8集団に分けたとき、「壮年大卒男性」は659万円を稼ぎ、「若年非大卒女性」の140万円の4.7倍におよぶ。なお、就労時間は1.5倍程度の差しかない。「若年非大卒男性」は322万円で、半分程度である。

―― 「若年大卒女性」の子ども数は0.91、「若年非大卒女性」は1.32。「社会経済的な立場が「8人」のなかで最も脆弱な若年非大卒女性に、日本社会全体の課題である少子化問題の解決を依存している――。この構造は、日本の子どもの貧困率の高さの大きな一因となっています」(143)。

―― 生活満足度や幸福度に関する調査から。「データが示す事実は、「幸福な若者たち」は大卒層、とりわけ若年大卒女性に限られているということです。若年非大卒男女は、「幸福な若者たち」ではなく、「絶望の国の少し凹んだ若者たち」だとみるべきなのです」(176)。

―― 社会参加の積極性について。「第一は、現代若者は決して一様におとなしくなっているわけではなく、消極性が目立っているのは、若者非大卒層だということです。第二は、壮年層、すなわち40代以上の大卒「拡大若者」たちが、若年層や同世代の非大卒層を上回る高い向社会性をもって、アクティブに日々を生きているということです」(191-192)。原田曜平の言う「さとり世代」と「マイルドヤンキー」とは、「若年大卒層と若年非大卒層の活動性の異なりを描いたものだと読み取れます」(192)。

―― 総合的にみて、不利な生活条件に置かれているのは、若年非大卒男女である。ただし、若年非大卒女性は既婚者や子どもが多く、社会政策面でもそれなりに注目されている。一方、若年非大卒男性は「要するに、彼らは総じて不利な暮らしを強いられながら、拍子抜けするほどおとなしく、活気と意欲に乏しい若者たちなのです」(218)。

こうして、若年非大卒男性は「分断」されていると、筆者は診断している。1990年代の日本は、現役世代の7割以上は非大卒層という非大卒中心社会であったというが(228)、ますます彼らの居場所が少なくなっていると。非大卒という「軽学歴」の人生を確信をもって歩んでいる人たちがいるのに、学費の負担軽減といったことばかりが語られる「現代日本は「大卒層だけをみている社会」なのだ」という(242)。

著者は非大卒層を、lightly educated guys すなわちレッグスと呼んで彼らが果たす社会的役割の重要性を認めることを提唱する。「大卒層の読者のなかには、レッグスは、自分たちと同じ「学歴ゲーム」をして、それに敗れた人たちであり、彼らの生活が苦しいのは自業自得だと考えている人がいるかもしれません。それは違います。レッグスは、10代の頃から、大卒層のあなたとは違う道を歩んでいる人たちであり、あなたの生活を脅かしてはいません。彼らはライバルというよりは、同じチームの別ポジションのレギュラーメンバーなのです」(248)。これに付け加えて著者は、レッグス層が、他の層よりも、実直な努力主義のエートスを保持していることを紹介している。

前半~中盤・調査結果の紹介部分と、終盤・レッグスの位置づけの話と、どちらもおもしろいが、かえって後者の方がなるほどと思わされる。やっぱり吉川さんすごいな。

学歴格差とか学歴社会批判というのがどうもよく分からなくて、出自主義から実力主義をめざすのであれば、基本は学歴社会的になるのではと思っていること。それから、中卒・高卒・大卒というアイデンティティやコンプレックスの問題、それからもっと単純な学校的な勉強に対する苦手意識といった問題が議論に混ざったりして、こうなるともう個人的には興味がなくなる。

でもこの本のおかげで多少見えたぞ。つまり学歴をめぐる議論には、全員が大学に進学することを是とする価値観と、高卒・中卒というキャリアにそれ独自の意義を認める価値観とが混在してきたわけなんだな。大学進学できないことを問題視する視点と、大学進学だけを価値あるキャリアとすることを問題視する視点。学歴社会について大きな問題とされているのは、大学進学を介した経済的・社会的格差の再生産なわけだが、この議論の枠組みではどうしても非大卒というキャリアの価値が見逃されやすい。ふむ、やっとちゃんとした考察の出発点に立てそうだ。

[J0059/200724]

高野光平『発掘!歴史に埋もれたテレビCM』

光文社新書、2019年。日本初の民放、日本テレビが開局したのが1953年と。著者ら研究者チームは、その時代からのものを含むテレビCM、1万8000本をデジタルアーカイブしたとのこと、それはたいへんに貴重な資料であり仕事。この本自体は、特定のテーマで分析をする研究書というわけでもなく、昭和30年代のCMのあれこれを紹介する読み物。

そのアーカイブは、立命館大学アート・リサーチセンター所蔵「20世紀のテレビCMデータベースというもので、映像の権利者との関係もあって、申請および審査が必要。承認されると、データベース自体は外部からでも閲覧できるシステムだとのこと。

なお、このアーカイブに関わる研究成果論集として『テレビ・コマーシャルの考古学』(世界思想社、2010年)も出版されている。

[J0058/200724]

神崎宣武『わんちゃ利兵衛の旅』

河出書房新社、1984年。もともと雑誌『あるく・みる・きく』に掲載されていた紀行文を元に、調査を重ねて書かれた書。副題、「テキヤ行商の世界」で、「わんちゃ」すなわち茶碗の行商人、利兵衛のライフヒストリーを中心に、テキヤの世界を活写する。

本書が出版された昭和59年と言えば、もう高度成長も経過して、経済大国日本を称していた頃。それでもまだ、こういう世界の跡をたどることができたのだな。利兵衛への聞き取りは昭和52年という。そのとき利兵衛は85歳というから、1892年頃生まれだろうか。

宮本常一ゆずりの、抑制の効いた、しかし確実にその世界の細部に迫る視点が素晴らしい。いや、宮本ほど個性的ではないかもしれないが、あえて一歩ひいてテキヤの世界の記述に徹しつつ、バランスの取れた周辺情報への目配りを欠かさない姿勢は、ある意味では宮本のもの以上に役立つ仕事とも言える。そして、一級の生活民俗や社会史の学問的記録でありながら、ずっと読んでいられる、この世界に浸っていられる、この感じ。ひそかに神崎氏の追っかけ(?)をしている身としては、『峠をこえた魚』のときと対象との距離感がちがっていて、それより一歩二歩引いた場所から記述しているところもおもしろい。

テキヤの世界については、その平等主義が印象に残る。「わしらは、親分も若い衆もひっくるめてダチ(仲間)という気分が強い」(36頁)。一家の親分と若い衆の関係も、商売に関しては同等だという。テキヤ社会には世襲制度がない。上納制度もない(!)。組織からの脱退にすらとがめがない。

著者が聞きとった利兵衛の話によれば、テキヤにとっては特に大事なことは三つ、「バヒハルナ」「タレコムナ」「バシタトルナ」。「バヒハルナというのはバイヒン(バヒ=売上金)をごまかすな、ということじゃ。タレコムナは、ダチを売るな、密告するなということ。バシタトルナというのはダチの女房をコマすことをするな、つまり、女犯禁止であるわのう」(38頁)。

[J0057/200713]