Month: July 2021

西谷正浩『中世は核家族だったのか』

吉川弘文館、2021年。

  • 変貌する中世の家族と社会―プロローグ
  • こうして中世がはじまった―中世的世界の形成
  • 放浪から定住へ―鎌倉人の生活世界
  • 中世名主の家族戦略―中世前期の民衆家族
  • 中世は核家族だった―室町人の生活世界
  • 核家族と二世帯同居家族―中世後期の民衆家族
  • 古代から中世へ、中世から近世へ―エピローグ

「中世には結婚した男女は生家を出て自分の家をもつという強い慣習(核家族規範)が存在した。中世民衆は夫婦を拠りどころとし、夫婦関係を基軸とした核家族が、民衆社会の基本的なユニットであった。住居だけでなく、食事・経営・家計も核家族ごとに独立していたとみられる。さらに、近接して居住する近親者の核家族からなる親族集団が、この小規模で脆弱な核家族を支えていた」(205)。「中世は核家族の時代であり、兄弟姉妹の関係は基本的に平等であった。ところが14世紀ごろ、跡取りの兄を極端に優遇する直系制家族の家が支配階級の間に現れ、中世末期には、村落の上級階層にまで広がった」(211)。

 大前提として、中世といっても「時代」によっても異なる。また、家族形態に「地域」ごとの差が大きいことは、農村社会学でもよく知られている。さらに「階層」による差も見逃しえない。と、一般論を踏まえた上で、本書の中世家族像は、僕がかってに持っていたそれとはだいぶ違うな。僕の場合は、尾藤正英「家の一般的形成」論をベースに理解していて、近世になるまでは、核家族を基礎とした家制度は一般には普及はしていなかったというイメージ。残念ながら尾藤さんの議論との関連には触れられていないが、西谷さんの場合は、家の普及は江戸時代でも、中世の家族は核家族ではあったと論じる。本書では、古代との対照で、中世には自営農民への請負制が成立して、「農地への投資と耕作意欲をかきたてた」と述べられていて(42-43)、ここでも近世的(と僕が思っていた)発展がすでに中世にはじまっていたということになる。

むしろ、本書で述べられている名主の家族の説明の方が、イメージしやすい。名主の家族については「溝や土塁により外部とは明確に区画された広い屋敷地のなかで、複数の核家族世帯を統合した屋敷地共住集団を形成していた」とされ、「非親族者もオープンに受け入れる独特の開放性を備えていた」とされる(94)。それでも核家族が「民衆社会の基本的なユニット」であり、「名主の大家族を構成する核家族群は緊密に連帯し協力しつつも、それぞれが自立した生活を送っていたのである」(95)という。

こうして、民衆家族の二重構造なるものが説明される。「中世前期の民衆家族は、核家族世帯と、核家族世帯を統合した親族組織からなる、二重構造を形成していた。後者の拡大した家族は、①それが存在しない単独世帯のみの状態から、②区画溝をもたない屋敷地に二、三世帯が居住する地点をへて、③明確に区画された屋敷地に複数の核家族世帯が屋敷地共住集団を形作る段階までに位置づけられる。おおよそ、①と②が小百姓層、③が名主層にあたる」(104)。この名主層は中世前期では平民百姓に属していたが、室町時代には一段低い侍とはいえ、侍身分への上昇を果たしたという(124)。また、散村段階にあった中世前期の社会は移住者に寛容であったが、開発の時代が終わって集村段階に入った惣村では、村人の成員権が明確になり、閉鎖性を強めていったという(125)。最終的に本書で重要とされているのは「中世には、階層を超えて親子二世代夫婦不同居の原則が根強く存在していた」(154)ということである。

整理すると、いわゆるイエとは、たんにそれが生活単位であるのみならず、「跡継ぎ」をもつところ、長子相続制を基礎としているところに特徴があり、それは中世では後期にようやく、一定の階層以上のところから広がっていったとされる。つまり、相続に値する永続性のある屋敷を所有するようになった上流農民層などからである。西谷さんが描くのは、兄弟姉妹に均等に相続を行う――というよりは相続する財自体が乏しいというべきか――多くの一般農民たちという中世社会像である。

疑問に思うのは、二重構造のうち、核家族の側を「自立したユニット」として理解できる根拠――ひいては「家族」なるものの定義に関わる――である。たしかにひとつの居住空間としての家屋には、核家族が住んでいたパターンが多かったのだろうか。だけども、どれだけ核家族だけで実際に生活が成り立ったのだろう。たとえば農業につきまとう灌漑施設の維持管理などはどうしていたのだろうか。肥やしだとか、後に入会で工面していたものはどうだったか。もし、親戚どうしであれ、あるいは名主の下であれ、複数の核家族が緊密な協力関係にあるとしたら、それはどこまで独立会計の世帯と言えるのだろう。家計の独立性は重要なポイント。財や権利は本当に自立したユニット間で分割相続できたのだろうか。今ちょうど、農村社会学の本も読んでいるが、それと比べても、核家族が自立して農業を営んでいた生活が中世に存在していたとはなかなか想像しにくいのだが。
[J0177/210715]

先崎学『うつ病九段』

文春文庫、2020年。原著は2018年。

先崎九段の兄はうつ病者を専門にした精神科医だそうで、彼の言葉では「うつっぽい、とか軽いうつの人が書いたものは多い。でも本物のうつ病というのは、まったく違うものなんだ。ごっちゃになっている。うつ病は辛い病気だが死ななければ必ず治るんだ」とのこと、そしてこの書は、本物のうつ病者が回復末期に書いた「世にも珍しい本」。たしかに、うつを発症するきっかけとなった、将棋界のあれこれの有名な出来事との関係はわりとさらっと書いてあって、言えばひたすら地味な闘病というか回復の過程に紙幅の多くが割かれていて、そこが勉強になる。

とはいえ、当時の将棋界との絡みでも興味ぶかい。先崎九段が発症をしたのは、ソフト不正冤罪事件で将棋連盟が大混乱に陥り、そのフォローとともに、将棋界のイメージ回復を賭けた「3月のライオン」関係の事業に奔走していたときであった。そこから世間とは隔絶した入院・闘病生活に入って、そのあいだに藤井聡太ブームが巻き起こったことを先崎九段は後から知るのである。

また、一年間の休業のあいだに、将棋の指し方自体が革命的に変化して、復帰をめざしはじめてそのことに気づくくだり。その要因のひとつにAIの利用があるとおもうのだが、それとは対照的に、先崎九段がこれがなくては回復とは言えないとこだわるのが「言葉でうまく説明できない「感性」」だというのがおもしろい。しかも彼自身、「「感性」が、将棋の強弱、ひいては勝ち負けにどれほど関係があるのは分からない」と言うのである。

「将棋が戻らない。この部分を書いているのは3月の頭だが、まだまだ細かい感覚が駄目なのだ。駒がなんとなく指にフィットしないのである。脳と指が一体化しないのだ」。「別にそんな細かいことなんて将棋の実力には関係ないんじゃないかとも思ったが、四十年間の厚みで培った感覚である。なくなるとすれば、さみしいではないか」。

うつ病の治療生活の中で、繰り返す浮き沈み。そのようすをみていると、繊細・聡明でもともとが情熱的ということは前提として、すごく細かな対人関係に動かされていることがよく分かって、もともと人に対する関心が深い人なんだろうなという印象も持ったが、どうだろうか。うつ病と、人に対する関心の深さがどのように関わっているかという点――それは要因のひとつとも考えられるのか、あるいは要因ではなく、むしろうつ病の表現様式に関わるものなのか――ということにも興味を持った。

[J0176/210715]

上野千鶴子『女たちのサバイバル作戦』

文春新書、2013年。

  • ネオリベ/ナショナリズム/ジェンダー
  • 雇用機会均等法とは何だったか?
  • 労働のビッグバン
  • ネオリベと少子化
  • ネオリベとジェンダー
  • ネオリベが女にもたらした効果―カツマーとカヤマーのあいだ
  • オス負け犬はどこへ行ったのか?
  • ネオリベ・バックラッシュ・ナショナリズム
  • ネオリベから女はトクをしたか?
  • 性差別は合理的か?
  • ネオリベの罠
  • 女たちのサバイバルのために

女性の労働環境について均等法以降の状況を、講義録風に解説。2013年出版の本ということで一昔前の話にはなったが、バックラッシュを経て現在にいたる状況を知るのに最適な一冊と言える。

エリート女性の社会進出を促進しつつも、女性間を格差ももたらした新自由主義の罠。自己責任論的な意識が、弱者の側にも行きわたって閉まったという。赤川学さんによるフェミニスト的データ解釈批判との対話(第九章)や、川口章さんによる女性差別の経済的合理性分析の解釈(第十~十一章)なども興味深し。

[J0175/210714]