Month: August 2021

奥野克巳『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民』

亜紀書房、2018年。

はじめに
1 生きるために食べる
2 朝の屁祭り
3 反省しないで生きる
4 熱帯の贈与論
5 森のロレックス
6 ふたつの勃起考
7 慾を捨てよ、とプナンは言った
8 死者を悼むいくつかのやり方
9 子育てはみなで
10  学校に行かない子どもたち
11  アナキズム以前のアナキズム
12  ないことの火急なる不穏
13  倫理以前、最古の明敏
14  アホ犬の末裔、ペットの野望
15  走りまわるヤマアラシ、人間どもの現実
16  リーフモンキー鳥と、リーフモンキーと、人間と
おわりに――熱帯のニーチェたち

ボルネオ島の狩猟採集民プナンの生活を描くことを通して、先進社会たる日本社会のあり方を反省する。味づけにニーチェ。そもそもニーチェは精神おかしくしたんでないのとか、堅いことを言えばいろいろあるのだろうけど、もともとウェブマガジンの記事らしく、考えさせる読み物としては評判通り。

プナンは反省もしないし、感謝もしないという。知識や能力は個人の所有物ではなく、集団の中で共同所有され利用されているとのこと。21世紀に、それもわりと遠くないボルネオにこういった生活をしている民族がいるんだということ。

それ以外にも、人類学的なディティールがあれこれおもしろいのだが、妙にピンときたのは次のくだり。
「私には、学校の存在意義を確立していない、学校の価値の高いものと認めていないプナンは、近代以降の社会において、私たちの容易に抗うことができないようなイデオロギーに対して正面切って歯向かうのではなく、それらを相手にさえしていないように思われる。抵抗する以前に、不要なのだから行かないし、利用しないとでもいうかのような態度。そこに、逆に希望の光のようなものがあるのではないかと感じてしまうことは、はたしてまちがいだろうか」(182)。

なるほど、歯向かうのではなく、相手にしないと。そうね、なんでもかんでも相手にしすぎなんだよな・・・・・・(つぶやき)。

ひっかかりがあるのに避けて通るのでは、よくない意味での、陰険な無視や「スルー」になってくる。関わる必要性をまったく感じないところで、すっきりとした「相手にさえしない」が成立する。そのためには、あらかじめ自分自身が生きるについての筋道がすっきりとしていなくてはならない。

[J0189/210820]

バトラー後藤裕子『デジタルで変わる子どもたち』

ちくま新書、2021年.

第1章 デジタル世代の子どもたち
第2章 動画・テレビは乳幼児にどう影響するのか?―マルチメディアと言語習得
第3章 デジタルと紙の違いは何?―マルチメディアと読解力
第4章 SNSのやりすぎは教科書を読めなくする?
第5章 デジタル・ゲームは時間の無駄か?
第6章 AIは言語学習の助けになるか?
第7章 デジタル時代の言語能力

いよいよ本格的なデジタル世代の台頭という感じで、新型コロナによる授業のオンライン化もあって、もちろん関心のあるトピック。学習のデジタル化の影響の話も興味深いが、もう一歩進むと、結局はゲームとは何か、コミュニケーションとは何か、言語能力とは何か、といった問い直しになってくるところがいっそう重要だ。

読んだ感想をまるっと言うと、学習のデジタル利用に関して、実験や調査から即指針を引き出せるようなはっきりしたエビデンスというのはなくて、「手がかり」的な研究結果をもとに、省察で動くしかないなという。その手がかりとなるエビデンスが大切なのは前提。

乳幼児を中心に「ビデオ不全」という現象はすでに広く認められていて、対話的な学習に比して、フィードバックや身体的関わりのない言語学習の方法は効果が劣るとのこと。

長文の読解力養成については、デジタル媒体より紙媒体の書籍が勝るとのこと。本が持つ物理性・身体性のメリットが、なかなかデジタル媒体だと実現できないらしい。「デジタル媒体では、紙の媒体と比べ、マウスやタッチパネル等での操作に認知不可が多くかかり、その結果、本来の認知活動(読解)への集中が途切れ、効率が落ちることが示されている」(129)。次がいちばん納得した箇所だが、「たとえば、デジタル媒体で読む時には、ページをめくるのに、画面の端をタップしたり、スワイプしたりする必要があるが、人はページをすべて読み終わってから、そうした操作に取りかかる。視線もその際、テクストから一字離れる。一方、紙の媒体で読んでいる時は、人は無意識のうちに、ページを読み終わる前にすでにページめくりを始めているという」(130)。たしかに。このほか、紙媒体では読むときに手の位置が読みの視線を誘導したりと、「私たちは、テクストを読む時、目だけでなく、手で読んでいたのである」(130)という。

紙媒体かデジタル媒体かに関しては、結局のところ使い分けが大事だと。「しかし、このような使い分けやストラテジーを構築できないまま、情報過多のデジタル環境に放置されたままになっていると、必要な情報を正確にとらえることが難しくなる可能性がある」(138)。

言語学習におけるゲーム利用については、かなり具体的な試みも紹介されているので、そこに関心がある人には参考になりそうだ。

一応、結論的なパラグラフをひとつ。「デジタル世代は、どんどん新しいテクノロジーを取り入れ、その言語使用も認知スタイルも常時、変化・発達を遂げていくだろう。デジタル・テクノロジーは、人間の認知機能の一部を肩代わりするものであることから、うまく使えば、人間の認知機能を拡大する魅力的な道具になるが、明確なビジョンがないまま盲目的に依存すると、脳の分析能力や、一つの物事を論理的・批判的に熟慮する力を低下させる可能性がある。第4章で見たように、SNSのヘビー・ユーザーの子どもたちの間で、論理・分析思考の根幹を担う学習言語の習得が滞ってしまっている可能性が高いのも、その一例である。論理・分析思考から逃げるように、ますますSNSに依存するということになっているのかもしれない」(282)。

ちらっと、教師に必要なデジタル・リテラシーとして、(1)目的に合ったコンテンツを見つけ使えること、(2)動画・ブログなど、目的に合ったデジタル・コンテンツを作れること、(3)デジタル機器を使って情報交換やコミュニケーションができること、と一般的な整理が紹介してある。そう言われればそうだね。

[J0188/210818]

中西徹『うだつ』

二瓶社、1990年.

1.ウダツのある風景
2.ウダツとは何か
3.都市の誕生
4.絵巻物の世界
5.洛中洛外図屏風の世界
6.名所図会の世界
7.ウダツの終焉
8.現存するウダツ

「うだつが上がらない」という言葉に名残を今に残す、ウダツ。非アカデミックな研究者によくありがちな冗長さが、むしろ本書の場合は迫力にもなっている。全国各地に残るウダツを紹介、といった本かと思いきや、全体の三分の二くらいの分量は、絵巻物などの歴史資料の中に描かれているウダツを追跡。凄いのは、「まだウダツが描かれてない」という、不在までを辿っているところ。

ウダツは防火機能でよく語られているが、それは機能の一部で、装飾的な意味も大きい模様。むしろ、防火機能は低かったとか。基本的に、江戸時代後半には町衆の文化だったウダツは終焉を迎えたという理解。1680年頃から1780年頃の100年間に、京都・大坂・江戸の三都には大火が相次ぎ、ウダツも焼亡。自主の精神を持っていた町衆は「町人」となり、倹約令などの下にウダツ文化もなくなったというのが本書の説明。美意識においても、枯淡を好むような変化のなかで、異形のウダツは時代に合わなかったと。しかしもちろん、1990年当時のこととして、江戸末期や明治に作られ現存するウダツも紹介されている。

[J0187/210816]