Month: August 2023

五十嵐彰・迫田さやか『不倫』

副題「実証分析が示す全貌」、中公新書、2023年。

第1章 不倫とは何か
第2章 どれくらいの人がしているのか―実験で「本当の割合」を推計する
第3章 誰が、しているのか―機会・価値観・夫婦関係
第4章 誰と、しているのか―同類婚と社会的交換理論
第5章 なぜ終わるのか、なぜ終わらないのか
第6章 誰が誰を非難するのか―第三者罰と期待違反

買いにくいタイトルの本だが、内容は調査研究としてすばらしく整っている。不倫の実態自体、とくにはジェンダーの違いを表していておもしろいのだが、研究方法の好事例としても価値がある。つまり、不倫という、正直な答えを引き出しにくい問題に対するアプローチの一例として。データの分析や仮説検証の段取りなどクセを排した書きぶりで、いわゆる理系の人にも、実証的な社会調査とはこんな感じだよと紹介できる一冊では。

[J0388/230807]

いとうせいこう『想像ラジオ』

河出文庫、2015年、原著2013年。

小説として優れているかどうかはわからないが、絶妙なバランスの上に成立している傑作。個々の部分にも、印象に残る箇所がたくさん。いとうせいこう作品では、わりと最近『「国境なき医師団」を見に行く』というドキュメンタリーを手に取ったのだが、これがどういうわけかまったく感覚が合わず、いまだに読み通せていない。それなのに、小説ならば読めるのだね。

凄いなと思うのは、死者や死者の世界をめぐる著者の逡巡が、そのままこの小説の世界となっているところ。明確な「あの世」や死生観の設定はなく、次第に種明かしされていく部分はあるにしても、著者とともに主人公もまた、世界のありように対して最終的な確信を持っている訳ではない。どこかから声だけが聞こえてくることだけが、はっきりしているのだ。こうした死生の捉え方こそ、現代的なリアルだと言うべきかもしれない。

[J0387/230806]

宮澤佳廣『靖国神社が消える日』

小学館、2017年。

序章 靖国神社は自衛隊員を祀れるか
第1章 遊就館「歴史記述」見直しの攻防
第2章 映画「靖国 YASUKUNI」の内実
第3章 首相の公式参拝と「国家護持」の関係
第4章 相次ぐ「靖国裁判」との戦い
第5章 「戦没者追悼新施設」を阻止せよ
第6章 「鎮霊社放火事件」が投げかけたもの
第7章 「富田メモ」と「A級戦犯合祀」の真相
第8章 突如浮上した「賊軍合祀」論
第9章 みたままつりの露店が消えた!
第10章 靖国「テーマパーク化」構想
第11章 「靖国」の未来を憂う
終章 靖国が靖国でなくなる日

著者は、靖国神社の幹部(禰宜)を務めた内部の方。出版当時の靖国神社、とくには11代宮司徳川康久氏(在職 2013~2018)の経営方針に対する批判の書となっている。また、坂本是丸國學院大学教授との関係が深い。「私が靖国に関連する企画を実施する際には必ず助けてもらってきました。だから私の「靖国論」は、ほぼ坂本教授の受け売りと言っても過言ではありません」(44)とまで。

とくに興味ぶかかったのは、「富田メモ」の解釈。筆者は「富田メモ」自体の信憑性は認めるが、それを「昭和天皇は、将来にわたってA級戦犯は祀られるべきでないと考えていた」と解釈するのではなく、「昭和天皇は、あのような時期にA級戦犯を祀るべきではないと考えていた」と解釈する(112)。筆者は、A級戦犯については「国の公務死裁定を受けた戦死者であり、まぎれもない「合祀資格予定者」であった」と理解しており(つまり公務死=戦死者とする)、合祀自体は正当であるとする立場である(133)。なお、このロジックから、亀井静香と徳川康久宮司が進めようとした「賊軍合祀」については、これを強く否定している(それにしても、徳川家の子孫が靖国神社の宮司になったのはどういう経緯なのか?)。

松平永芳宮司によるA級戦犯合祀やその後の靖国の動きについて筆者が批判しているのは、その「極端な秘密主義」である。もし、私的な宗教団体であれば、祭神を決めるのもその団体の自由であろうが、靖国神社は公共性を有する存在なのだから、現在の極端な秘密主義を改めねばならないというのが筆者の主張で、これは靖国が国家護持されるべきという主張と結びついている。松平宮司のA級戦犯合祀については、筆者はその手続きが「天皇に上奏のうえ決定すること」という伝統的な原則(要件)を踏まえていないことも指摘している(214)。

筆者の主張をパラフレーズしてみると、「もし、靖国神社が一宗教法人の立場に留められるのであれば、少数の宮司の判断で祭祀や経営の方針も変化してもかまわないことになるし、実際、そうした「私物化」(195)が生じている。本当にそれでいいんですか?」とまとめられそうである。さらにはこのように言う。「日本という国家も、日本人も、靖国という存在によって過去の戦争責任という罪穢(批判)を祓い去った気分になっているのではないでしょうか。そしておそらく、靖国神社が宗教法人であり続けるかぎりは、誰もが自己に降りかかった問題として考える必要はありませんから、このままの状況が延々と続くことになるのでしょう」(201)。

いまは筆者の主張自体を云々することはしないが、本書からひとつ確実に言えるのは、靖国神社の内部においても、この神社の「本質」やA級戦犯合祀問題に関する理解は一枚岩ではなく、複数の対立した解釈が存在しているということである。靖国神社内部ですら意見が分かれる状態ならば、この神社をめぐる諸問題に関して国民全体の統一的理解を築くことは難しいと思うが、逆に、そうした多様な解釈を容れる存在であるからこそ、一種の宙ぶらりんな状況の下に存続しつづけているとも言えそうである。

[J0386/230803]