Month: December 2023

C. S. ルイス『悲しみをみつめて』

西村徹訳、新教出版社、1976年、C. S. ルイス宗教著作集6。原著 A Grief Observed は1961年出版。解説によれば、ルイス59歳の時に結婚した最愛の人ヘレン・ジョイ・デイヴィドマンを、3年の結婚生活ののちに亡くしたときの書き綴りを本にしたものだが、変名(筆名)を使って名を伏せて出版したものだという。

I 神はいずくに
II 「希望のないもののように」
III 紙牌の家
IV エルサレムのつるぎ

真に価値のある書。本の外見からはなかなか識別できないが、死別悲嘆の場面において、性急な慰めに人や自らを誘導する千万の書とは一線を画す。安易な慰めを厳しく拒絶し、悲痛のなかで率直にもらす言葉にだからこそ、逆になにがしかの救いを感じる読者もいるはずだ。

「感傷の涙。わたしにはむしろ苦悶の瞬間のほうがよい。それは少なくとも清潔で誠実だ。だが、自己憐憫に浸り、おぼれ、またそれにふける。いやらしく、ねばねばした、甘いたのしみ――それはわたしをうんざりさせる」(7)

「ともかくわたしは霊媒には近づかぬようにせねばならない。わたしはそれをHに約束した。彼女は、そのような団体のことをいくらか知っていたからだ」(13)

「死者にせよ、他のだれを相手にせよ、約束を守るのはしごくけっこうだ。だが、わたしには「死者の願望の尊重」など罠だとわかりはじめている。昨日わたしはつまらぬ事で、「Hだったら、そんなことはよろこばなかったろう」とあやうくいいそうになってやめた」(13-14)

「ずっと昔、ある夏の朝、たくましい、元気の良い労働者が鍬と如露を持って、わたしたちの教会の墓地にはいってきて、うしろ手に門を閉めながら、二人の友達にむかって肩越しに「また後でな、ちょっくらオフクロのところに寄ってくから」と叫んだとき、いいかげんうんざりしたことを覚えている。彼は雑草をとり水をやって、全体に母親の墓をきれいにするんだということを、言っているのだった。わたしがうんざりしたのは、こういう感じ方、墓地臭い言い草すべてが、わたしにはまったくいやらしい、あられもないことであったし、あるからだ。しかし近ごろわたしの考えるところでは、その男に同調できる(わたしにはできないが)人がいたとしても、それはそれで、けっこう弁護の余地がありはせぬかという気になり始めている。半坪の花壇がオフクロになってしまったのだ。それが彼には母の象徴であり、彼と母を結ぶ環であった。墓の手入れは母を訪ねることであった。これはある点、わが胸のうちに、思い出の心象をまもり、はぐくみつづけるよりは、まさっていはしないだろうか。墓と心象はひとしく、今に返すすべもないものとの結びめであり、想像の及ばぬものの象徴である。しかし、心象には、それがこちらの思いのままを叶えてくれるという余分の難点がある。それはこちらの気分次第で、ほほえみもすれば眉をひそめもする。やさしかったりはしゃいだり、野卑にもなれば理屈っぽくもなるのだ。それはこっちで糸をあやつれる人形なのだ。無論まだそうはなっていない。真実(リアリティー)はまだあまりにも新鮮だ。まじり気のない、まったく不意に浮かんでくる想い出はまだ、ありがたいことには、いつなんどきでもなだれこんできて、わたしの両手から糸を剥ぎとるのだ。しかし心象はますます、どうしようもなく従順になり、がっかりするほどわたしに従属してゆくほかはないのだ。ところが花壇のほうは、頑強で、手ごたえがあり、ちょうど生前オフクロがきっとそうであったように、しばしば手におえぬ真実(リアリティー)のかけらでもあるのだ。Hもそうであった」(30-32)

「ふり返ってみると、ほんのちょっと前まで、Hについてのわたしの記憶のことに、それがどこまで真実を偽わるものになるかに、わたしは腐心していたのだった。どうしたわけか――そのわけは慈悲深い神の御心としかわたしには考えられぬが――わたしはそのことを思い煩うことがなくなったのだ。そしておどろくべきことには、わたしがそれを思い煩わなくなってからというもの、いたるところで彼女はわたしに出あうように思われる。「出あう」とはあまりに強すぎる言葉だ。幻や声とは毛筋ほども似たもののことをいうつもりではない。特定の瞬間の、強烈に感情的な体験のことですらない。それよりは、まったく従来どおり、彼女はおそろかにはできぬ事実だという、一種ひかえめではあるが、ずっしりとした感じなのだ」(72-73)

「神に会うよろこび。死者との再会。こういうものは、わたしの思考の中では模造貨幣の形でしか現われない。いくらでも金額の書き込める小切手なのだ」(98)

「ごくおしまいに近くなってから、一度わたしは言った。「もしおまえにできるなら――もしゆるされるなら――わたしも死の床にあるときに、わたしのところにきておくれ」。「ゆるされるですって!」。彼女は言った。「わたしの行った先が天国だというしても、ひとすじなわでは、わたしをひきとめるわけにはゆかぬでしょうし、地獄なら粉々に打ち破って出てきてあげるわ」。彼女は、自分が喜劇的な含みさえある、一種の神話的な言語を語っていると承知していた。彼女の眼には、涙とともに燦めきがあった。しかし、彼女を貫いて閃く、そしていかなる感情よりも深い意志には、いかなる神話も、いかなるおどけたところもなかったのだ」(105-106)

[J0441/231228]

濱口桂一郎・海老原嗣生『働き方改革の世界史』

もっと内容に即したタイトルをつけるすれば、『名著でたどる世界の労働問題史』といったところか。労働問題や労働運動に関する世界の古典を取り上げて、各国における論点やその歴史を辿っている。ちくま新書、2020年。

以下、目次にかえて本書で取り上げられている本を列挙しておく。

シドニー&ベアトリス・ウェッブ『産業民主制論』
サミュエル・ゴンパーズ『サミュエル・ゴンパーズ自伝』
セリグ・パールマン『労働運動の理論』
フリッツ・ナフタリ編『経済民主主義』
ギード・フィッシャー『労使共同経営』
W・E・フォン・ケテラー『労働者問題とキリスト教』
G・D・H・コール『労働者』
アラン・フランダース『イギリスの団体交渉制』
バリー&アーヴィング・ブルーストーン『対決に未来はない』
サンフォード・ジャコーヴィ『会社荘園制』
エドモン・メール『自主管理への道』
藤林敬三『労使関係と労使協議制』

[J0440/231228]

伊東俊太郎『人類史の精神革命』

今年9月に亡くなられた文明史家・科学史家である著者が、92歳のときに著した遺作。副題「ソクラテス、孔子、ブッダ、イエスの生涯と思想」中公選書、2022年。

序章 精神革命とは何か
第1章 哲人ソクラテス―ギリシアにおける精神革命
第2章 聖人孔子―中国における精神革命
第3章 覚者ブッダ―インドにおける精神革命
第4章 ユダヤの誕生―イスラエルにおける精神革命1
第5章 預言者イエス―イスラエルにおける精神革命2
終章 精神革命と現代の課題

著者は、これまでの人類の歴史を「人類革命」「農業革命」「都市革命」「精神革命」「科学革命」という5つの大転換期から成ると捉える。精神革命とは、ヤスパースが「軸の時代」と表現した段階にあたる。そして現在、人類は「環境革命の時代」すなわち人間と自然的世界の再結合の時代に入りつつあるという。

「「宗教の科学の拮抗対立」の問題は、実のところこの第四段階の精神革命と第五段階の科学革命とがうまく接合されないまま、その対立が今日の第六段階の環境革命のところまで、とり残されている状況とも云える」(297-298)

こういった問題意識のもと、ソクラテス、孔子、ブッダ、イエスらの思想を取り上げる。本書は、彼らの思想やその価値にふれる絶好の入門書にもなっている。それは次のような点においてである(cf. 6-7)。(1)各思想の基盤となっている歴史的背景と、原典・原語に配慮しながら、彼らの思想を扱っている。(2)そうした歴史的・文化的配慮を尽くした上で、広い視野から思想の相互比較を行っている。(3)そうした広い視野からの整理は、各思想の現代的意義をつかもうとする著者自身の明確な意図にもとづいている。(4)各思想を宗教の面からではなく、したがっていずれかの宗教の肩入れすることもなく、あくまでそれぞれひとりの人間が築いた思想として扱っている。

本書の帯には「『サピエンス全史』で描かれなかった、思想の変革という人類史の謎を解明する」とあるが、宗教思想を農業や資本主義といった生産手段の進歩に対する機能の面からのみ片づけて、悦に入っているユヴァル・ハラリ氏の姿勢とはまったく異なる。伊東先生は思想史家として、正攻法の人、直球勝負の人である。

各思想家を述べた本体部分については本文に譲るとして、終章について。著者の遺言と言っていいと思うが、終章では、現在の環境革命に求められる「宇宙連関」という発想が提示されている。

「人と人、人と自然とを結びつけ、「水平超越」を可能とする「宇宙連関」とは、いかなるものであるのか。それは宇宙のビッグバンから始まって、今日の人類社会ができあがるまでの、素粒子の結びつき、細胞の結びつき、生物相互の結びつきを、人間の結びつきを実現せしめている、あえて大和言葉で言えば、「ともいきのきずな」である。この宇宙的規模での連関の構造は、現在の素粒子論や生命論や生態学、動物行動学、認知科学、脳神経科学、「心の理論」などの発達により、きわめて明らかなものとなりつつある」(301)。

少し長くなるが、さらに引用をしておきたい。

 いったいこの終論では何が述べられているのか。まず第一に、四つの精神革命を、本質的には人間相互を根源的に結びつける「ともいきのきずな」をすぐれた深い洞察によって発見したこと、つまり筆者の云う「横への超越」を「縦への超越」を媒介として確立したことと捉えた。ただしそこでは、人と人との関係のみが視野の中に入れられ、人と自然との関係は主たる考察の外におかれていたように思われる。しかし人間と自然との根源的な紐帯を回復しようとする今日の環境革命の時代においては、この人と自然との共通の進化、つまり「宇宙連関」を考察の中心におき、そのなかでの精神革命(対人関係の結びつきの自覚徹底)もその過程での発展であったとおき直してみるということが可能であり、また必要であると考えるである。
 第二に、自然そのものを研究の対象とした科学革命以後の近代科学は、大きな成果を収めて今日に至っているが、その自然把握の仕方は、現代から見ると問題があるということである。デカルトによる機械論的な部分への還元主義の限界が露わになり、むしろ部分相互の生きた「つながり」の統合論的研究、つまり本質的「宇宙連関」を研究するものだとすることができるように思われる。もともと科学はこのような重要な人間の文化的活動の一部であって、たんに技術のための奴隷ではない。
 このように精神革命と科学革命との間に「宇宙連関」という共通項を導入することにより、この両者の対立面、つまり「宗教」と「科学」の長い根本的対立拮抗をのりこえようというのが、この終論の目指すところで、これは筆者が最近たどりついたアイデアなのである。

308-309

このようにして、「「世界にはいかにあるか」という問題と「世界をいかに生きるか」という課題は決して無関係ではないことを確認して、本書を終えたい」と締められている(310)。

[J0439/231224]