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高知城歴史博物館『仁淀川流域の歴史と文化』

2021年に開催された高知県立高知城歴史博物館「地域展 仁淀川」の展示パンフレット。展覧会はどうやらコロナで会期途中で中止になってしまったらしい。58ページで440円のパンフレットだけど、オールカラーで内容充実。各都道府県、各地域でこんなパンフレットがほしいと思うような出来。

石鎚山から流れる面河川に発する仁淀川の流域、とくに上流は四国独特の山深い秘境で、戦後まで焼き畑をやっていたというような地域。厳しい環境ながら豊かな歴史と文化があり、この冊子では地区ごとにその様子を概観することができる。むしろ厳しい環境だからこそ、小さな単位での集落ごとの独立性や結束も強かったのかもしれない。

1仁淀川と流域社会
(1)仁淀川と流域社会
(2)仁淀川流域の地形と地質
2前近代の仁淀川流域社会
(1)原始・古代の流域社会~縄文から平安時代~
(2)中世の流域社会~鎌倉・南北朝・室町時代~
(3)近世の流域社会~安土桃山・江戸時代~
3仁淀川上流域の世界
(1)仁淀川町仁淀地区
(2)仁淀川町吾川地区
(3)仁淀川町池川地区
4仁淀川中流域の世界
(1)越知町
(2)佐川町
(3)日高村
(4)いの町吾北地区
5仁淀川下流域の世界
(1)いの町伊野地区
(2)高知市春野地区
(3)土佐市
6仁淀川流域の暮らしと祭り
(1)水運がむすぶ地域のつながり
(2)仁淀川流域の祭り・行事
7仁淀川流域社会の近代化と現代
資料編 仁淀川流域市町村の指定文化財
仁淀川流域マップ

四国四県の面積をみると、香川県は全国最小の面積で、大阪府や東京都に近い1900㎞平方。徳島県はその2倍ほど、4100㎞平方余。愛媛県は全国26位、5700㎞平方弱。高知県は宮城県や岡山県とほぼ同じ、7100㎞平方と、四国全体の37%ほどを占めている。そしてその84%が森林(全国1位)で、広大な森林を抱えている県であり、したがって行き来も難しい、単純な数値以上に「広い、広い」県なのである。

仁淀川流域をはじめとする四国の山間部は、山陰地方と比べてさえ、過疎が行きつくところまで行きついているような印象がある。これも推測だが、たとえ産業がなくても、稲作ができる場所なら半ば自給自足で住み続けることができ、なんだかんだ高齢者だけでも土地に残る。だが、田んぼが容易にできないとなると、それも難しいのではないだろうか。仁淀川の上・中流域はたしかに険しい場所だが、到達するのに何日もかかるってわけではないし、松山市からなら1時間半、大阪からだって5時間もあれば着くのである。電気も水道も通って、道路だって舗装されていて。日本の「田舎」って、そういう意味では絶対的に隔絶しているところは少ない。それでも、かんたんに人が定住するようにはいかず、過疎は進み、歴史や文化は失われていってしまうのだよな。

[J0524/241017]

藤原辰史『給食の歴史』

岩波新書、2018年。そうそう、給食って学校教育にとってすごく大事なことなのに、教育学や教育社会学ってまずこういう対象を扱うことがない。歴史的な視点もないし。誰かにまとめてほしかったのが給食の歴史だったわけだけど、広い視野をもつ歴史学者の藤原さんがとは、これは理想的。ほかには部活動の歴史研究が、多少はあるけどまだまだ足りていない。僕も少し触ったことのある浪人や予備校の研究とか。学校飼育の歴史とかも誰かにちゃんとやってほしい。

第1章 舞台の構図
第2章 禍転じて福へ―萌芽期
第3章 黒船再来―占領期
第4章 置土産の意味―発展期
第5章 新自由主義と現場の抗争―行革期
第6章 見果てぬ舞台

給食の歴史の光も闇も描いて、しかし最後には、給食に大きな社会的意義があることを力強く主張している。

[J0523/241011]

磯野真穂『コロナと出会い直す』

副題「不要不急の人類学ノート」、柏書房、2024年。

プロローグ 私たちがコロナ禍に出会い直さねばならない理由
1章 新型コロナの“正しい理解”を問い直す―人類学の使い道
2章 新型コロナと出会い直す―医療人類学にとって病気とは何か
3章 「県外リスク」の作り方―医療人類学と三つの身体
4章 新型コロナと気の力―感染拡大を招いたのは国民の「気の緩み」?
5章 私たちはなぜやりすぎたのか―日本社会の「感じ方の癖」
6章 いのちを大切にするとは何か?―介護施設いろ葉の選択
エピローグ コロナ禍の「正義」に抗う

まあまあまあ、論文じゃあるまいし、朝日新聞の連載記事をまとめたものというから、目くじらを立てるほどのことでもないかもしれないが・・・・・・。

 人類学というけれど、ベネディクトやらダグラスやら、あれこれの理論やら概念やらを思いついたようにもってきて、(しかもしばしば無批判に)当てはめるようなやり方でいいのだろうか。全体を通して一貫した理論なり視点なりといったものは希薄。

 コロナ対策の「やりすぎ」を指摘する、コロナ対策に関するいままでの常識を相対化する、というスタンスのようだけど、コロナ対策への違和感って、もともとみんなが薄々、ないしはっきりと感じながら過ごしてきたことではないのか。この本をみていると(終章をのぞいて)「著者だけがそれに気づいている」みたいな言い方だが、多くの人が違和感を感じつつ、大いに悩みながら対策を打ってきたところに対して、「その対策の単純さを問い直す!」みたいな姿勢で臨むのは適切だろうか。

 フーコーに言及した後で、個人行動の規律・統制によって「県をまたぐ移動の自粛要請」が成功した理由について次のように説明しているところ。「それは、県を管理する人びとの目線を県民に埋め込むためのプロジェクトであったからである」(93)。埋め込むというからには、その主体として「県」という地方行政が想定されているようだが(そう解釈されてもしかたがない)、フーコーの生=権力や規律的権力は、主体が特定されないところがポイントであって、著者のように、まるで行政だけがその積極的な担い手であるかのように、行政と県民を対置するかたちで記述するのは、フーコーの誤読であるのみならず、この言説を通した直接的な害まであると思うのだが。

 本書は、本書の人類学的な立場なるもの、相対化する立場なるものを相対化できているのだろうか。なんだかずいぶん厳しいコメントになってしまったが、「人びとの啓蒙」にいそしむリベラル派にしばしばみられる、まったく無自覚に前提している「こちらが善」という感覚には、過敏ぎみに反応してしまう。僕自身もまたリベラルであるゆえ。

[J0522/241011]