副題「視覚革命が文明を生んだ」、柴田裕之訳、ハヤカワノンフィクション文庫、2020年。原著は2009年、2012年に出版された訳書の文庫化。

第1章 感情を読むテレパシーの力―カラフルな色覚を進化させた理由
第2章 透視する力―目が横ではなく、前についている理由
第3章 未来を予見する力―目の錯覚が起きる理由
第4章 霊読(スピリット・リーディング)する力―ヒトが文字をうまく処理できる理由

章ごとにけっこう内容は異なっている。

第一章。肌色は、肌色としかいいようのない色であるが、それは裸のサルである人間にとって肌がフルカラーのディスプレイとして役立つように、つまり相手の感情や生理的状態を読み取ることができるように自然淘汰を受けてきたからだという。さらに、「私たちの色覚は、肌の自然な特性に応じて進化したのであり、その逆ではない」という(61)。

「男性の一割近くが色覚異常なのに、女性は0.5%に満たない。それどころか、ほとんどの新世界ザルは、メスにしか色覚がない」(76)。このことに対してチャンギージーさんが与える説明は、乳幼児の健康状態を知るのに、顔色のシグナリングを受けとることが非常に重要だからであるというもの。

第二章。人間のように前方方向に目がふたつ、ある程度の間隔で付いている動物は、目の前の障害物とその背景を同時見るためにそうなっているという話。つまり、葉が生い茂っている森のような環境への適応であると。もし、サバンナのように見通しのよい環境であれば、目は側面にあったほうが広い視野を獲得できる点で有利である。もちろんそのとき、葉(障害物)に対する体の大きさも、目に求められる機能を決定する要因となる。実際、体の小さな生物で、目が前向きについている生物はいないらしい。

ところが現代世界の生活空間は見通しのいい状況になっていて、こうした「透視能力」を遊ばせていることになっていると、さらなる視覚技術の進化までを著者は想像している。

第三章、とくにおもしろい章。視覚とは、目の前の世界を写しとることを一義とするものではない。それは、人間が安全かつ効率的に運動できるように進化してきたものだ。そのためには、たんに現在の状況を知覚するのではなく、動きの中で「未来予測」を含んだ知覚である必要がある。

こうした未来予測は誤ることもあるが、そうした記憶は消去して是正するしくみが脳に備わっているらしい。未来予測やその是正というこうしたしくみの応用から、各種の錯視が生まれる。「本当は同じ長さの線がちがう長さにみえる」みたいなやつだったり、動きが生まれる錯視だったり。こうして、錯視図形のすべては「現在を知覚する」という観点から統一的に理解できるとする、「錯視の大統一理論」を仮説として提唱する。

視覚はカメラとは異なるということ。これらの話は、スポーツ科学や知覚の現象学に対しても非常に重要だし、ベンジャミン・リベット『マインド・タイム』の議論などとも関連づけられそうだ。

第四章。文字のようなシンボルの形態が、自然界の知覚に由来することを論じる。

*こちらはヒトの視覚の進化の話で、パーカーの議論はカンブリア大爆発における視覚の進化の話でぜんぜんちがうといえばちがうけど、「視覚と進化」ということで記事へのリンクを貼っておく。
>A.パーカー『眼の誕生:カンブリア紀大進化の謎を解く』

[J0349/230330]