ジャパンマシニスト社、2012年。著者の『「私」とは何か』(1999年)が良書だったので、その勢いで読む。もともと雑誌の連載記事なので、読みやすい。

第1章 この時代に「巣立つ」ということ
第2章 関係を求め、関係に傷つく
第3章 学びをめぐる錯覚
第4章 お金をめぐる錯覚
第5章 巣立てないままの「モンスター」
第6章 飛ぶ鳥に自ずから吹く風はあるか

日常的ないさかいでも、大きな戦争でも、攻撃性の裏には、被害感情が存在する。「夫婦げんかでも親子げんかでのたがいの被害感情も、アメリカの人々をかり立てる被害感情も、「自分は悪くない」として自分を立てている点では共通です。じつはこれは、人間にとって非常に根の深い感覚ではないかと、私は思っています。夢など考えてみても、人は被害の夢をいっぱい見るのに、加害の夢はめったに見ないものです。誰かに追われる夢は定番ですが、反対に誰かを追いかける夢を見るという人はあまりいません。あるいはなにかに襲われてうなされる夢はあっても襲う夢というのは珍しいでしょう。統合失調症の人たちの妄想も、たいていは被害妄想で加害的な妄想はまれです」(p.74)。

「いまの子どもたちは、おとなたちから喜びを与えられることばかり多くて、自分が人を喜ばせるような機会を十分に与えられていないのです。このことは子どもたちの自立にとってけっこう深刻な問題ではないかと、私は思っています」(p.89)。むやみに「子どもを守れ」と叫ぶことで、子どもがひたすら守られるだけの存在になって、問題がかえって深刻になる(p.108)。逆におとなにしても、もっぱら守るだけの存在ではない。おとなが「自立」しているといっても、それはけっして独りで生きていくということではない(p.114)。〔本書のどこだかに、独りで生きている仙人でも生まれたときからそうだったわけではない、と指摘があってちょっとおもしろかった。エヴァ・キテイ的でもある。〕

学ぶことの制度化こそ、子どもたちの巣立ちを妨げる最大の要因(p.127)。

最終章では希望というテーマを取り上げる。たしかに、現代社会における「希望」とは重要な問題で、「希望」と「欲望」との違いは考察に値する。「希望がなければ、欲望は無軌道に走り出しかねない」(p.259)。一方で、商品市場はさまざまな欲望をあおっている。著者自身は、「相手を喜ばせて喜ぶことの本源的な意味」を強調している。付け加えるならば、「希望」なるものも常に良いものとはかぎらず、またしばしば世間に流通している「希望」はそれ自体、現代資本主義社会の論理に組み敷かれていることも多い。「成長」や「キャリアアップ」的な観念との関連も整理しておきたいところ。

別の著書:浜田寿美男『「私」とは何か』(講談社選書メチエ、1999年)

[J0041/200516]