ちくま新書、2020年。

第1章 ヴェーバー理解社会学の誕生
第2章 理解社会学の最初の実践例―『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読む
第3章 理解社会学の仕組み―『経済と社会』(『宗教ゲマインシャフト』)を読む
第4章 理解社会学の展開―『世界宗教の経済倫理』を読む

ヴェーバー没後100年の2020年、野口雅弘『マックス・ウェーバー』(中公新書)、今野元『マックス・ヴェーバー』(岩波新書)に続く三冊目の新書。これ一冊読めばヴェーバーが手軽に分かるという種類の本ではないが、ヴェーバー自身のテキスト読解へいざなうという意味で、正統派の入門書。今野本や山之内靖『マックス・ヴェーバー入門』(岩波新書、1997年)のように外在的な扱いばかり先行する風潮に抵抗して、ヴェーバー自身のテキストとその主張を踏まえることを基礎にすべきとする本書著者の主張には、両手を挙げて同意したい。

著者は、ヴェーバーの思想全体が「理解社会学」という視角に貫かれているとする。『経済と社会』についても、折原浩説にのっとって『理解社会学のカテゴリー』が冒頭論文に位置していたとし、「プロ倫」『経済と社会』それから『世界宗教の経済倫理』にまで、一貫した視角を見出している。

ヴェーバーがつねに一貫した方法論を意識していること、したがって、さまざまな「文明」や宗教をはじめ広汎な問題を扱っていても、その視角は非常に絞られていて、ある意味ではかなり狭いものである点については、まったく同意できる。一方で、理解社会学が理論構造上一貫して基礎を為していることがたしかであるとしても、それがヴェーバー思想の出発点あるいは「核心」であるかどうかはまた別問題ではないかと考える。むしろ、眼前にある近代西洋に特殊な社会状況を捉えるという問題意識が先にあって、そのために方法論として求められたのが理解社会学ではないか。したがって、「プロ倫」について「理解社会学の最初の実践例」という言い方をしていることには一抹の違和感を感じる。「プロ倫」→『経済と社会』→『世界宗教の経済倫理』という流れで押さえると、最後にまた「プロ倫」が中心論文として出てくるわけで、その辺ももう少し著者の解釈を知りたい気もする。

今まで考えたことのなかった指摘としては、ヴェーバーが重要視していたとされている知性主義に関する論点と、物証化に関する論点。どこまで著書の解釈で、どこまでヴェーバーのテキストに即したものか、また確かめてみたくなる面白い指摘だ。

[J0122/210102]