中公新書、1992年。

第1章 ハーンの来日―西洋に背を向けた人
第2章 松江のハーン―理想の異郷
第3章 熊本から神戸へ―振り子の時代
第4章 晩年の結実―微粒子の世界像

同じ新書の太田雄三『ラフカディオ・ハーン』(岩波新書、1994年)がもっぱら批判を動機にしていたことに比べれば、ハーンの作品への共感を下敷きにして、よりバランスの取れた一冊となっている。

第三章まではハーンの歩みを辿っているが、第三章の後半からは、むしろハーンの作品世界の評価に入っていく。とりわけチェンバレンとの関係性がひとつの記述の軸に置かれている。晩年に近づくとより顕著になる傾向として、ハーンがたんに日本文化を描こうとしたのではなくて、実は宇宙や生命について考えていたという見方には賛意を示したい。『怪談』を書く際のハーンは、「哲学的な妖精物語」という構想を持っていたそうな(チェンバレン宛の手紙、178)。

「ハーンという人は、どうも精神的安定を得た時に想念を馳せる人であったらしい」(155)。ほんとうなら、おもしろい指摘。

「ハーン晩年の怪談は単なる怪奇趣味の所産ではない。通常ジャンルとしての怪奇小説につきものの人間の異常心理、残虐性、不条理、超自然現象などはハーンの怪談に無縁のものである。そしてハーンの怪談の多くに共通するのは、すべて死者、あるいは死者に準ずる存在との出会いのテーマだといえる。ここでは幽霊が怨恨を抱いて登場しても、ハーンの視点は死者の側にはない。報復譚によくある仏教的教訓などももちろん眼中にない。生者が死者といかに関わるか、はたしてその死者の存在や訴えを受け止めるか否かに主眼が置かれるのである」(174)。

「怪談の再話、仏教への考察および神道研究をも含む哲学的随想、そして回想文。これら晩年の作品に共通するのは、すべて人間の現在にとっての「過去」、それも通常の歴史的把握で捉える外的な時間体系とは異なり、個体意識を越えた生命の連鎖としての「過去世」の持つ意味を問うていることである。ハーンが最終的に行き着いた本質的テーマは、いわば人の背負う、内なる積み重ねとしての時間の蓄積の考察という一点に尽きる」(182)。

著者は、ハーン晩年の怪談が「不思議に透明な雰囲気に支配されている」と指摘する。まさにそのとおりで、日本土着のものや、それを古代ギリシャと比較してもたんに地域文化への愛着に終わっていないし、上記引用に示されたとおり「教訓」とも無縁なひとつの世界がそこに示されている。

しかし、もし死者との邂逅がハーン生涯のテーマのひとつだとしたら、やはり日本体験の原点が出雲であったことに、改めて大きな意味を感じてしまうね。

[J0134/210212]