Author: Ryosuke

高橋昌明『増補 湖の国の中世史』

中公文庫、2008年、底本は1987年。
中世社会のあれこれの場面を絵巻のように描いて、当時を旅しているような。中央政府中心の歴史記述ではないところがポイントになっていて、近江という場所に限られない味わい。歴史学プロパー向けの説明と、一般向けの説明と、そのバランスが良い感じ。

『今昔物語集』と近江
源氏の内紛と甲賀山
現当二世の利益を求めて
鈴鹿の杣山
内乱のはざまで
石山寺領の人びと
延歴寺王国としての近江
初夏の農村風景
佐々木氏の「奇跡」
地頭の館を訪ねて
百姓の風貌
相伝の下人
魞と鮒鮨
霊場の民
多賀社の祭使・馬上役
番場の宿にて
甲賀の南北朝内乱
観世の能の陰に
鈴鹿山警固役山中氏
木津から今津へ
信楽焼の誕生
蝉丸と逢坂山
村人の資格
ムラの合戦記録
大納言の信楽60日
朽木氏と保坂の関
桑実寺の流れ公方
小谷城の饗宴
川簗をさす人々
民衆の砦
船着場のある城
近世のなかの中世

[J0659/260505]

清水剛『感染症と経営』

副題「戦前日本企業は「死の影」といかに向き合ったか」、中央経済社、2021年。寿命の短かった時代における企業のありかたから、コロナ禍以降の企業のありかたを考える。今になってみると、コロナ禍が与えた影響は限定的で、本書のその枠組みは先走りすぎていたかもしれないが、社会史の本として充実した内容で、再読・参照に値する。

序章 「死」が身近にある社会
第1章 「死」と労務管理
第2章 労務管理の変化と「東洋の魔女」の誕生
第3章 「死の影」の下での消費者―三越・主婦の友・生協はなぜ誕生したのか
第4章 企業と株主の関係―短期志向にいかに対応するのか
第5章 「死の影」の下での企業
第6章 企業に閉じ込められないために
終章 「コロナ後」の経営

死が身近な社会における労働者・消費者・株主の行動様式をそれぞれ検討。

「いささかラフな想定だが、「死」が身近な社会において予想される労務管理の方向性は2つである。A 一般の労働者も含む広い範囲に生活・衛生環境の改善を行い、労働者の定着を促進し、その結果として人的資本の蓄積に結びつける。場合によっては、労働節約型の投資が並行する可能性がある。B 一般の労働者については生活・衛生環境等の改善のための投資を行う可能性がある」(24)。こうした労務管理の方向性に対する労働者の反応もまた、彼/彼女自身の「死」への感じ方によって左右される。

スポーツ論としても興味をもった箇所、もともとバレーは、アメリカでも女子労働者のレクリエーションとして開発され、日本にも導入されたと(新雅史『「東洋の魔女」論』)。そうした位置づけを変える転換をもたらしたのが、日紡貝塚の「東洋の魔女」であったと。で、「東洋の魔女」の選手たちは実際には高卒であって、実際には中卒が主であった日紡貝塚の現場で働く労働者とはちがいがあったと。両者に一体感を生むためには、大松監督による同情を買うほどの厳しい練習が必要であったとな(54-55)。なるほど。

企業と死。
企業は、個人の死や病気に左右されないためのしかけだとも言える(100-101、→ 高橋伸夫『経営の再生』)。「事業が少数の個人に依存している場合には、死の影はその事業に将来の不確実性をもたらすのである」(101)。それは、労働者の採用にも、投資家の行動にも、また消費者に対しても負の影響を及ぼしうる。「そのような事業の消滅や縮小の可能性は死の影の下で労働者の生活・衛生環境の向上や消費者との間でのネットワークの構築、あるいは投資家との共存を難しくするのである」(103)。「死の影の下では、企業は個人の死や病気と事業を切り離すという意義を持つ」(103)。

時期ごとの「会社の寿命」の表なども興味深い(106)。1896~1919年のあいだは15~17年しかないのに、1919年以降30年以上に伸びており、1955年以降は50年程度になっている。

「1910年代前半以前のホワイトカラー労働者とは異なり、1920年代の労働者は転職をせず(できず)、企業との長期的関係を保ちながら、企業に依存し、企業のパワーの下で生きていく人々となってしまっていた」(131)。

一方、こうした条件は、社員が自由に意見を言えないイエスマンばかりになり、企業としてもマイナスを抱えることにもなるという。「労働者が非合理的な命令であっても従わざるを得ないのであれば、命令を発する上司はその命令が十分に合理的であるかどうかを考えることなく命令を発してしまう。・・・・・・この意味でも、個人が企業に対抗できるようにすること、すなわち連帯の機会を与え、また企業から離脱できるような可能性を与えることは重要なのである」(147)。

[J0658/260426]

金子晴勇『キリスト教思想史の諸時代VII』

副題「現代思想との対決」、ヨベル新書、ヨベル、2023年。SNSで逝去の報とともにたくさんの著作の情報が流れてきて、こんな本も書いておられたのかと一読する。これまでの著者の仕事を総括した『キリスト教思想史の諸時代』という壮大なシリーズの鴟尾をかざる第七巻。

1 世俗化とは何か
2 解体の時代
3 ワイマール文化と現代思想
4 大衆化現象の問題
5 水平化と実存思想―キルケゴールの戦い
6 実存主義との対決―実存概念の批判的検討
7 現代のキリスト教神学
8 ヒトラーのファッシズムとの対決―ボンヘッファーとヴェイユ
9 ヨーロッパのニヒリズム
10 世俗化社会との対決
付論 現代の経済・政治倫理批判

正直、宗教社会学における世俗化論を扱った『近代人の宿命とキリスト教』は、諸理論をならべた研究ノートのような内容であまり評価していないのだが(実際、講義ノートが元らしい)、こちらの本の方が、著者自身の見方がはっきりと示されている。

著者の世俗化/世俗主義の認識はゴーガルテンのそれに則っている。つまり、キリスト教思想の展開としての世俗化がいつしか、悪しき世俗主義に変質し、無神論やニヒリズムの台頭を生んだと。
もうひとつ、著者はブーバーの『我と汝』を非常に高く買っていて、ヨーロッパの個人中心主義を克服する思想だと位置づけている。

21世紀風の「批判的」観点からはほど遠く、選んでいる思想家やそれを並べるしかたは古色蒼然ともみえなくもないが、実際に読んでみると、近代の個人中心主義の問題など、そこで語られている問題はけして過去のものにはなっていない。

付箋を貼った箇所。
「この住居を失い疎外された現実をマルクスはプロレタリアートという社会的例外者のなかに、キルケゴールは単独者という例外者的実存のなかに見いだし、ヘーゲルの思想体系を徹底的に解体するようになった。この解体の時代に現代の哲学は主として三つの方向をとったといえよう。(1)フォイエルバッハによる人間学的還元、つまり人間学への解体。(2)マルクスによる社会学的還元、つまり弁証法的唯物論への解体。(3)キルケゴールによる実存的還元、つまり実存哲学への解体」(42-43)。
これは著者独自の整理か、それとも元ネタがあるのかどうか。
Copilot にきくと、岩崎武雄『西洋哲学史』(有斐閣)、岩崎允胤ほか編『西洋哲学史概説』(有斐閣)、杖下隆英ほか『テキストブック西洋哲学史』(有斐閣)あたりがそうだというが、実際に見てみないと怪しい。

岩崎武雄『西洋哲学史』(有斐閣)の整理法はちがうな、たぶん。こちらはこちらで学ぶべきだが。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12223496/1/123

[J0657/260413]