Month: December 2020

ジェラルド・カーティス『代議士の誕生』

山岡清二・大野一訳、日経BP社、原著Election Campaigning Japanese Style は1971年出版、その後邦訳され、なんどか改版を経て2009年に出版された新版。

二〇〇九年版まえがき―政権交代がなぜ今起きたのか
はじめに―日本の選挙と私
第1章 代議士への関門―党公認の力学
第2章 固定票と農村戦術―垂直型組織の構造
第3章 地盤の壁―農村戦術の展開
第4章 保守浮動票―都市戦術の構築
第5章 後援会―一般票の組織化
第6章 運動なき運動―後援会と事前運動
第7章 自民党と利益団体―組織的支援の実態
第8章 握手と資金―終盤戦の戦術
第9章 代議士の誕生―伝統と変革のなかの選挙運動

舞台は1960年代、別府市や杵築市、豊後高田市を抱える大分県第二区。1967年の衆議院選挙に初当選を果たす地方政治家佐藤文生を追って、日本の地方選挙のしくみを描き出す。自民党から複数候補が立ってそれぞれの地盤のもとに競いあう中選挙区時代の動向がよく分かる。

当時の著者は、ここで描いている集票システムを、やがて来たるマスメディア時代には衰退するだろう生き残りとして捉えているが、少なくともその後数十年はしぶとく力を持ったシステムだろう。たしかに1996年の小選挙区制導入を画期として消えていった風景かもしれないが、「当時の当たり前」をきちんと記録しておくことの重要さを感じる。奇をてらったところのない記述が良い。著者は、外の立場に立って批判をしようとはしないし、理解はしてもことさらに擁護しようとするわけでもない。ここに描かれているのは、良くも悪くも恩義、世話、感謝、お礼の世界であり、かつ選挙戦としてはその論理に則った合理的判断が働いているところが面白い。

ところで、この『日経BPクラシックス』版はなかなか持ち心地がよいとおもったら、装丁は祖父江慎と佐藤亜沙実とな。

[J0115/201223]

大塚淳『統計学を哲学する』

名古屋大学出版会、2020年。なーるほど、これはおもしろい。あれこれの手法を備えた統計学に感じる、もやもや感を整理して説明してくれる。もともとが講義だそうで、僕は知らない統計の手法も出てくるが、全体としては読みやすい。終章がすっきりとした全体の要約になっている。

序 章 統計学を哲学する?
第1章 現代統計学のパラダイム
 1 記述統計
 2 推測統計
第2章 ベイズ統計
 1 ベイズ統計の意味論
 2 ベイズ推定
 3 ベイズ統計の哲学的側面
第3章 古典統計
 1 頻度主義の意味論
 2 検定の考え方
 3 古典統計の哲学的側面
第4章 モデル選択と深層学習
 1 最尤法とモデル適合
 2 モデル選択
 3 深層学習
 4 深層学習の哲学的含意
第5章 因果推論
 1 規則説と回帰分析
 2 反事実条件アプローチ
 3 構造的因果モデル
 4 統計的因果推論の哲学的含意
終 章 統計学の存在論・意味論・認識論
 1 統計学の存在論
 2 統計学の意味論
 3 統計学の認識論
 4 結びにかえて

統計学の存在論として。「統計学の概念の多くは、何らかの量や関数として定義される。しかし1章や5章で見てきたように、それらが皆同じ存在論的身分を持つのではない。いわば概念によって、「住む世界」が違うのである。例えば標本や統計量などは、データの世界に住む概念である。一方で、期待値、確率分布や分布族のパラメータ、回帰モデルの係数などは、確率モデルの世界を記述するものだ。そして最後に、平均処置効果や構造方程式の係数は、因果モデルに属し、可能世界間の関係性を表す。・・・・・・この意味で、統計学とは、こうして区分された存在の層を乗り越えていこうとする試み、またそれが可能であるための条件を特定しようとする試みだと言えるだろう」(218-219)。

このまとめの一文を解説するかたちで、自分用の覚え書きを。現代統計学には、与えられたデータを要約する記述統計と、データをもとに未観測の事象を予測・推定する推測統計がある。ヒュームが言うところの自然の斉一性の前提として、推測統計が帰納推論を精緻化して用いるモデルが(筆者が言うところの)「確率モデル」である。それは、確率関数、確率変数、確率分布などに表わされる。
 筆者はまた、この「確率モデル」とは区別して、「統計モデル」という見方を示す。「統計モデル」とは、はじめから近似的なモデルとして立てられるもので、「分布族」と呼ばれる具体的な関数としては一様分布、ベルヌーイ分布、二項分布、正規分布などがその代表例である。統計モデルは、確率モデルの前提の上に用いられる。〔確率モデルは世界のあり方に関する措定であり前提であるのに対して、統計モデルはより具体的な道具的存在であって、その意味では両者をともに「モデル」と括るのはちょっと分かりにくい気もする。〕「分布族」は、データの規則性を説明するための措定として、生物学における自然種と同じ働きを果たしており、したがって「確率種」と名づけうると筆者は主張する。
 確率種の想定は、予測だけをするものであって、因果を定義することはない。それは、因果関係を確率的関係に還元するものである(したがって、それは本来「集まり」に対してのみ確率を付すことができるのであり、単一事象への適応は派生的ないし逸脱的である。95-96)。しかし、介入を行う上でその結果予想や制御を問題にするのであれば、確率モデルの上に「因果モデル」を置く因果推論が求められる。そのときに因果関係をつきとめる発想は、「もしXでなかったら」という現実世界と可能世界の差分を問題にするかたちを採る。ここでの因果とは、確率に還元されるものではなく、確率モデルのさらに向こうにある可能世界に属する概念である。無作為化比較試験(RCT)も、因果を現実世界と可能成果の差分として捉える点で共通するが、RCTは実際に実験として可能世界を実現化させて比較を行う。これに対して、実験ではなく推論を行うのが因果推論であり、その手法としてはルービンの反実仮想モデルが知られている。因果モデルは、確率モデルともちがった、可能世界の想定であって、個別の想定は「確率種」に対して「因果種」と呼ぶべきものとなる。

そのほかにも、二点ほど論点まとめ。

ベイズ主義と古典統計について。信念間の論理的整合性から蓋然的推論の正当化を得るベイズ主義は内在主義的正当化であり、古典統計の頻度主義は外在主義的正当化である。頻度主義は「集まり」に対して確率を付すものであって、そこでは「仮説の確率」という概念はそもそも意味を持たない。ベイズ主義の主観主義は、仮説に確率値を割り当てることができるが、「しかしそれはあくまで個々の認識主体の信念の度合いとしてであり、仮説の正しさを客観的に表す数値としてではない」(223)。正当化自体の発想が異なるベイズ主義と古典統計を、「手法としての有効性」のような同一地平に並べて比べることは無益であることの構造的(意味論的?)理由を明示した点は、本書のもっとも大きな理論的貢献になりうる。

深層学習とそれに根ざしたAIについて。それは真理から予測へのシフトを促すものである。つまり、それが現実世界の模写ではなく、有用性を主眼とするものであって、プラグマティズム認識論に通じるものである。

ひとつ安心したのは、古典統計にしても、また回帰分析のような統計的因果推論にしても、それはあくまでひとつの帰納的推論であり、どんな手法を採ろうとも、結局「検定はアプリオリに想定された因果関係を用いて結果から原因を推論するのみであって、その因果関係自体を推論するわけではないのである」(191)ということを確認させてくれたこと。まあ、当たり前なんだけど、こちらは統計の素人だから心配で。どんな変数を立て、共変量を特定しようとしたところで、僕の言い方で言えば、最初にデータを採ること自体が、統計学的には検証不可能な仮説を立てることなわけで。ただ、これがたんに統計学の欠陥や浅薄さなのではなくて、ヒューム以来、哲学長年取り組みかつ解決できずにきている根本問題の表現なんだということを、本書は教えてくれる。

[J0114/201218]

ダニエル・エヴェレット『ピダハン』

屋代通子訳、みすず書房、2012年、原著2008年。長年積ん読状態だったものをようやく手に取って読了。アメリカ人エヴェレットが、約30年にわたってアマゾンに孤立して暮らす部族ピダハンを調査しともに暮らすドキュメンタリーであるとともに、ピダハン独特の言語構造の研究の書でもある。

プロローグ
第一部 生活
第1章 ピダハンの世界を発見
第2章 アマゾン
第3章 伝道の代償
第4章 ときには間違いを犯す
第5章 物質文化と儀式の欠如
第6章 家族と集団
第7章 自然と直接体験
第8章 一〇代のトゥーカアガ──殺人と社会
第9章 自由に生きる土地
第10章 カボクロ——ブラジル、アマゾン地方の暮らしの構図

第二部 言語
第11章 ピダハン語の音
第12章 ピダハンの単語
第13章 文法はどれだけ必要か
第14章 価値と語り——言語と文化の協調
第15章 再帰(リカージョン)──言葉の入れ子人形
第16章 曲がった頭とまっすぐな頭——言語と真実を見る視点

第三部 結び
第17章 伝道師を無神論に導く
エピローグ 文化と言語を気遣う理由

たしかにピダハンの言語や文化は興味深い。色を表す単語もなければ、数の概念がない。儀礼がない。歴史や創世神話の類いもない。ピダハンの原則は、直接見聞したもの以外は語らず、信じないということだ。夢は直接経験だから、夢の体験は現実的である。会ったことのない過去の人物のことは、非現実的である。彼らは精霊の姿を「実際に見る」ので、当然これも信じている。儀礼がないのも、過去の何かを繰り返すことがないからではないかと、エヴェレットは考える。逆にピダハンの言語は、接尾辞で伝聞・観察・推論を区別しており、直接体験か否かという点に力点が置かれていることが、その文法構造からも知ることができる。また、ピダハンの言語にはリカージョンすなわち入れ子構造が存在しない。

ピダハンは、伝来のやり方にあてはまらない道具の移入を拒否し、新しい技術を学ぶことにも興味がない。家屋はごくごく簡素で、所有物といえば鍋とスプーン、あとはカヌーくらいで、私有の概念はほとんどない。彼らは自分たちの暮らし方に自信をもっており、それが彼らの文化の純粋性と独自性を守ってきたのだという。

ピダハンの言語には、口笛語り、ハミング語り、音楽語り、叫び語り、通常の語りという様式がある。口笛語りは狩りの場面に、叫び語りは大雨の機会などに適している。ハミング語りは囁き声に該当するが、音素を11しかもたず、声調で語彙を識別する彼らの言語の場合、囁き声ではなくハミングの方が聞きとりやすいものとして発達したのではないかという。

生活様式つまり文化が、彼らの言語と文法を規定しているというサピア的な見方を強調し(ただし強い言語決定論は否定する)、ピダハンの言語が、チョムスキー流の普遍文法論やピンカー流の言語本能論に対する反証になっているとするのが、エヴェレットの主張である。ピダハン語におけるリカージョンの不在について、それは「文化の原則によって、リカージョンを認めないのだ」(331)。

本書のもうひとつの軸は、エヴェレット自身の「冒険物語」である。最初彼は、伝道師として聖書をピダハンの言語に翻訳することをめざして、家族とともに苦難の生活を歩み、妻子が生死の境をさまよう経験もする。なるほど、やはり宗教的動機は強い。ところが、幸か不幸か、ピダハンの人々は究極のミニマリストかつ現実主義者――そうではない伝統部族もあっただろうに――で、自己決定と平等と平和を重んじ、しかも最高に幸福を享受しているというので、最後にはエヴェレットは無神論者に転向する。これで家族は離れていってしまったらしい。

まず、21世紀にもこういう部族が生きているという事実だけでもすばらしく、その文化に肉薄したこの書は、評判通りのおもしろさだ。だが、まったく引っかかりがないというわけでもない。

まずは、チョムスキーやピンカー批判。エヴェレットの文化相対主義、というよりは文化や言語をある程度独立変数とみる見方は、僕にしてみれば最初から当然で、文化や言語を普遍的基盤に還元する見方が支配的となっている(?)状況の方が不自然だ。だけん、鬼の首をとったように言うのはどうかと。エヴェレットがそうした諸研究の中心地に近いところで言語学を学んだことで、それらと対決せざるをえなかったという背景はあるのかもしれない。最近だと進化心理学なんても流行っているが、そこには同じ不自然な還元主義的衝動を感じる。

もうひとつ、キリスト教を携えて「未開の村」に入ることもそうだし、そのあと現地の文化に目を醒まさせられるという物語も、なんだか昔からよく聞くパターンだ。前提がまず不自然という意味では、先の点と共通している。その前提からこれだけの情熱が生じているのだろうけど・・・・・・。

とはいえ、厚いフィールドワークをもとに、こうして明らかにされたピダハン文化やそこから得られる洞察は、いくらかのロマン主義が混入しているにせよ、まちがいなく魅力的だ。今度またチョムスキー寄りになるかもしれないが、やはり彼らが精妙な言語を操ること、エヴェレットが苦労の末であれ意思疎通可能になっている点も重要である。

YouTube には、エヴェレットのドキュメンタリー The Grammar of Happiness もアップされているようだ。こちらは、本書の四年後に発表されたらしいが、その後のピダハンの、ブラジル政府による「文明化」と変容についても描かれている。

[J0113/201215]