Month: December 2020

森本浩一『デイヴィドソン』

NHK出版、2004年。なるほど、デイヴィドソン。まったく読んだことがないが、異端的な位置づけなんだな。フレーゲやタルスキの議論に通じていれば、もう少し文脈が分かるのかもしれないが。本棚にあるハッキングの『言語はなぜ哲学の問題になるのか』を覗いたら、デイヴィドソンのところも読んだことがあるらしく、いくつか線など引いているがまったく覚えていない。ハッキングの記述も、デイヴィドソンの異端児ぶりを強調している。

筆者は、デイヴィドソンをデリダに寄せて解釈。デイヴィドソンを知らないから解釈の正確さまでは評価できないが、この本自体は難解にちがいないデイヴィッドソンの議論をときほぐしたリーダブルな解説書になっている。

第1章 言語哲学は意味をどう扱うか
第2章 真理と解釈の第一次性
第3章 コミュニケーションの哲学へ向けて
第4章 「言語」ではなく数多くの言語が存在する

以下、私がかなり勝手にパラフレーズしてまとめておく。

デイヴィドソンは、話し手と聞き手の間に成立するコミュニケーションを問題とする。その際、単位となるのは単語や文法ではなく「文」であり(この発想はフレーゲに由来する)、体系としての言語でもない。コミュニケーションが成立するのは、両者のあいだで予め言語が共有されているからではない。

話し手が伝えようと意図した内容と聞き手の解釈が一致したとき、コミュニケーションは成立したと言いうる。解釈の一致は、あらかじめ共有された言語コードによるのではなく、話し手と聞き手が相互に「見込み」をもって当たることによる。デイヴィドソンは「他者を理解したいのであれば、好むと好まざるとに関わらず、われわれは、たいていの事柄において他者は正しいと考えなければならない」と述べ、これを「寛容の原理」と名づける。

聞き手において重要なことは、話し手の信念や意図を正確に捉えるしかたで解釈を行うことである(68)。「共有されなくてならないのは言語ではなく、話し手のことばについて解釈者および話し手が持つ理解である」。話し手は自分の意図を伝えようという態勢で臨み(フレーゲの「力」に当たるか)、解釈者は「話し手の性格、役割、性別に関する知識」「世の中への精通」を含めた諸種の知識から「事前理論」をもって、話し手の発話に臨む。そこから出発してその都度調整を行い、話し手が発話において意図する「当座理論」の共有に到達したときに、合理と理解(の漸近線)に到達することになる。

デイヴィドソンにとって、コミュニケーションはその場その場でやりくりされるものであり、「言語能力とは、ときどきの当座理論において一致する能力」にほかならない。(森本が紹介するところの)彼は、言語の規約性や規則性といったものをきっぱりと切り捨て、したがって「日本語」「英語」といった言語体系の存在を認めない。デイヴィッドソンにしてみれば、コミュニケーションが成立することは、大仰な意味論を介しなくては理解できない「謎」ではないのだろう。森本はあとがきで次のように述べる。「決定不可能性にたじろぐ必要はない。ミニマルな論理能力と寛容の原理をたずさえて他者に向き合い、身についたスキルを活用して解釈を試みる限り、そこそこの理解は成立する。共有された言語や意味に訴えなくても、何とかうまくやりこなせるようにわれわれは出来ている。他者の理解とはそれ以上のものでもそれ以下のものでもない。すべては程度問題である。彼はそう言っているように思えました」(123)。

たしかに、言語と意味と理解がぴったり対応するのであれば、人と人とが繰りかえし出会う必要はなくなるだろう。コミュニケーションがその都度独自のものなのは、言語と意味が一対一対応していないからである。

三点ほど、疑問点。文を単位とする一方で、二者関係の発話における文がずっと想定されている。デイヴィドソンの理論では、テキストを読んで理解に到達することはどのように説明されるのだろうか。
 二点目、これはみんなが思いそうだが、言語の規約性を否定し、言語の共有を理解の基盤とする見方を否定することが、なぜ言語の存在そのものを否定することになるのだろうか。本書の説明を読んでも、もうひとつ腑に落ちない。
 三点目、筆者は、記号の解釈の一義性を否定するデリダの見方を、デイヴィッドソンの見方と重ね合わせるが、それはどこまで正当な解釈なのだろうか。

[J0112/201214]

ソナム・ギェルツェン『チベット仏教王伝』

今枝由郎監訳、岩波文庫、2015年。14世紀チベットの書、『王統明鏡史』の部分訳。ソンツェン・ガンポ王を中心としたチベットの歴史書であるとともに、チベットの仏教教化の物語。なんとなく手に取ったが、カラフルでおもしろい。思想的にはけっして一貫しているようにはみえず、別々に存在してきたチベットの伝説や歴史物語と、仏教思想とが大胆にミックスされているように見える。

思ったことのひとつ、この書には、仏教における仏像というものの重要性が強く感じられる。ここでは釈迦自身が、仏像を遺すことを命じている物語になっているし、仏教の招来は仏像の招来と重ね合わされている。また、自ずから現れる仏像「自生仏」というのがあり、訳注によるとチベットではこの区別が大事で、人工の仏像よりも尊いとされているという。主人公であるソンツェン・ガンポと二人の妻も、最期は誓約仏(念持仏に近い)である自生十一面観音像の胸に溶け込んだとされている。

第六章は、『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』にも出てくる、羅刹女の島への漂流と、そこからの脱出の物語。ここでは羅刹と作った子どもが執着となり、それを捨てるべきことを是としているが、親子や家族の関係を肯定しているのか否定しているのか、本書内でも大いに矛盾があって、仏教思想のひとつのポイントとして、関心が湧く。

第八章はチベット人の誕生を語る。神通力を持ち、仏教修行をしていた猿が、観音菩薩の指示で羅刹女と結婚する(!)。その子孫がチベット人だという。こうしてチベット人の中には、菩薩である猿の血筋と、煩悩に苛まれる羅刹の血筋のふたつがあるという。

それから、ソンツェン・ガンポ王の物語がはじまる。彼は、尊い仏像つまりは仏教をチベットに招来させるため、ネパールと中国から王妃を娶る。そのために、聡明で、ときに狡猾な大臣ガルが活躍するのである。ネパールからは比較的簡単に嫁取りを成功させるが、中国・太宗からの嫁取りには大いに苦戦し、輿入れ後は中国妃とは諍いが生じたりもしている。それでも、ガンポとネパール妃・中国妃は、仏教国チベットの開基という位置づけである。

固いことを言わなくても、物語の整合性にこだわらない神話的な歴史物語のおもしろさが十分に楽しめる。

[J0111/201212]

成田龍一『戦後史入門』

河出文庫、2015年、原著2013年.

第1章 戦争に負けてどうなった?占領の話
第2章 知ってる?「55年体制」って何?
第3章 経済大国?それっていつのこと?
第4章 「もうひとつの」戦後日本を見てみよう
第5章 歴史は生きている これからの日本
第6章 歴史はひとつではないが、なんでもありでもない
補章 「戦後」も70年たった…

なーるほど、これは優れた歴史の入門書だ。正直、いままでいくつか読んだ著者の本にはいまいちピンとこなかったが、これは良書。戦後史の入門である以上に、日本の戦後史を材料に歴史や歴史把握の問題を考えた入門書であると思う。

いくつか見出しや文章を、引用しておく。

  • あの戦争を何と呼ぶ?(20)
  • 出来事の呼び方には、つねに、歴史を見る人・書く人の「解釈」が含まれているということです。(22)
  • 何を取り上げ、何をふれずにすますかが、歴史を記すばあいの大きなポイントとなる、ということになります。(44)
  • 歴史は「決まったもの」としてあるわけでは、けっしてありません。(51)
  • 歴史と記憶というのは、異なるけれど、同じところもある・・・・・・。(77)
  • 何が描かれていないか(84)
  • 同じ時代でもみなが同じ経験をしたのではない(115)
  • 置かれた立場によって歴史は異なる(116)
  • そのあとどうなったか、わかっているところから、歴史は語られます。逆に言うと、「いま」から逃げれないのです。(129)
  • 周縁の歴史や深層の歴史を見すえること。これもまた、「歴史とは何か」を考えるうえでけっして欠かすことのできないことです。(169)
  • 困ったことに、一度当たり前になったことに対して、それが当たり前になる以前のことを想像することは、意外に難しいんです。(193)
  • 歴史はひとつではない、しかし、なんでもありでもないのです。(208)

[J0110/201211]