Month: December 2020

佐藤恒雄・大石慎三郎『貧農史観を見直す』

講談社現代新書、1995年。

プロローグ 庶民の時代
1 国土利用の転換点
2 米と四木三草
3 農民は貧しかったか?
4 農書が語るもの

1995年当時には、江戸時代における社会発展はすでによく論じられていたと思うが、その流れのなかでとくに農民層にスポットを当てたのがこの書。最近だと水本邦彦『村』(岩波新書、2015年)が類書かな。

正直、そう目新しいことはないが、いちおうメモ書き。
「日本列島の耕地開発は、古代の条里制施行期、戦国時代から江戸時代前期、明治30年代という三つの画期をもっている。なかでも戦国時代から江戸時代前期は、日本史ではいまだかつてない耕地開発の行なわれた「大開拓の時代」ということができる」(30-31)。
「検地は江戸時代の土地制度上では前期の段階で終了しており、中期以降は実施されなかったとみなすことができる。江戸時代のムラでは、この検地帳が村方にとって最も重要な帳簿として認識され、大切に保管されて現在に伝えられている事例が少なくない」(38)。
「農作物の商品化あるいは「米価安の諸色高」という物価現象をもたらしたのが、四木三草である。四木三草のうち四木とは茶・桑・漆・楮であり、三草とは麻・紅花・藍である」(50)。
「衣・住においても江戸時代初頭には、庶民衣料の原材料が麻から綿へと転換した。また、高級織物の原材料であった白糸(生糸)の中国からの輸入禁止にともなって、国内の養蚕業が興隆し、江戸時代経済における衣料の産業部門が急速に発展した。綿作の拡大と養蚕業の発展、それにともなう綿・絹織物業の展開は、藍・紅花などの染料作物の需要を大幅に増加させた」(52)。「養蚕業と綿作は幕末期にまったく異なる道をあゆむことになる。綿作は江戸時代に高度な商品生産の展開をみたものの、安政の開港後の外国産綿織物の大量輸入によって急速に衰退する。一方、養蚕は、開港が国内産の蚕種・生糸をこれまでの国内市場向けから世界市場へと進出させることになり、近代日本の外貨獲得の最重要産業部門となったのである」(54)。
「綿作の副産物である綿実は、江戸時代前期の段階では次年度の綿作の種子以外はすべてゴミとして廃棄処分されていた。しかし、大坂で綿実の搾油技術が発明されてからは、菜種と並ぶ重要な燈油の原料となり、しかも綿実粕が田畑の地力維持に施肥されたのである」(89)。
「江戸時代中期以降には武士・公家だけでなく、庶民までも夜の暗がりに人工の明りをともすようになり、日本人の現代につらなる一日の暮らしぶりの原型が形成された。照明器具の庶民への普及が夜なべ仕事を可能にしたり、読書・芝居・習い事などの趣味や娯楽に夜の時間をまわすことを可能にしたのであり、庶民文化の開花をになったのである」(89)。
江戸時代における農民層でのイエの成立を踏まえつつ、「江戸時代の農民はイエとしての家族と、ムラとしての生産組織という、いわば二重の再生産単位に立脚してはじめて生きながらえることが可能となったのである」(99)。

「江戸時代ほど日本史のなかでタテマエとホンネの落差の大きい社会は存在しないからである。現存する膨大な地方文書はほとんどタテマエの世界を文字化しているにすぎないのである」(118)。

 紹介されている村定の例、信濃国諏訪郡中新田の寛政四年(1792)の「村中一統申合定書」全二十ヶ条のひとつ、「角力(相撲)は五カ年の間禁止のこと。ただし、流行病のときは相談によって開催すること」(123)。

「日本の農書の成立は、決して江戸時代前期の段階で達成されたわけではない。主要な農業技術書が古代・中世はもちろんのこと江戸時代前期の段階において成立したわけではなく、十七世紀後半の元禄時代から十八世紀前半の享保期にかけて集中的に登場しており、その成立は日本列島の地域差を超えて分布し、北は陸奥国から南は琉球にいたるまで全国各地で確認することができるのである」(139)。そしてその前提、ひとつ目に小農技術体系の確立、ふたつ目に農民における生産余剰の成立、三つ目に商品生産を発展、四つ目に識字力を、五つ目にイエの成立とその永続性の願いを筆者は挙げている。

[J0118/201226]

奥武則『蓮門教衰亡史』

現代企画室、1988年。蓮門教といえば、コレラ流行時に病気治しで教勢を伸ばし、万朝報の淫祠邪教キャンペーンで潰された明治の新宗教というくらいの理解。おそらくこの本が今日にいたるまで、蓮門教の歴史を中心に扱った唯一の書ではないかと思われる。著者はもともと毎日新聞の記者で、旺盛な著述活動を続けて、黒岩涙香の側の評伝も書いているもよう。

序 章 一枚の写真
第一章 前史
第二章 教祖誕生
第三章 発展
第四章 全盛期
第五章 淫祠邪教
第六章 滅亡
第七章 なぜ滅びたのか
終 章 民衆宗教と天皇制

著者も書いているように、滅びてしまった宗教だけにその実態に迫りうつ史料は限られている。それでも、ていねいな周辺史料の検討から、知らない事実がいろいろと。

教祖島村みつは、1831年小倉に生まれて1882年に上京、神道大成派に所属しながら布教活動を展開。教導職としてもどんどん昇進している。1891年には尾崎紅葉が蓮門教をモデルにした「紅白毒饅頭」を連載、1894年から『万朝報』が「淫祠蓮門教会」を連載。みつは1904年に死去している。

蓮門教は『万朝報』に対抗して新聞広告を出したり、訴訟を起こしたりおり、いったんは勝訴しているが、すぐに訴訟を取り下げている。どうもこうした手段に訴えたことが教団内でも世間でも評判がよくなかったらしく、結局はプラスにはならなかったらしい。

著者は、同じように淫祠邪教攻撃に遭いながら今日にいたっている天理教と対照させて、蓮門教が滅亡した理由を次のように考察している。ひとつ目に組織的な弱さ。ふたつ目に、息子の早逝など、後継者難。飯降伊蔵や大本の出口王仁三郎のような「第二の人物」の不足。さらに、宗教としての脆弱さとして、中山みきと比べた「みつの矮小さは覆うべくもない」と指摘する(193)。「みつの遺言を前に取り上げた。そこでもみつは、自らの作り上げた財産に執着し、その行方をひたすら案じるだけの老女である」(193)。

著者によれば、中山みきも島村みつも、江戸時代に淵源する生き神信仰の系譜上にある。それだけではない。現人神としての天皇を掲げるところの近代天皇制も同様である。
「近代天皇制は、一つの疑似民衆宗教だった。あるいはそう、少なくとも、そうした一面を持っていた。それは近代資本制社会の形成とともに出口をふさがれた底辺民衆の「祈り」を天皇制という幻想の共同体の中に吸い上げ、体制の安定を保障する装置だった」(222-223)。

こうして、近代天皇制化の宗教統制や弾圧は次のように説明される。
「疑似民衆宗教・近代天皇制は、民衆の心性の回路として有効に機能するために、現人神に拮抗する生き神の権威を掲げた民衆宗教の存在を許容することはできなかった。つまり、民衆宗教が民衆教として発展しようとするとき、それは不可避的に「体制への異端」となり、正統宗教たる疑似民衆宗教と相入れないものとして弾圧されたのである」(223)。

[J0117/201225]

杉本仁『民俗選挙のゆくえ』

梟社、2017年。日本独特の地方選挙を追って、ジェラルド・カーティス『代議士の誕生』が正統派のアプローチだとしたら、この書は異色の切り口。「民俗選挙」ということばひとつで、言い尽くされているね。津軽と甲州を対象に、あれこれの話題を拾って、最後は太宰治の長兄文治と、金丸信を取り上げ、柳田國男『明治大正史世相篇』に戻って締める。

序章 選挙楽しや牛馬にゆられ
1 津軽と甲州―その気質
2 津軽選挙の発生―金木町長選不正開票事件
3 二人町長と代理戦争―鯵ヶ沢選挙と大泉村長選
4 出稼ぎと行商―不在者投票
5 神仏の力と選挙タタリ
6 カネの力と悪銭
7 飲食の力と食物禁忌
8 無尽と葬式
9 村八分と地域ぐるみ
10 オヤコ選挙と骨肉の戦い
11 口碑と文芸
12 二人の政治家―津島文治と金丸信
終章 民俗選挙のゆくえ―柳田国男をめぐって

ネタとして興味を惹く話題が山盛り。取りあげればいろいろあるが、とくに気になったところを一箇所だけ。

「選挙神輿にのせ、揺さぶるのに婿養子は格好の餌食であった。村選挙はイジメの側面がある。タマ〔候補者〕は当選するまではイジメぬかれる。・・・・・・カネの要求は、尽きることがない。気心を知ったオイツキ(生付き)にはできない法外なかずかずの要求が待っていた。そこで立候補に二の足を踏むタマも少なくなかった。だが、イリットは、ムラから認知されるためにも、荒神輿に乗らなければならなかった。この供犠的役割を果たしたのが婿養子であった」(112)。

うーむ、話として聞けば面白いが、本当のことだとおもったら凄かね。[J0116/201223]