Month: January 2021

山田康弘『縄文時代の歴史』

講談社現代新書、2019年。帯には「最新の知見で描く、「縄文時代」の通史、決定版!」とある。しばしば歴史ロマンの対象になることで、批判されがちな「縄文時代上げ」。この著者自身、『つくられた縄文時代』という書も著している。たしかにおかしな理想を投影することやその後の日本文化に安易に接続することには注意を払って、より正確な歴史認識を求めねばならないのはたしかだが、でもこうやって読んでみると、ロマンあるよやっぱし。

「縄文時代では、石鏃や石匙などの鋭い刃物類には打製石器を用いたが、石斧や石皿の他、石棒や石冠などの呪術具に磨製石器を多く使用している。その意味では、縄文時代は新石器時代に含まれる。しかしながら、ヨーロッパやアジア大陸では、新石器時代に農耕や牧畜が起こり、その後の社会も大きく発展したことから、これを「新石器革命」と呼んで、この時代を特別視することがある。その基準からすると、縄文時代には確実な農耕や牧畜の存在が確認されていないため、新石器時代にはあたらないことになってしまう。しかし本書で述べるように、縄文時代には一メートルにも及ぶ柱材を使用するような大型建物をつくる建築技術があり、クリ林の管理や漆工芸などをはじめとするきわめてすぐれた植物利用技術があり、各地の環状列石や土偶などに見られるように複雑な精神文化があった。農耕・牧畜はなくとも、十分に「新石器革命」に比肩できる内容を持っており、むしろ日本列島域に展開したユニークな新石器時代として捉えるべきと、私は考えている」(13)。

「縄文人は、その顔つき、体つきともに世界史的な視点から見た場合、じつにユニークな形質をもっている。どういうことかと言うと、同じ時期の東アジアはおろか世界中のどこを探しても、縄文人と同じ顔、姿形(形質)を持った人々がいないのだ。一時期、中国の柳江人との類似性が指摘されたこともあったが、柳江人は旧石器時代人であり、両者の年代は大きく異なる。また、細かな地域差・時期差が指摘されているとはいえ、縄文人の大まかな形質は、北海道から九州まで、少なくとも人骨が見つかっている早期から晩期前半までの間は、ほとんど同一と言ってよい。このこと縄文人が、ジャパンオリジナル、すなわち日本で形成された独特の人々であったことを意味しているとともに、縄文時代においては、日本列島域以外の他地域から形質を大きく変化させるほどの規模の人的流入および混血がなかったことを指し示す」(59-60)。

ふむ。で、本書の構成。

プロローグ 縄文時代前夜
第1章 縄文時代・文化の枠組み
第2章 土器使用のはじまり 草創期(1期)
第3章 本格的な定住生活の確立 早期(2期)
第4章 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期(3期)
第5章 精神文化の発達と社会の複雑化 後期・晩期(4期)
エピローグ 縄文時代・文化の本質

縄文時代は大きく六つに分けられ、草創期と早期で三分の二を占めている。一方、一般に縄文文化の典型と捉えられる中期以降はその残り期間にすぎない。
草創期:1万6500年前~1万1500年前
早期:1万1500年前~7000年前;貝塚の形成。
前期:7000年前~5470年前;縄文海進。大規模な集落も。
中期:5470年前~4420年前;さらに人口増加。土器や土偶の多くが。
後期:4420年前~3220年前;平等社会と異なる状況も出現。
晩期:3220年前~2350年前;亀ヶ岡文化。弥生文化との関係が争点。

以下、墓制に注目した抜き書き。

縄文時代の墓は、その文化が地域的に時代的にもさまざまであったことに対応して、いろいろなものがあった。土坑墓、配石墓が代表的で、複葬(再葬)や土器棺墓、多数合葬、周堤墓の例もある。また、抱石葬や甕被り葬、頭部が持ち去られた遺体の例も確かめられている。埋葬小群と呼ばれる墓地には、数世代続けて家族が埋葬された形跡がある。

従来注目されてきた屈葬については、案外例が少ないと著者は指摘する(211)。墓域が集落の中心にある場合があることからも(ただし後晩期になると集落の外に墓地遺跡が作られる傾向が強くなる)、著者は「縄文時代の人々は、さほど死んだ人の霊を恐れていなかったと考えている」(212)という。著者は縄文人が円環的死生観を持っていたことを推定しているが、これはなかなか難しい問題だろう。

さらに著者は、後晩期における合葬や大型配石遺構の形成から、「縄文時代の後晩期には、これまで以上に系譜的な関係が重要視され、祖霊祭祀が活発化したのである」(272)としている。

縄文時代の墓制については、かつて岡村道雄『日本の歴史01 縄文の生活誌』(講談社、2002年、文庫版2008年)で勉強したことがある。本書の記述とそれほど齟齬はないとおもうのだが、多くの参考文献が掲載されているこの本にまったく岡村氏への言及がなく、あたまから無視されているのはなぜなのだろうか。神の手問題の絡みとか? 岡村本は概説書だから、オリジナルの知見ではなかったということだろうか?

[J0123/210102]

中野敏男『ヴェーバー入門』

ちくま新書、2020年。

第1章 ヴェーバー理解社会学の誕生
第2章 理解社会学の最初の実践例―『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読む
第3章 理解社会学の仕組み―『経済と社会』(『宗教ゲマインシャフト』)を読む
第4章 理解社会学の展開―『世界宗教の経済倫理』を読む

ヴェーバー没後100年の2020年、野口雅弘『マックス・ウェーバー』(中公新書)、今野元『マックス・ヴェーバー』(岩波新書)に続く三冊目の新書。これ一冊読めばヴェーバーが手軽に分かるという種類の本ではないが、ヴェーバー自身のテキスト読解へいざなうという意味で、正統派の入門書。今野本や山之内靖『マックス・ヴェーバー入門』(岩波新書、1997年)のように外在的な扱いばかり先行する風潮に抵抗して、ヴェーバー自身のテキストとその主張を踏まえることを基礎にすべきとする本書著者の主張には、両手を挙げて同意したい。

著者は、ヴェーバーの思想全体が「理解社会学」という視角に貫かれているとする。『経済と社会』についても、折原浩説にのっとって『理解社会学のカテゴリー』が冒頭論文に位置していたとし、「プロ倫」『経済と社会』それから『世界宗教の経済倫理』にまで、一貫した視角を見出している。

ヴェーバーがつねに一貫した方法論を意識していること、したがって、さまざまな「文明」や宗教をはじめ広汎な問題を扱っていても、その視角は非常に絞られていて、ある意味ではかなり狭いものである点については、まったく同意できる。一方で、理解社会学が理論構造上一貫して基礎を為していることがたしかであるとしても、それがヴェーバー思想の出発点あるいは「核心」であるかどうかはまた別問題ではないかと考える。むしろ、眼前にある近代西洋に特殊な社会状況を捉えるという問題意識が先にあって、そのために方法論として求められたのが理解社会学ではないか。したがって、「プロ倫」について「理解社会学の最初の実践例」という言い方をしていることには一抹の違和感を感じる。「プロ倫」→『経済と社会』→『世界宗教の経済倫理』という流れで押さえると、最後にまた「プロ倫」が中心論文として出てくるわけで、その辺ももう少し著者の解釈を知りたい気もする。

今まで考えたことのなかった指摘としては、ヴェーバーが重要視していたとされている知性主義に関する論点と、物証化に関する論点。どこまで著書の解釈で、どこまでヴェーバーのテキストに即したものか、また確かめてみたくなる面白い指摘だ。

[J0122/210102]