Month: April 2022

てぱとら委員会『私たちの中学お受験フェミニズム』

同人誌、2021年、全80ページ。

はじめに
アンケート結果
第一章 近畿圏中学受験の制度に内在するジェンダー平等
 誰が中学受験をするのか
 近畿圏女子の狭き門
 対談1
第二章 女子中学受験生に対する教育期待の曖昧さ・歪さ
 母親たちの人生 娘たちの人生
 近畿圏中学受験家庭の母親像
 対談2
第三章 中学受験を終えて、その後の歩みとジェンダー不平等への直面
 対談3

関西の中学受験を、女性の当事者目線を基本線にして論じる。世代は、2000年代後半に中学受験をした方々とのこと。対談から少し抜粋。

「「こいつ関西捨てよった!」みたいな感情存在するよな。」「女の子やから東京の大学なんか行かんといてほしいって言われることは今でもまだまだある。私がそうやった。」(32)

実感としては分からないのだけど「〈エリートとして育てるべき〉圧がかかる中学受験でも、母親とスピリチュアルの親和性が高くなるのかもしれないな」(57)なんて発言も。

「ところで親について東京で同じように教育熱心な家庭で育った人と話していると、我々の親ってあまりにジェンダー観が保守的では?と思ってしまうことがある。東京では私たち放課後に愚痴ってたような進路とか家庭の悩みって一世代前に議論され尽くしてて、周回遅れなんじゃないか?!って悲しくなる」(65)。「東京が文化の中心とは言え、関西にしかないものもいっぱいあるし。でもジェンダー観に関しては停滞してて、というか東京だけが加速し続けている感がすごいある」。この辺の話、東京に対する「地方」ってまとめているけど、北海道出身の人間からすれば、近畿は地方じゃまとめらないんだよね。「東京」と「近畿」の方がまだしも精度があるかな。

「老後までを考えた時に、人間同士が結び付いていると社会に認識している手段が最終的に結婚しかないのが非常に・・・・・・厄介じゃない?ひとりで一生自分の食い扶持を稼ぎ続けるの体力的にも精神的にもしんどいし、助け合いは絶対必要やん。その扶助の形が基本的に結婚しか想定されてなくて・・・・・・。単身女性は孤独に陥るやろうなって。まあ女だけじゃないかもしらんけど。」(73)

関西における女性にとっての中学お受験という主題は、「男性/女性」「高学力/低学力」「都市/地方」さらに「東京/近畿」(?)といった軸による分断が関わっていて、さらにそこに「裕福/貧乏」という軸がいろんな形で絡んできている。本書を眺めて改めて思うのは、ジェンダー問題に関しては学校制度・受験制度におけるそれと、実社会におけるそれが切り離しがたく手を組んでいるということ。さらに分けるなら、「家庭」「学校」「職場」とこの三者。中学受験に焦点が絞られていることで、そのことが具体的によく見えてくる良書。

[J0261/220417]

川口有美子・新城拓也『不安の時代に、ケアを叫ぶ』

青土社、2022年。副題「ポスト・コロナ時代の医療と介護に向けて」。

第1回 揺れる倫理観の波
第2回 壊れていくケアの波
第3回 牙を剥くパンデミックの大波
第4回 恐怖と混乱の波
第5回 冷静な反逆の波。そして、ケアを叫ぶ

ALS関連で活動されている川口有美子さんと、緩和ケア医の新城拓也さんの対談。2020年10月、21年1月、5月、8月、9月と5回にわたっていて、新型コロナの状況が予想をこえて変化していった状況のドキュメントとしても読める。おふたりの考えが、実はけっこう噛み合っていないところが、考えるヒントとしてとても有意義。新城さんについては本書ではじめて知ったのだけど、川口さんは、ずっと考えがブレなくはっきりしていて凄い。

何か所か抜粋。

新城:本人の苦痛緩和優先で、病院では家族がどう感じているかなどは、面会が制限されて、病室に普段いないため後回しもしくは無視する状況です。
川口:この感染状況では入院患者に会わせてもらえませんからね。
新城:医療従事者のなかには、本音を言えばむしろコロナ時代に仕事が楽になったひとも多いはずです。病棟にひとが少なくなったからこそ、自分たちのペースで一日を運営することができる。コロナで家族の面会制限を続ける理由は、病院での感染拡大を防ぎ安全第一で運営するためだけでなく、この楽な状態を続けたいためでもあるでしょうね。家族のケアまでしなくていいですから。
川口:面会ができると、家族の鋭い監査の目が入りますからね。(28)

新城:せめて医療従事者は患者さん側に立たないといけないですね。「コロナだからあきらめて、コロナだから仕方ない」と病院側に立って、今までなら非人道的でできなかった面会制限や身体拘束をさっさと決断して進めていくのは本当にまずいことだと思います。(30)

新城:家族の役割は、亡くなるだろう患者にとっては、とても必要な存在です。一方で、面会ができなくなって「やれやれ、よかった」と思っている患者もいるはずです。・・・・・・自分の生活に専念したい家族にとっては、「面会ができないのは、コロナだから仕方ない」と自分の心に折り合いをつけられることになるのです。(31)

新城:私の周りはもう終末期にあって亡くなっていく患者さんで溢れています。ただ緩和ケアを専門としているひとたちは、患者さんは短期間に亡くなっていくというその世界に甘えてしまっていた気がしますね。亡くなるプロセスだけを整備して、洗練させてきたところがありますから。今さら「生きるための緩和ケアを」といっても、その発想が自分自身にもないです。・・・・・・
川口:そうなんですね。ただ死ぬまで「生き方」を一緒に考えるという緩和ケアの発想がほしいです。難病の患者会にも緩和ケア医のアドバイスが必要ですから。(70)

新城:人間が望んだ死に方をするという欲望を果たしていくのは、不老不死の欲望を実現させることと同じくらいナンセンスなものではないかと思うんです。そこまで人間本人の欲望を、死の瞬間まで追究していいのかと疑問に思っています。(92)

新城:ある用語の本質的な意味を隠す際に、ポエム化したりとコード化したりするということが医療現場では横行しています。DNRの他にも、アドバンス・ケア・プランニング(ACP)なんかもそうですね。患者さんに「あなたは死ぬしかない。覚悟を決めてください」と引導を渡すのは、医療職にとってかなりキツい仕事です。ですから、意味を薄めるようなコード化が行われているわけです。・・・・・・もう一つのポエム化というのは、悪いイメージをもつような行為、状況を詩的な言葉で隠してしまう方法です。例えば、DNRといった蘇生措置拒否による看取りを、「人間は本来自分の力で呼吸を始めた。最期も自分の力で呼吸は終えていく、それは人間の自然な営みなのだ。医者であっても他人がひとの最期を穢してはならない」といった感じです。他にも、「住み慣れた自宅に勝る場所は他にあるだろうか。さあ、最期は家に帰ろう、本来の自分に戻ろう」とかです。(110-111)

新城:この二年くらいコロナに関わって気づいたことは、2019年までは患者さん一人一人の治療や療養に関する選択肢が多すぎたということです。・・・・・・しかし、コロナ禍となった2020年以降はQOLの範囲が突然小さくなっている危機を感じました。多様性の追求以前に、「生きていさえいればそれでいい」といった、貧相で、シンプルな考え方に退行したと思うんです。医療に関しては「患者ファースト」を追究していたわりに、病院機能の制限ばかりが目につくようになり、病院の患者さんのQOLは相当低くなってしまいました。家族と面会できない、外出できないという状況は、入院することと留置場にいることと同等のQOLではないでしょうか。「病院ファースト」の時代に逆戻りしたと感じます。(191)

新城:2020年からは、相当強い面会制限をどの病院もするようになりました。患者の人権を無視するような方向に動き、病人が社会から完全に隔絶される方向に戻ってしまっている。15分間、家族のみ、一人だけの面会は留置所の面会のルールよりも厳しいです。病院が留置所、収容所と化していた時代に戻っているのに、患者側はそれを問題視する方向に動いているとは思えません。みんな従順に仕方ないと受け入れています。2021年秋、「病院は家族であっても面会できない、そういうところだ」ともう常識化しているとすら感じます。(234)

新城:私自身は、QOLは患者さん本人のものQODはご家族など周りのひとたちのものだと思っています。(243)

あれ、印をつけておいたところを書き出してみたら、ほとんど新城さんの発言だった。コロナ関係の発言は数多いが、この本が一番リアルであるように感じた。それほど読んでいるわけでもないけれども・・・・・・。

[J0260/220416]

室井康成『増補版 日本の戦死塚』

副題「首塚・胴塚・千人塚」、角川ソフィア文庫、2022年。原著は2015年出版で、その増補版。

序 章 「首塚」は、いかに語られてきたか
第一章 「大化の改新」と蘇我入鹿の首塚
第二章 「壬申の乱」をめぐる塚
第三章 平将門の首塚・胴塚
第四章 「一ノ谷の戦い」の敗者と勝者
第五章 楠木正成・新田義貞の結末
第六章 「関ヶ原の戦い」の敗者たち
第七章 「近代」への産みの苦しみ
終 章 「客死」という悲劇
補 章 彼我の分明──戦死者埋葬譚の「近代」

現地への訪問も含めて、全国の戦死塚を探究した一冊。全部は挙げられないが、登場するのは蘇我入鹿、大友皇子、平将門、平忠度、平敦盛、源義経、楠木正成、新田義貞、織田信長、石田三成、大谷吉継、小西行長、井伊直弼、近藤勇、大村益次郎、江藤新平、西郷隆盛など。

「正史」では簡単に無視されるだろう、多くの異説も含めた伝承の世界の豊かさに感銘を受ける。大化の改新や壬申の乱の昔でも、伝承があるんだな。記述には冗長さもあるけれど、この本全体が帯びている熱気の反面でもある。巻末には、全国1686例の戦死塚一覧表が付されている。

「同じ戦死塚でもあるにもかかわらず、祟る塚と、逆に人々に霊験を与える塚とが存在するのはなぜだろうか」(285)。「まず、両者の大きな相違点は、祟る塚は、そのほとんどが不特定多数の戦死者の亡骸が一緒くたに埋葬されたと伝えられている点である」(285)。ただ、耳塚や鼻塚は例外であると、著者自身も指摘している。また、客死している例を取りあげて「これらの事例をめぐってさまざまな怪異譚が伝えられるのは、当該の被葬者たちが故郷に帰ることができず、しかも親しい人たちから霊的処遇を受けることができなかったことに対する、人々の憐憫の情感が反映しているためではなかろうか」(289)。この種の考察になるともうひとつ腑に落ちない感じがして、マジレスするならば、戦死塚がある地域文化や歴史的事情――たとえば、その地域で支配的な宗派や独自の民俗心性など――を捨象して祟りの問題を語っているところが大きな欠陥になっているが、追究している問い自体はたしかに重要で興味ぶかい。

より納得できたのは、戦死者の処遇に関する変容の指摘である。「戦死塚からみた鳥羽伏見の戦いの特徴は、勝者と敗者の戦死者が、同一箇所・手法により埋葬されることが、けっしてなかった点である。換言すれば、勝者は味方の戦死者のみを厚遇し、敵はお構いなしという、それまでの日本の戦争ではほとんど聞かれなかった戦死者の霊的処遇のあり方が、この戦いを契機に出現したというわけだ。かつての怨親平等、戦いが終わればノーサイドとする価値観は後退したといえる」(301)。重要な指摘。本書では、意識的になのだろうか、靖国神社の問題には触れていないが、戊辰戦争の戦死者祭祀の問題はそのまま、靖国や英霊の問題に直結する。明治から昭和へ、近代国家としての統一が図られ、国民としての一体性が強調されはじめるその時期に、戦死者祭祀についてこうした「敵/味方」を分断する意識が誕生したという事情は、近代国家の基層にある独特な排他性を示しているように感じられる。

[J0259/220416]