Month: April 2022

C・ボヌイユ、J=B・フレソズ『人新世とは何か』

副題「〈地球と人類の時代〉の思想史」、野坂しおり訳、青土社、2018年、原著は2013年、改版が2016年。

 序言
第一部 その名称は人新世とする
 1章 人為起源の地質革命
 2章 ガイアと共に考える:環境学的人文学へ向けて
第二部 地球のために語り、人類を導く:人新世の地球官僚的な大きな語りを阻止する
 3章 クリオ、地球、そして人間中心主義者
 4章 知識人とアントロポス:人新世、あるいは寡頭政治新世
 第三部 人新世のための歴史とはいかなるものか
 5章 熱新世:二酸化炭素の政治史
 6章 死新世:力と環境破壊
 7章 貪食新世:地球を消費する
 8章 賢慮新世:環境学的再帰性の文法
 9章 無知新世:自然の外部化と世界の経済化
 10章 資本新世:地球システムと世界システムの結合した歴史
 11章 論争新世:人新世的な活動に対する1750年以来の抗議運動
結論 人新世を生き延び、生きること

「人新世」について知ろうと、概説書のつもりで手に取ったが、この書自体が重要でオリジナルな思想史的研究だ。「人新世」概念提唱の書ではもちろんあるのだが、ただちに批判的な検討も加えている。僕流にパラフレーズするなら、マックス・ヴェーバーとジェームズ・ラブロックを真剣に総合させなければならないということ。この本を手がかりに、この方向に思想を深めていこうと啓発された次第。

「人新世」という言葉は、オゾン層研究でノーベル賞を受賞した大気科学者パウル・クルッツェンが提案して一般化したものらしいが、ちょっと調べると、その前に用いた人物もいたはいたらしい。

「もし数百年後にその時代の地質学者が我々の時代が残す岩石化した堆積物を調査することがあれば、彼らはそこに急激な転換を見いだすだろう。それは我々の時代の地質学者が地球の数十億年の歴史の中に生じた急激な転換、例えばよく知られた白亜紀から第三紀への推移、すなわち六五〇〇万年前に隕石が現在の中央アメリカに衝突し、地球上の生物種の四分の三の消滅へ導いたときに形成された転換と同じくらい顕著で急激なものとなるだろう」(29)。

人新世という認識は、分断された自然と社会を否定する。「そして、わずかな修正を加えるだけで経済システムは永遠に発展を続けるという期待に疑いを投げかける。環境に代わり、今や地球システムがそこにある」(37)。

「我々は人間と自然の和解という、政治の下位にある平和主義的な問題系の中にいるのではない」(45)。「人新世は政治的」なのである(45)。自然と人間に関する近代的な認識は誤りである。「要約すると、物理的な自然科学がその研究対象となるものの性質と客観性の概念を踏まえ、自身を非人間的なものだと主張する一方で、人間社会科学は自身を非自然的なものとみなし、自然決定論から自らを切り離すことが人間の成り立ちに固有のものであると考え、「社会」に完全なる自己充足性を与えた。・・・・・・このような構造が、ペーター・スローターダイクが「舞台裏の存在論」と呼んだ、社会的なものが自然に関与していることを隠蔽する仕組みとなったのである」(51-52)。問題視すべきは「人間例外主義」である(60)。そしてまた同時に、「人新世学者は大文字の〈自然〉、すなわち人間に対し完全に外部的なものとして見られていた自然の死を宣言することが可能になった」(112)と言われる。

人新世概念は、従来の近代化論の見直しを迫るものであるが、ボヌイユとフレソズはとくに、産業革命以降あるいは二次大戦後の動向を、それが「大加速」の時代であることを認めつつも、決定的転換点を見ることを強く批判し、人新世がずっと長期的な変動であることを主張する。「結論として言えるのは、一九四五年以降の地球システムに対する人間影響の深刻さと規模の変化が明白なものであるとしても、曲線の傾斜は歴史的時代や地質時代の始まりを決定づけるには事足りず、ましてや歴史的な因果関係の説明に取って代わることができるほどに十分な要素だとは言えないということである」(78)。

ボヌイユとフレソズは、フーコーの生-権力概念になぞらえて、「知-権力」という概念を提示する(115)。「生命に続き、同時に知(地-知識)と統治(地-権力)の対象になるのは、岩石圏から成層圏までを含む地球すべてである」(116)。

「我々の世代がはじめて環境異常を認知し工業的近代に疑問を投げかけたとみなすエコロジカルな覚醒の語りの問題点は、過去の社会においても存在していた省察を徐々に消し去ることで人新世の歴史を非政治化することにある」(212)。「したがって、人新世の歴史が立脚すべきなのは、自然の問題が考慮されていなかったために不注意から環境破壊が生じてしまったということではなく、近代人が環境に対する賢慮(ギリシャ語ではフロネシス)を有していたにもかかわらず環境破壊は起きたという、頭を悩ませるような逆説的事実でなくてはならない」(213)。ほんとにそうだ。古典的な啓蒙・啓発モデルは根本的な解決をもたらすようにみえない。「人新世の諸社会が環境を破壊したのは、不注意からでも自らの行動の結末に対する考慮の不在からでもない。それどころか、人々はときに自らに環境にもたらす影響に恐れ慄くことすらあった。そうであるならば、我々は前章で確認したような環境学的文法を有していたにもかかわらず、どのように人新世に足を踏み入れたのだろうか。これに関して近年、科学史や科学社会学の分野で発達したのが無知論(アグノロジー)と呼ばれる研究領域である」(244)。きわめて興味を惹かれる論点だが、本書第九章は期待した「無知論」の記述になっていない。自分で調べないとと思って引用文献をみたら、あれっと。Robert Proctor の本は、机の脇に未読の状態で長年積んであるやつ。

「経済の脱物質化」。「現代のスタンダードな経済学理論は物質に対し、ごく僅かな関係しか持たない。それは財産の持つ有用性や心理学的効果については考慮するが、物質的な特徴については考察しない。そして、資本は具体的な生産装置の総体としてではなく、金融的な流れを生み出す資産であるとみなされている。このような脱物質化は人新世の時代の指数関数的な経済成長を自然とみなすことを可能にし、経済をあらゆる物質的基盤から断ち切ったのである」(256)。諸富徹『資本主義の新しい形』などに示される「資本主義の非物質的転回」論はそれはそれでおもしかったが、ボヌイユとフレソズは、経済の脱物質化をもっともっと長いスパンでの傾向として捉えている。経済の脱物質化は、世界を経済化し、自然環境を経済化することで、人間が世界や自然を完全に制御しているという幻想と結びついたのである(269)。

産業革命以降の大加速を相対化する論調のわりに、フランス人らしく(?)、その時代におけるイギリスの悪行ないし「生態学的債務」を強調しているのがちょっとおもしろい。

付記、26ページの「大洪水」のグラフ、Will Steffenの元論文にあたっても、このグラフだけ見あたらない。ボヌイユらが足したのか、邦訳で足されたのか。どうも怪しい情報。

[J0258/220414]

嘉儀金一郎研究会『嘉儀金一郎』

今井出版、2022年。

序章 嘉儀金一郎とは誰か
第一章 嘉儀金一郎の生涯
第二章 嘉儀金一郎が目指した酒造り
 一 松江税務管理局
 二 大蔵省醸造試験所
 三 福島県会津若松
 四 広島税務監督局
 五 神戸灘 櫻正宗
第三章 「山廃酛」とは何か
終章 嘉儀金一郎が遺したもの
特別寄稿 祖父金一郎について(嘉儀隆)

生酛と呼ばれる酒母をつくるために必要な重労働「山卸」を行わずに、麹のもつ酵素の力で米を溶かす「山卸廃止酛」の製造法(山廃仕込み)を確立した、松江出身の技術者、嘉儀金一郎(1973-1945)。

もともと日本酒の酒母は、水酛(菩提酛)と呼ばれる製造法を取っていたが、雑菌が生育するリスクが高かった。そこで江戸時代に伊丹・灘を中心に開発されたのが、寒造りの生酛であった。生酛の発明によって酒の質は安定したが、生酛の仕込みは寒中の厳しい作業と、広いスペースが必要であった。

「山陰地方では、明治期までは小規模な酒蔵が多いために「生酛」よりも「水酛」による製造が主流であった。この製造方法が原因と考えられるが、金一郎が松江税務局に勤めていた明治34、35年(1901、1902)に行われた全国の清酒の分析結果では、松江局管内の清酒(試料数八点)は、「全て腐敗清酒に分類」されていた。この「腐敗酒の定義」は、実際に腐敗しているのではなく、「発酵が不完全で、雑味が多く、糖や酸度が高い清酒ということで、いずれにしろ山陰の酒は「濃厚であり酸っぱかった」ようである。」(57)

はやくも山廃酛が発表された次の年、明治43年(1910)には速醸酛・連醸酛が発表されて、山廃酛と速醸酛は同時に普及が進んでいったようである。速醸酛の方がより製造が簡単であり、高精米の淡麗型酒質に適していることから、現在では速醸酛が9割を占めているという。一方で、より濃厚な風味を好む「燗係者」には、山廃づくりや生酛づくりが好まれているというわけだ。

[J0257/220413]

古田雄介『ネットで故人の声を聴け』

副題「死にゆく人々の本音」、光文社新書、2022年。

【内容】
1 高校2年で死を受け入れた人の声―ワイルズの闘病記
2 京大院生が残した剥き出しの思考―ヨシナシゴトの捌け口
3 安寧を探し求めた先の諦観、そして自殺―気味が悪い、君
4 大量の吐血の後に吐き出した覚悟のブログ―日本一長い遺書
――対談1 故人のサイトに流れる時間と真贋
5 4代にわたって引き継がれている個人のサイト―轟木敏秀のホームページ
6 死を覚悟した空手家ベーシストの軌跡―中鉢優香バッチ/Instagram
7 41歳で余命を知った医師が残した死への記録―肺癌医師のホームページ
8 オンラインに生きた人間が刻んだ極限の生き様―一撃確殺SS日記
――対談2 時代の変化と、故人のサイトを扱う罪悪感
9 2012年9月に凝縮された人生―自殺願望者の記録
10 〝肺がんオヤジ〟が残した終わらないブログ―がんと共に生きる!ブログ
11 糖尿病の怖さを伝える20年前の個人サイト―落下星の部屋
12 永久保存を望むサイトは3年で消えた―クール!だね、ジャパン
――対談3 残されたサイトは誰のものなのか?
13 1万冊の闘病記を集めた男の人生―パラメディカ
14 90歳ブロガーが残した孤独と自由と長寿観―さっちゃんのお気楽ブログ
15 娘を殺された父がブログを綴る理由―SA・TO・MI~娘への想い~
――対談4 故人の名誉を守る行為、故人のサイトを扱う暴力性

死に直面した人たちのブログやSNSを取りあげた本、すごい企画。死後のデータの扱いについて研究している折田明子さんとの対談が挟まれていて、これも効果的。

本当に多様な死のかたちがあるのだなという感想の傍ら、それぞれがブログという、独特のかたちで「内面的」なメディアで自分の死生観を吐露しているだけに、やはり自分自身の死生について考えさせられる。そういうきっかけを与えてくれる本として、またそのうち再読しようという気になる。

[J0256/220409]