中居実訳、法政大学出版局、1990年。「死にゆく者の孤独」(1982年)と「老化と死―その社会学的諸問題の考察」(1985年)を訳出したもの。
◆「死にゆく者の孤独」(1982年)
私たちは死すべきものたちの共同体なのだという明晰な認識の獲得としての、「死の脱神話化」の必要。
「困窮や死からの救いをかつて超俗的信仰組織の中に求めていたあの情熱的な感情は、比較的発達した社会にあってはいくらか弱まり、部分的には世俗的信仰組織の中へと移行していった。自己のもろさを守り支えてくれるべきものへの渇望は、中世におけるそれと比べこの数世紀の間に――社会が別の文化段階に移行したことの象徴として――目に見えて低下した。より発達した国民国家では、人々の安全のための対策、病気や突発的死のような酷い決定的打撃に対する防衛策が、以前に比べはるかに整備されている。おそらく、人類の全歴史を通してもっとも整っていると言っていいだろう」(11)
一方で。「寿命はより長くなり、死はさらに先に延ばされる。臨終や死体を直接目にすることはもう日常的なことではなくなった。普通に暮らしているかぎり、死を容易に忘れ去ることができるのだ。つまり、人間が死を抑圧しているということである」(13)。
アリエスへの批判で有名な本書だが、全面的な批判というほどでもない。
「現代と比べ、死は、当時若者にも老人にも毫も隠されたものではなく、至る所に見られるごく身近なものだった。といって、死が現在より穏やかなものだったということではない。それに、死の不安の社会的水準もまた、中世の多くの世紀を通じて必ずしも同一とは言えなかった。14世紀にこの不安は目に見えて大きくなった」(22)。要するに、「飼いならされた死」の議論の部分を、資料選択の問題も含めて、批判している。
たとえば、次。「かつて死は、現代よりはるかに公共のものであった。多数の人々がそれに関わっていたのである。一人で居ることがまれだったので、そうであるほかはなく、いわば当然の帰結だったのである」(27)。エリアスにいわせれば、そもそもプライベートな領域が確保されていない状況で、死がパブリックなものであったのは当然だというわけである。
「死の隠蔽と抑圧、言い換えれば、あらゆる人間存在の一回性と有限性の隠蔽と抑圧とは、人間の意識の中の非常に古い部分に属する。しかし隠蔽の方法は、永い時の経過の中で特別な流儀で変化した」(55)。フロイトの話にも。
子どもに向かって「おじいちゃんは天国にいるんだよ」式の言いくるめをすることについて(61-62)。「人間存在の取消すことのできぬ有限性を集団的願望幻想〔不死の願望〕によって――とりわけ子どもから――覆い隠し、さらに、この隠蔽そのものをかなり厳しい社会的検閲によって守ろうとする傾向が、われわれの社会では依然として非常に根強く、かつ日常化していることがわかるのである」(62)。
「人間の死に関して言えば、死を隔離し、死を特殊な領域へと変えてしまうことで死そのものを隠蔽しようとする傾向は、前世紀以来ほとんど衰えず、むしろ強まっていると見てよい」(66)。
死の社会学的問題を考えるための、エリアスが整理している現代社会の特徴。①個人の寿命の伸び。②自然的経過としての死という観念。「死とはひとつの自然的経過の終局である、との認識は、不安を大きく和らげてくれるのである」(71)。③現代の社会の比較高い内部的安全性。④人間の個別化。そして、孤独な死というモチーフへ。
しかしながら。「過ぐる2つの大戦では、大部分の人間が、殺人・瀕死の人間・死に対する感受性を比較的急速に失ったことははっきりしている」(77)。
エリアスの見方の下敷きには、もちろん、彼の文明化論がある。また、彼自身は、死の本質を断絶とみなし、そのことを認識すべきであるとの無神論的な見方に立っている。
◆「老化と死―その社会学的諸問題の考察」(1985年)
「20世紀以前、あるいはたぶん19世紀以前には、人々はひとりで生活したり孤独でいたりすることにもっぱら慣れていなかったという理由から、大部分の人間が人々の目の前で死んでいった、と言ってよい。人が孤独になれるような空間があまりなかったのである。後に来る段階の社会と違って、死と死者たちは、共同体の生活から截然と隔離されるようなことはなかったのだ」(113)。
「以上述べたことのすべてが、発達した社会に住む人々の視野から死を遠ざけさせ、そこでの日常生活の場の背後に死を押しやることに手を貸しているのである。現代社会のように人間がこれほど音もなく、かつこれほど衛生的に死んだことは歴史上かつてなかったし、これほど孤独を促進するような社会的条件の出現もまた、未曾有のことなのである」(128)。
[J0544/201201]