Month: December 2024

ノルベルト・エリアス『死にゆく者の孤独』

中居実訳、法政大学出版局、1990年。「死にゆく者の孤独」(1982年)と「老化と死―その社会学的諸問題の考察」(1985年)を訳出したもの。

◆「死にゆく者の孤独」(1982年)

私たちは死すべきものたちの共同体なのだという明晰な認識の獲得としての、「死の脱神話化」の必要。

「困窮や死からの救いをかつて超俗的信仰組織の中に求めていたあの情熱的な感情は、比較的発達した社会にあってはいくらか弱まり、部分的には世俗的信仰組織の中へと移行していった。自己のもろさを守り支えてくれるべきものへの渇望は、中世におけるそれと比べこの数世紀の間に――社会が別の文化段階に移行したことの象徴として――目に見えて低下した。より発達した国民国家では、人々の安全のための対策、病気や突発的死のような酷い決定的打撃に対する防衛策が、以前に比べはるかに整備されている。おそらく、人類の全歴史を通してもっとも整っていると言っていいだろう」(11)

一方で。「寿命はより長くなり、死はさらに先に延ばされる。臨終や死体を直接目にすることはもう日常的なことではなくなった。普通に暮らしているかぎり、死を容易に忘れ去ることができるのだ。つまり、人間が死を抑圧しているということである」(13)。

アリエスへの批判で有名な本書だが、全面的な批判というほどでもない。

「現代と比べ、死は、当時若者にも老人にも毫も隠されたものではなく、至る所に見られるごく身近なものだった。といって、死が現在より穏やかなものだったということではない。それに、死の不安の社会的水準もまた、中世の多くの世紀を通じて必ずしも同一とは言えなかった。14世紀にこの不安は目に見えて大きくなった」(22)。要するに、「飼いならされた死」の議論の部分を、資料選択の問題も含めて、批判している。

たとえば、次。「かつて死は、現代よりはるかに公共のものであった。多数の人々がそれに関わっていたのである。一人で居ることがまれだったので、そうであるほかはなく、いわば当然の帰結だったのである」(27)。エリアスにいわせれば、そもそもプライベートな領域が確保されていない状況で、死がパブリックなものであったのは当然だというわけである。

「死の隠蔽と抑圧、言い換えれば、あらゆる人間存在の一回性と有限性の隠蔽と抑圧とは、人間の意識の中の非常に古い部分に属する。しかし隠蔽の方法は、永い時の経過の中で特別な流儀で変化した」(55)。フロイトの話にも。

子どもに向かって「おじいちゃんは天国にいるんだよ」式の言いくるめをすることについて(61-62)。「人間存在の取消すことのできぬ有限性を集団的願望幻想〔不死の願望〕によって――とりわけ子どもから――覆い隠し、さらに、この隠蔽そのものをかなり厳しい社会的検閲によって守ろうとする傾向が、われわれの社会では依然として非常に根強く、かつ日常化していることがわかるのである」(62)。

「人間の死に関して言えば、死を隔離し、死を特殊な領域へと変えてしまうことで死そのものを隠蔽しようとする傾向は、前世紀以来ほとんど衰えず、むしろ強まっていると見てよい」(66)。

死の社会学的問題を考えるための、エリアスが整理している現代社会の特徴。①個人の寿命の伸び。②自然的経過としての死という観念。「死とはひとつの自然的経過の終局である、との認識は、不安を大きく和らげてくれるのである」(71)。③現代の社会の比較高い内部的安全性。④人間の個別化。そして、孤独な死というモチーフへ。

しかしながら。「過ぐる2つの大戦では、大部分の人間が、殺人・瀕死の人間・死に対する感受性を比較的急速に失ったことははっきりしている」(77)。

エリアスの見方の下敷きには、もちろん、彼の文明化論がある。また、彼自身は、死の本質を断絶とみなし、そのことを認識すべきであるとの無神論的な見方に立っている。

◆「老化と死―その社会学的諸問題の考察」(1985年)

「20世紀以前、あるいはたぶん19世紀以前には、人々はひとりで生活したり孤独でいたりすることにもっぱら慣れていなかったという理由から、大部分の人間が人々の目の前で死んでいった、と言ってよい。人が孤独になれるような空間があまりなかったのである。後に来る段階の社会と違って、死と死者たちは、共同体の生活から截然と隔離されるようなことはなかったのだ」(113)。

「以上述べたことのすべてが、発達した社会に住む人々の視野から死を遠ざけさせ、そこでの日常生活の場の背後に死を押しやることに手を貸しているのである。現代社会のように人間がこれほど音もなく、かつこれほど衛生的に死んだことは歴史上かつてなかったし、これほど孤独を促進するような社会的条件の出現もまた、未曾有のことなのである」(128)。

[J0544/201201]

A. R. ホックシールド『タイムバインド』

副題「不機嫌な家庭、居心地がよい職場」、坂口緑・中野聡子・両角道代訳、ちくま学芸文庫、2022年。原著は1997年、邦訳原本は2012年。

感情労働論で有名な著者。少なくとも日本では、感情労働論の受容のされ方はおかしな感じになっている気がしているのだが、この本は目から鱗。「仕事は労役、家庭は癒し」という大前提自体を問題にしているところが凄い。

第1部 時間について:家族の時間がもっとあれば
 「バイバイ」用の窓
 管理される価値観と長い日々
 理想だけの子育て支援
 家族の価値と逆転した世界
第2部 役員室から工場まで:犠牲にされる子どもとの時間
 職場にささげること
 母親という管理職
 「私の友達はみんなワーカホリック」―短時間勤務のプロであること
 「まだ結婚しています」―安全弁としての仕事
 「見逃したドラマを全部見ていた」―時間文化の男性パイオニアたち
 もし、ボスがノーと言ったら?
 「大きくなったら良きシングルマザーになってほしい」)
第3部 示唆と代替案:新たな暮らしをイメージすること
 第三のシフト
 タイムバインドを回避する
 時間をつくる
訳者あとがき
文庫版訳者あとがき
解説:家庭とは何か?仕事とは何か?(筒井淳也)

本研究の調査対象は、アメルコというアメリカの、ワークライフ・バランスの問題にも理解のある企業。著者は、こういう制度が整った企業にもかかわらず、なぜ短時間勤務を選ぶ人がきわめて少ないのか、という問題を立てる。

現代アメリカでは、「家庭が仕事で、仕事が家庭」になってしまっているという。
「家庭生活と職業生活に関する新しいモデルの中では、疲れた親は、決着のつかない口論や汚れた洗濯物から逃れて、職場の頼もしい秩序や調和、管理された快活さの陰に避難する。家庭と職場の下にある感情的磁場は逆転しつつある。実際には、この逆転は様々な形で起こっており、その程度も多様である。一部の人々にとっては、仕事は家庭のゴタゴタから逃れる安息の場となっている。ほとんど仕事と結婚して、かつては家族のためにとっておかれた感情を仕事に投入しつつ、家族では愛する人を信用できずにためらっている者もいる。」(99)

役員たちについて。「疲労困憊する重役としての生活は、家庭生活に比べると、予測可能なもので、様々なマイナスの感情から守られてもいた。最もやっかいなトラブルが引き起こされるのは家庭生活においてであった」(137)。

男性にとっては、仕事で野心的であることが一種の義務になっていること。「奇妙なことに、同僚や上司の目から野心がないと見られることを恐れる心性が、アメルコの男性社員の間では組織運営上の強い絆となっていた」(190)

「ベッキーは結婚には何か「いいこと」があると信じ続けてはいるものの、娘たちに実際に伝えている文化資本とは、女の子は離婚を予期するもの、という考えである。社会階層の下方に向かうにつれ上昇すると言われる離婚率を考えると、この文化継承は悲しい意味をもつ。」(298)

いま、「仕事に逃げる」傾向は、男性にだけみられるのではなく、むしろ女性の方が強いくらいだという。そこでは、夫婦間で「家庭や育児の仕事を押しつけあう」ような状況になっている。加えて、昨今の離婚率の上昇は、たんに家庭内が不安定という状況が当たり前になるだけでなく、女性の側が家庭に専念することをむずかしくしている。

「「みんなにいつも言うんです。リラックスするために仕事に来ているのよ、って。こんなことを言うと誤解されるかもしれませんが、私にとっては八時間、リラックスできる時間なんです。仕事に出かけて、子どもが目の前から消えて、心配しなくてもいい。マリオも同じです。働くって、とってもリラックスできることなんです。仕事では、私が思った以上のことができます。家では、子どもの欲することしかできませんから」」(340-341)

「ディブは、週替わりの七日間勤務を「気に入っている」と話す。マリオは自分を「超過勤務好き」と呼ぶ。その間で、ジェンダー間の闘争が見られるが、本物の敗者は子どもたちである。この種の戦争では、暗に、子育てという仕事に対する価値の切り下げが引き起こっている。ディブとマリオも、子育てにもっと価値があると思えれば、ここまで子どもたちから逃れようと必死にならないだろう。」(349)

「総合的品質管理が「豊かな」職場環境により労働者を「さらに熟練させること」をめざしているのに対して、家庭では親たちが資本主義と技術の進歩によって非熟練化されつつある。時とともに、手織りの衣服や手づくりのせっけんとろうそく、家で燻製や塩漬けにした肉や家で焼いたパンの代わりに、店で買った物が使われるようになった。インスタントミックスや冷凍ディナー、テイクアウトの食事が、お母さんの手料理に取って代わった。保育所や老人ホーム、非行少年のための野外訓練、そして心理療法さえもが、ある意味では、かつて母親が家庭で行っていた仕事の商業的な代替物である。」(374)

こうした状況で割を食っているのは、子どもである。子どもに割かれるべき時間を奪うことで、現代の労働状況が成立している。

「テイラー主義化された家庭において、過度の負担を示す信号を最もはっきりと出しているのは、ジョシュやピートのような子どもたちである。・・・・・・親たちは、ストップウォッチを手に食事や寝る時間を監督し、「無駄な」時間をなくそうとする上司のような存在になりつつある。」(388)

「実際に、ジミーは時間の負債という奇妙な重荷を背負って勤務している。・・・・・・彼はアメリコでより長時間働けるよう、家族から時間を借り、多くの働く親と同じように、家庭に時間の負債を積み上げる。息子やパートナーや未来の自分の口座にさえ、いつも必ず返すからと誓いながら、多重「ローン」を抱えている」(392)

もちろん、父親であれ母親であれ、子どもや家庭に対し、そこになんの価値も感じていないわけではなく、そこには罪悪感や葛藤がある。こうした状況を乗り切る上で、「感情的禁欲主義」が広くみられるようになっているという。

多くはないが、次のような箇所では、職業の階層差についても触れてある。

「仕事は無慈悲な世界であり、今なお家庭が避難港であるという「避難港モデル」がある。アメルコの従業員で、この伝統的な「避難港モデル」にいくらかでも該当する者は、その多くが工場労働者である。工場労働者の仕事は他の職種と比べて快適でなく、職場のコミュニティも発達していない。ブルーカラーの多くの男性とさらに多くの女性にとって、家庭は今はなお職場よりもはるかに強く港として機能している」(362)

ブルーカラー職、労働環境の相対的な劣悪さ、家庭の感情的価値、ジェンダー分業といったことが結びついているわけだ。ホックシールドは書いていないが、おそらく、子育てにナーヴァスになる傾向が、ホワイトカラーの方が強いだろうから、そのこともこの「絡み合い」に関わっているはず。

訳者あとがきのまとめから、「ホックシールドは、現代の企業の労務管理は、家庭を配偶者に委ねて仕事に全力投球できる「完全労働者」を標準モデルとしているが、現実には「完全労働者」は少数であり、大多数の人々は育児や老親の世話など何らかの家庭的責任を負いながら働いているという」(520)。

この辺になると、ケア労働や「ケアの倫理」論とも通じる話となっている。本書が重要なのは、たんに「ケアの倫理」を支える社会的・制度的基盤が希薄であるというだけでなく、労働者個々人においても「ケアの倫理」を担うことに対する心理的プレッシャーが存在し、それが「ケア」を排除した職場への専心へと向かう理由のひとつ――つまり、いわば、個人における「主体的」な理由に――になっているということだ。

[J0543/201201]