Month: January 2026

長谷川健司「クローズド・システム」

副題「サイバネティクスと冷戦期の生態学的想像力」、『現代思想』2024年7月号、191-200頁。

ウィーナーのサイバネティクスでは、熱力学第二法則=エントロピー法則が核心におかれ、その例外としての「生命」に特別な位置があたえられている。生物と機械とは、「宇宙を貫く無秩序化の傾向に逆らう『ポケット』」としてパラレルな存在とされる(192)。サイバネティクスが意識されなくとも、こうした世界観は広く現在まで影響を及ぼしている。こうした世界観に懸念を抱いていたのが、イヴァン・イリイチである。

イリイチは、生態学が管理と操作へ向かう欲望と結びついていることを懸念した。この観点からは、「宇宙船地球号」という捉え方も批判されるべきことになる。「人間が「宇宙船地球号」の構成員だとみなされるとき、環境倫理と呼ばれるものは、科学者によって設計された「生命維持システム」に奉仕する宇宙旅行者のライフスタイルを採用するかどうかという選択の問題へと矮小化することとなる」(197)。そこに規律訓練と統治の思想との結びつきがある。
〔所感〕なるほど、現在のSDGsなどにも適用可能な批判。宇宙飛行士が外からみた青い地球の鮮烈な画像とともに、こうした生態学的イメージが、強いロマンティシズムと結びついていることに注意しておきたい。

長谷川氏は、じつはイリイチの件と同形の問題意識を、ウィーナー自身も抱えていたことを指摘している。サイバネティックスとはいったい何だったかを見極めなくてはならない、「私たちはそうすることではじめて「宇宙船地球号」から下船するためのチケットを手にすることができるのである」(198)と、この論考は締められている。

[J0631/260114]

高畑鍬名『Tシャツの日本史』

中央公論新社、2025年。よい社会史・文化史の本は、研究としても価値があるし、読み物としてもおもしろい。これはそんな一冊で、広い層にお薦めできる。丹念にTシャツの歴史、とくにタックイン・タックアウトの流行の変遷をたどっていくのだが、たんに冷静にというのではなく、なぜかそこに著者の熱い怨恨の情がこめられているところがまたおもしろい。

序章 ぼくらがTシャツで旅に出る理由
第1章 誕生 1868-1955
第2章 思春期 1956-1979
第3章 失踪 1980-1988
第4章 反抗期 1989-2004
第5章 黒歴史 2005-2010
第6章 輪廻転生 2011-2024
終章 2075年のナード・ファッション 2025-2075


抜き書きメモ。
「太陽族や六本木族は、特殊な少数の人たちによって形成されていた集団だった。みゆき族では、中学生が参加できるほど、ファッションへの敷居が下がったのだ」(88)。

1980年代、雑誌の時代。「まわりに「あいつ遅れている」と思われたくない。気がつけば日本中で、かつてないほどの同調圧力が生まれていたのだ。雑誌の時代というのは、呪いの時代の始まりでもある」(109)。

「渋カジによって雑誌と路上の関係がひっくり返った」(134)。「リアルタイムというのは油断している」という、半田健人氏の言葉が思いだされる。

「若者立ちの間で、ファッションに対する初期衝動が「何らかの逸脱」ではなくなったこと。ここがポイントだ。一つ上の世代へのアンチテーゼの意味合いが消えたのである。渋カジ族までは、服を着る行為のなかに、前の世代が「ナシ」だと思っていたファッションを「アリ」にする文脈のハッキング、攻撃的な意図が含まれていた。渋谷系以降は、そのような文脈の書き換えは主題にならず、文脈の再発見と共有へと若者たちの気持ちがうつっていく」(158)。

「ファッションの流行は、制服化していく。みんなと同じ制服を着ていないことは一目でわかる。だから暴力的なのだ」(170)。

「洋服が日本に導入されて150年。Tシャツを主軸にしながら若者たちのファッション観をたどっていくうちに発見できるのは、服を選ぶときの動機が三つしかないことだ。1.街を挑発したい 2.モテたい 3.バカにされたくない。ここにさらに4番目としてノームコア的な「服を選びたくない」を入れてもいい。ポイントは、1番と4番は商売にならないことである」(205)。

「Tシャツの日本史は、不良とおたくの二本柱による螺旋階段だ」(234)。

「いまは歴史にいつでもアクセスできてしまう。アニバーサリーが意味をなさない。若者たちは、○○コーデと称して気軽にいろんなスタイルを取り込んでいく。尾崎豊コーデ、吉田栄作コーデといったハッシュタグに、消費期限はないのである。忘れられることがなくなると、ファッションの時刻表は狂ってしまう」(239)。インターネットのアーカイブによって、ファッションの時代的遷移のありかた自体が根本的に変化したと。

[J0630/260104]

E・O・ウィルソン『人類はどこから来て、どこへ行くのか』

エドワード・O・ウィルソン、斎藤隆央訳、ちくま学芸文庫、2025年。原著は The Social Conquest of Earth, 2012で、邦訳単行本は 2013年刊、文庫化にあたって一部図版が割愛されているらしい。ていうかじつは、単行本の方は積ん読の山のなかで遭難したままなんだよなあ。

真社会性の獲得という画期。
ひとつの条件としての、サイズ。昆虫は外骨格のため、哺乳類ほど大きく成長できない。そうすると、火を使いこなすことができない。

ヒトの進化の前適応。一、陸上での生活。水中では火は使えない。二、身体の大型化。三、物をつかむ手。

真社会性を発達させるまでの選択過程の問題。
利己的遺伝子のアプローチと結びついた血縁選択の過程にもとづく包括適応度の一般理論は、ウィルソンはこれを破綻したものとして否定する(本書ではあちこちで論じられている)。利己的行動と利他的行動のあいだで、「人間社会では、個体レベルの自然選択とグループレベルの自然選択のあいだで、本来的に解消できない争いがある」(76)。「したがって、現生人類の社会的行動を規定する遺伝コードがいわばキメラとなることは避けられない」(77)。この論点は、24章でまた主題として論じられる。「「真社会性」が、生命史上まれにしか誕生していないのは、個体選択の力を弱めるために、グループ選択がことのほか強く働く必要があるからだ」(77)。

世界に支配的な位置を占めるアリ。大きなイノベーション、植物の液汁を主食とする昆虫との提携関係を結んだこと。食糧を提供してくれるそうした昆虫を彼らの「乳牛」とした。ウィルソンが気づいた原理、「巣が労力と時間をかけて複雑でコストの高いものになるほど、それを守るアリの獰猛さは増す」(169)。

真社会性の新理論。「高度な社会的行動をもたらす要因は、防御可能な巣、とくに作るのにコストがかかり、持続可能な食料源の近くにあるような巣を持つという利点だ」(239-240)。「真社会性の第二の段階は、真社会性への変化をいっそう起こしやすくする他の形質が偶然蓄積するというものだ。なにより重要なのは、巣のなかで育つ子を熱心に世話することである」(240)。第三の段階は「真社会性の対立遺伝子の誕生だ」(241)。第四の段階、「原始的な社会性をもつハナバチや狩りバチの家族のように、親とそれに服従する子が巣にとどまると、コロニーのメンバー間の相互作用によって新たに生じる形質のみを対象とするグループ選択が進む」(241)。「最後に第五の段階では、(コロニー間の)グループ選択が、さらに高度な真社会性の種のライフサイクルや階級システムを形成する。その結果、多くの進化の系統は、きわめて特殊化した複雑な社会システムを進化させた。そんなシステムの極地は、ヒトではなく昆虫・・・・・・でみつかっている」(243)。

真社会性の進化にかんする理論を構成する段階(243-)。
(一)グループが形成される。
(二)グループ内に前適応の形質が必要最小限の組み合わせで生じ、堅固なグループを形成させる。
(三)グループの持続のうながす変異が、たいていは移動分散する行動をさせなくすることによって現れる。
(四)昆虫の場合、ロボットのようなワーカーの誕生やグループのメンバー間の相互作用によって生じる新たな形質が、環境の力でうながされるグループレベルの選択をもとに形成される。
(五)グループレベルの選択が、昆虫のコロニーのライフサイクルと社会構造に、えてして異様に極端なまでの変化をもたらし、複雑な超個体を生み出す。
 ただし、最後のふたつの段階は昆虫など無脊椎動物でした起きない。したがって、ヒトがどうやって独自の社会的条件を形成したのかはまた次の問いとなる。

チンパンジーと二歳半の幼児とで知能検査をすると、物理や空間把握の能力は同等だが、「社会性を調べる各種のテストでは、幼児のほうがチンパンジーよりはるかに高い能力を示した」(293)。「どうやら人類が成功を収めたのは、あらゆる課題に取り組む一般知能が高いためではなく、生まれつき社会的なスキルに長けているからのようだ。コミュニケーションを図ったり意図を読んだりして協力することによって、集団は単独の人間で取り組むよりはるかに多くのことをなし遂げるのである」(294)。

「善と悪のジレンマは、マルチレベルの選択によって生み出されたものだ。この選択では、個体選択とグループ選択が、同じ個人に対して一緒に働くが、互いにほぼ反対方向に働く。個体選択は、同じグループのメンバー間での生存競争や繁殖競争がもたらす現象であり、各メンバーに、他者に対して基本的に利己的となるような本能を身につけさせる。これに対しグループ選択は、環境を利用する際に直接対立したり能力差があったりすることによって、社会間に生じる競争で成り立っている。グループ選択はまた、個人を互いに利他的になりやすくする[中略]ような本能を生み出す。個体選択は罪と呼ばれるものの多くをもたらす一方、グループ選択は美徳の大半をもたらすのだ」(313-314)。

宗教の話。じつは本書は、冒頭から、宗教の創世神話を科学的探究と対置させて否定することからはじまっている。第8章では、各宗教伝統と戦争との関連についても論じている。

第25章は「宗教の起源」。やはりまず、宗教と科学を対置させる。宗教の神話的世界観を科学的知見から否定しつつ、「組織化された宗教は同族意識の表れだ」(338)・「宗教の目標は、その同族の意志や共通の利益となるものに従わせることなのである」(339)と述べる。「宗教の非論理性は、弱みではなく本質的な強みだ。特異な創世神話を受け入れることが、信者同士を結びつける」(339)。さらには、創世神話の生成に、夢や特異な精神状態、幻覚剤の役割を強調する。第27章も参照のこと。「組織化された宗教やその神々は、現実世界の大半を知らぬままに考え出されたのに、あいにくまだ歴史の浅いうちに確定されてしまった。当初と同じく、いまだにどこでも同族意識が表れたものにほかならない」(380)。

留保つきの部分ではあるが、「宗教的信仰は、人類の生物学的歴史のなかで避けられなかった見えざる罠と解釈するほうがいい。そしてこれが正しければ、服従や隷属をしなくても精神的な充足を得る方法がきっとあるはずだ。人類には、もっとよい待遇がふさわしい」と述べている(149)。つまり、宗教を服従や隷属と同一視しており、服従や隷属のない宗教はないこと、ありえないことが暗黙裏に前提されている。

宗教に反対する理由、「神話や神々が人を愚かに見せ、不和をもたらすからだ。また、どれも、真実かもしれない競合する多くのシナリオのひとつを言い換えたものにすぎないためでもある。それらは無知を助長し、現実世界の問題に気づかないように人々の注意をそらせ、しばしば人間を誤った方向へ導いて破滅的な行動をもたらすからという理由もある」(381)。

メモがてら、批判を試みる。宗教が不和の生成や無知の助長をすることがあるとしても、それだけが宗教がもたらす結果でもない。不和や無知の助長は当然批判するとしても、それを宗教自体への批判と重ねあわせることは論理的な手順か。宗教が集団結束の機能をもつとして、あるいはそれが進化上コアな機能だったとして、現在現実に宗教がもつ機能は集団結束のそれにはかぎられない。たとえば生物のある器官が、進化当初の機能から離れて、多様なあるいは派生的な機能をもつようになる現象は山ほどある。単純なことだが、宗教を批判するのは良いが、より論点を整理した上で批判を展開する必要があるのではないか。それにしても、デュルケーム的宗教理解の応用という問題は、ちょっと大事そうである。

さらに本書で展開されている大きな論点として、人文学との関係性のことがある。人文学の研究諸対象について、「それらをひとまとめにする認知プロセスの理解にも、それらと人間の遺伝的な本性との関係にも、先史時代におけるそれらの起源にも触れていない。こうした面が加わるまでは、人文学が十分な成熟を見ることはあるまい」(356)。全能感が凄い。

数理生物学者とのことだが、巌佐庸さんという方が解説を付しておられる。本書でウィルソンが強調している血縁淘汰否定論は、「人を惑わす言説といえる」(401)のだそうだ。もしそうだとすると、本書のうち結構な分量が否定されるな。

さて本書全体を一読したかぎりでの要約というか、全体メモ。ウィルソンは、生物の進化過程において真社会性の発達を重要なエポックとみなす立場から、真社会性を高度に発達させたアリやハチに注目し、それを人類進化の秘密を明らかにするための鍵でありヒントとみなす。以上の点については僕も異存はない。他方、アリやハチの進化は、人類の進化を語る試みにとってたしかに大きなヒントになるものではあるが、後者を語るにはまだまだ多くの過程の記述の必要そうだという感触がある。だから、人間の文化や宗教の原理を知った顔で語るには、まだ時期尚早ではないかという感想。アリやハチと、人間とを同列において語る進化論的探究の試みをはじめたパイオニアとしての貢献は大きいのだろうし、その方向自体はまちがっていない。しかし、シンプルな事実の問題として、アリやハチの進化と、ヒトの進化とのあいだには、まだ十分に把握されていない大きな条件のちがいがあるようにおもわれる。

人文学の徒として、進化論のベースの上で、アリやハチと、ヒトとを比べようとする試みが不適切だと言いたいわけではない。進化論の議論として、不備なのだと言っている。両者の条件のちがいに関する認識が不足しており、研究の進度という意味で、時期尚早だと言っている。おそらく、ヒトの進化を対象にすると、生物学という現在の範疇自体を拡大する必要性が出てくるものとおもわれる。ウィルソンのいう社会生物学でもまだ狭い。

[J0629/260103]