Month: January 2026

島本和彦『締切と闘え!』

ちくまプリマー文庫、2025年。おもしろすぎる。荒木飛呂彦にも仕事論の新書が二冊ほどあるけど、同じ漫画家でこれだけちがうと思うと、それがまた可笑しい。こういう文章だと、『吼えろペン』『燃えよペン』ともまたちがうリアルな感触がある。漫画のときよりちょっと素面で。

これだけ漫画にかける熱血ぶりなのに、家族との日常生活も大事、「たかが漫画」とはっきり言い切ってそのように生きるのが島本和彦のすごさ。実はぜんぜん「昭和」じゃないという。そこは荒木先生との共通点で、一見(ちがう方向に)ぶっとんだ両先生の漫画にふしぎなリアリティがこもる秘訣なのかもしれない。この本も絶妙なバランスで滑ってない、と思う。

はじめに 人生には締切がある
第1章 締切ってかっこいい
第2章 漫画家と締切
第3章 スーパー島本和彦、降臨
第4章 ごまかしてるんじゃない、安心させてるんだ!
第5章 嫌な仕事こそ完璧に
第6章 自分の「面白い」を取り戻す
第7章 机で死んじゃダメだ!
第8章 俺が一緒に殴られてやるよ!
第9章 でもやっぱり、締切があると頑張れる
おわりに かっこよく負ければいい
付録 カウントダウンbook傑作選

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阿部幸大『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』

光文社、2024年。話題書をのぞいてみる。この本だけの話じゃないんだけど、この種のテキストって、実際に順番に読んでこなして、論文の技能を身につける人っているのかな。あまり想像ができない。そういう授業を受けたことはないけど、本の順番に授業をするっていうなら、まあ、ありえるのかな。初学者にポンと渡すのには躊躇する。むしろ、一定の経験のある人が「あるある」本として読むものという気がするが、どうか。

原理編 アーギュメントをつくる;アカデミックな価値をつくる;パラグラフをつくる
実践編 パラグラフを解析する;長いパラグラフをつくる;先行研究を引用する;イントロダクションにすべてを書く;結論する
発展編 研究と世界をつなぐ;研究と人生をつなぐ
演習編

本書の立場のひとつの特徴、必要なのは「アーギュメント」であって、「論文に問いは必要ない」と主張する。「問いは、あってもかまわないし、ある場合が多いし、効果的に用いることも可能だが、問いの有無は論文の成否における条件とは本質的に関係がない」(3)。「論文とは何か?」は「問い」で、「論文とはアーギュメントを論証する文章だ」という主張内容が「アーギュメント」らしい。あんまり説明がないのでこれ以上はよく分からないのだが、執筆者の内面から湧き立つ何か、みたいな「問い」の要求を論文の要件として相対化しておきたい、ということだとこっちで勝手に解釈するなら、まあ、分かる。要は「問い」という言葉を持ちこむ必要はないということかな。

有益な「演習」として参考になりそうなところ。
先行研究の「アーギュメント」ないし「アーギュメントにもっとも接近している箇所」を、それだけをあらわす蛍光ペンでハイライトする演習。さらに、そのアーギュメントを自分の言葉でパラフレーズする演習。

その要領で、本や論文の全体のアーギュメントを特定・抽出するとともに、各章のアーギュメントについてもハイライトする演習。

また、アーギュメント以外にも引用可能性があるところを特定し、ハイライトするやりかた(98-99)。本書著者の場合として、①赤:ぜひとも引用したい。②青:引用する可能性がある。③緑:重要なデータ、ファクト、情報。この本からではなく、自分で一次資料にあたって引用。④下線:読んでいて軽く重要だと思った箇所。

人文学の目的について。「人文学というものの究極目的のひとつが社会変革」。「人文学の究極目的のひとつは、暴力の否定である」(138)。「世界をより良くするという究極目的」(138)。「文学部不要論や、「人文学ってなんの役に立つの?」といった問いにたいして、さまざまな回答を目にする。わたしの回答はシンプルだ。それは世界から暴力を減らしているのである」(139)。「暴力を減らすための言論活動の価値が世界から消えることはない」(139)。「研究が世の中の利益になる方法は、すくなくともふたつある。第一に、世の中を良くすること。第二に、世の中を悪くなくすることである。暴力批判はこの後者に奉仕している」(139)。

こういうことを意識することが大事なのはまちがいない。「究極目的のひとつ」と言っているのだから、まったくそれはそのとおり。

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西田洋平「サイバネティクスの二つの潮流と生成AI」

『現代思想』2024年7月号、119-129頁。

サイバネティクスから流れ出る潮流には、人間・生物機械論的な潮流と、人間・生物非機械論的な潮流のふたつがあり、後者は「ネオ・サイバネティクス」とも呼ばれる。本稿は、ウィーナーのサイバネティクスと、より近年の自己組織的システム論との連続性を強調する内容となっている。

「ネオ・サイバネティクス」に挙げられるものは、ハインツ・フォン・フェルスターのセカンド・オーダー・サイバネティクス、マトゥラーナ&ヴァレラのオートポイエーシス論、エルンスト・フォン・グレーザーズフェルドのラディカル構成主義、西垣通の基礎情報学がある。

ネオ・サイバネティクスの主題は、自律した=閉鎖的なシステムである〔システムの閉鎖性という語の使い方はとりあえず西田氏の記述のままで〕。機械は他律システムであり、だからネオ・サイバネティクスは人間・生物非機械論的なのである。もちろん、生成AIも他律的である。

自己を再生産する閉鎖的システムは「認知する」。「現実は個々の観察者によってつくられている、構成されていると考えなければならない。これがネオ・サイバネティクスによって導かれる、現実の構成主義的な捉え方である」(121)。したがってネオ・サイバネティクスは「個々のシステムに固有な意味世界を前提として、情報という概念を捉える立場である」(122)。

こうした見方の原点は、循環的メカニズムによって現実を制御する、フィードバック機構に注目したウィーナーにある。「たしかにコンピューターとして考えれば、無限ループはただ循環するだけで、意味のない処理である。それに対してウィーナーは、フィードバックという循環的メカニズムにこそ積極的な意味を見出していた」(123)。「ウィーナーが始めた目的論的機械としての生命システムの探究は、通常の意味での機械とは異なる機械という意味で「非機械論的」な生命システムのメカニズムを明らかにするところまで、たどり着いているわけである」(123)。

「ネオ・サイバネティクスのさらに特異な点は、こうした理解を自らの理解にまで適用する点である」。「ここに至って、循環的メカニズムはそれ自体の理解についても循環的メカニズムを通じて語るという段階へと突入している」(123)。

情報に関して、「しばしば誤解されているが、制御は目的がなければ意味がない。自動制御が文字通りの自動制御であるためには、目的が設定されていなければならない」(125)。生物は、生きていること自体が目的として機能している。〔システム制御に目的設定が必須というのはよく分かる。ただし、目的概念について他の用法との混同には注意が必要〕

生成AIの登場・普及は、「神経活動を形式ニューロンによる機械的処理の延長線上に捉えるという点で、サイバネティクスの人間・生物機械論的潮流の一つの到達点となっている」(126)。

一方、オートポイエーシス論(サイバネティクスの人間・生物非機械論的潮流)からみれば、人間の意識と生成AIとを重ねあわせる見方は明確に批判される。生成AIは明らかに他律システムである。また、言語能力のような機能にかんする特徴は、システム自体の特徴ではない。「オートポイエーシス論では、機能という概念は、目的や用途などと同じく観察者による記述の領域に属する概念であって、機械そのものを特徴づける概念ではない。その機械をその機械たらしめているのは、組織化の仕方である」(126)。組織化もまた観察者による記述によるものではあるが、組織化は機械それ自体のメカニズムを指すものだからである。

取り扱う言語やその意味の次元も異なる。「重要なのは、自律システム間のこうした調整的な相互作用が、言語の本来の役割として考えられることである。生成AIが操る言語データには、この意味での言語の動詞的な側面がない」(127)。

以上、本稿の要旨。生成AIと人間意識とを峻別する見方には説得力がある。すこし想像したのは、生成AI単体では閉じた自律システムを構成していないのはたしかだとして、「人間意識+生成AI」といったひとつの新しいシステムを想像することはできないかということ。あるいは、「人間の意識集合+ネット空間」についても同様。「インターネットの技術のおもしろいところは、「いいかげん」な技術の集合であることです。それが、なんとなく動く」(村井純『インターネット』岩波新書、1995年)。

[J0632/260114]