副題「フェミニズムの政治思想」、岩波新書、2024年。キャロル・ギリガン『もうひとつの声で』を軸にして、「ケアの倫理」論の射程を紹介する。自分的には一読しただけではどうもピンとこなかった In A Different Voice だが、本書を読むと、凄く影響の大きな著作だったのだと改めて分かる。

著者の岡野さんは、社会の現実や問題を見すえつつ、明晰な議論をする尊敬すべき研究者で、本書もたいへん勉強になる内容になっている。しかし、どれだけの人が途中で投げずに読み通せるか(理解できないのも読書とかいう開き直りはおいて)、疑問にも感じてしまう。(僕にはとてもありがたいのだが)学説史じたてだと、語彙も翻訳調になるし、分量としても歴史的・社会的前提の話がかなりを占めてしまう。本書を「ケアの倫理入門の決定版」みたいに位置づけてしまうと、多くの人がケアの倫理自体を難解だとして見捨ててしまう心配がある。「ケアの倫理」論は本当に大事だと思うだけに、もう一段階、取りつきやすくて、広く人に薦められる入門書がほしい。

序章 ケアの必要に溢れる社会で
第1章 ケアの倫理の原点へ
 1 第二波フェミニズム運動の前史
 2 第二波フェミニズムの二つの流れ:リベラルかラディカルか
 3 家父長制の再発見と公私二元論批判
 4 家父長制批判に対する反論
 5 マルクス主義との対決
第2章 ケアの倫理とは何か:『もうひとつの声で』を読み直す
 1 女性学の広がり
 2 七〇年代のバックラッシュ
 3 ギリガン『もうひとつの声で:心理学の理論とケアの倫理』を読む
第3章 ケアの倫理の確立:フェミニストたちの探求
 1 『もうひとつの声で』はいかに読まれたのか
 2 ケアの倫理研究へ
 3 ケア「対」正義なのか?
第4章 ケアをするのは誰か:新しい人間像・社会観の模索
 1 オルタナティヴな正義論/道徳理論へ
 2 ケアとは何をすることなのか?:母性主義からの解放
 3 性的家族からの解放
第5章 誰も取り残されない社会へ:ケアから始めるオルタナティヴな政治思想
 1 新しい人間・社会・世界:依存と脆弱性/傷つけられやすさから始める倫理と政治
 2 ケアする民主主義:自己責任論との対決
 3 ケアする平和論:安全保障論との対決
 4 気候正義とケア:生産中心主義との対決
終章 コロナ・パンデミックの後を生きる:ケアから始める民主主義
 1 コロナ・パンデミックという経験から:つながりあうケア
 2 ケアに満ちた民主主義へ:〈わたしたち〉への呼びかけ

以下、いくつかメモ。

ラディカル・フェミニズムによる家父長制の「再発見」。「ここに、17世紀に政治的な家父長制が市民革命のなかで批判されたことによって、別個の存在とみなされるようになった私的領域と公的領域の双方は、家父長制の再発見によって、社会全体を貫く権力構造をそれぞれ異なる仕方で、しかし協同して支える二領域として把握されるようになる。第二派フェミニズムの標語となる〈個人的なことは、政治的である〉は、彼女たちが再発見した家父長制概念を、一人ひとりの女性たちの実感により近い形で表現した言葉であるとも理解できよう」(49)。

アネット・ベイアーの議論から。「カントをはじめ男性哲学者たちは、人間にとって何が義務であるべきかを語ってきた。しかし、あるひとが、たとえば約束を真剣に受けとめるようになるには、誰かが、そうした人間社会の決まりごとを真剣に受け止めるよう子どもを育てる必要があろう。・・・・・・では、そのような子を育てる責任を担う道徳的理由はどこにあるのだろうか。嘘の約束をしたり、約束を破ったりすることがいけないことだと判断できる道徳的な能力をつけたひとを育てる義務は、存在するのだろうか。この問いに答えることなくして、〈嘘をついてはならない〉という義務は普遍化しえないのではないか」(143-144)。

「ベイアーは、ギリガンによるリベラルな道徳理論に対する挑戦の焦点は、個人主義、対等な関係の重視、選択の自由の重視、感情に対する知性の優位といった四点にあるという」(150)。

ギリガンの論文「道徳の志向性と発達」における中絶論(181-183)。中絶をケアの問題として枠づけなおしてみると、「胎児」対「妊娠した女性」といった二者択一とは異なる形の問いとなる。それは、中絶/出産の選択を、彼女と胎児を含めた、その他の者たちとの関係性やそれへの影響という視点から考慮するものである。

マーガレット・ウォーカーの道徳論、道徳をめぐる議論の二つのモデル。「一つは、主流の哲学・倫理学が依拠する道徳の「理論的=司法モデル」であり、他方は、フェミニズムの視点が反映されたオルタナティヴな道徳の「表出的=協働モデル」である」(195)。「「表出的=協働モデル」は、ある状況に埋め込まれた人びとの相互行為や、相互理解を媒介する、社会的価値が体現されたメディアを、道徳と考える。すなわち、わたしたちのコミュニケーションを媒介するのが、道徳的である。人びとを媒介するこのメディアとして道徳によって、ひとは互いに特定のアイデンティティを備えた人格として、また社会関係をとり結ぶ行為者だと理解する。その意味で、道徳は、わたしたちが物事や人物を判断するさいの、共有された語彙や価値観、判断基準の源でもある。さらに、わたしたちが道徳的な理解を深め、他者理解を表現するのは、社会的な関係性のなかで責任を求める/果たす・果たさないという実践を通じてである」(195)。

サラ・ラディクの「母的思考」論から。「子を育成することの目的は、子を社会的に受け容れられるひとへ成長させることであるが、すでに触れたように、その社会は暴力が蔓延し、とりわけ女性はそこで厳しい抑圧と剥奪をも経験している。したがって、母親業を担う者は、社会で受け容れられている価値について判断することを迫られる。しかし繰り返すが、当該社会は、母親業を担う者を無力化し、子の発する普遍的な要求――「生きさせろ」――に応える仕事の価値を貶めさえする社会なのだ。さらに、成長する子は刻々と変化を続け、また社会の価値観も世代によって大きく異なる。母親業を担う者は、相対立するかのような多くのアドヴァイスが奏でる不協和音に苛まれつつ、確固たる指針も道しるべもなしに、なお母親業を担い続けなければならない。たとえ彼女が信念に基づく、自分自身の良心に恥じない価値観をもっていたとしても、本当にそれが、未来の社会に生きる子にとって正しいかどうかを判断することは極めて難しい」(206)。・・・・・・なるほど、そうだよなあ。

ケアと暴力、ケアと安全保障、「暴力が生じる前に暴力を避ける」。おもてだって言及していないかど、岡野さんも、憲法第九条のことを考えているかな。

終章のコロナ関係の議論で紹介されている報告書のリンク。
「コロナ下の女性への影響と課題に関する研究会報告書」(内閣府男女共同参画局、2021年、座長・白波瀬佐和子)

[J0463/240503]