Month: February 2021

太田雄三『B・H・チェンバレン』

リブロポート、1990年。

1 出自と教育
2 「挫折」と日本学者の誕生
3 日本観の総合―『日本事物誌』
4 東西間の往復運動
5 バジルとヒューストン
6 晩年
略年譜

なるほど、『ラフカディオ・ハーン』でやたらにハーンを批判していた著者。ハーンを引き合いにだしてチェンバレンを下げる論法に腹を立てていたことがよく分かる(笑)。もちろん、こちらの書の方が批判を動機としていない分、読みやすい。そのチェンバレンも、目が悪いせいで銀行で働けないことが理由のひとつになって日本に来た、というのもおもしろい。

嫌いな船に乗って、何度もヨーロッパと日本を往復したチェンバレン。一番の動機が日本研究という仕事を為すことであったとしても、日本がただ嫌いだったらそれはむりだったろう。なお、ヨーロッパに里帰りした大きな理由のひとつは、ワグナーの楽劇を観賞することだったそうな。なんでも、チェンバレンの弟ヒューストンは有名なドイツ賛美者だったとか。

『古事記』を英訳をするぐらいだからチェンバレンも凄い人だったろうし、この時代にわざわざ日本に来るくらいだからその人生も波瀾万丈と言っていいとおもうが、ハーンの経歴があまりに特殊すぎだし、『怪談』の著者と学者肌の日本学者を比べてしまったら、どうしても人気という点ではね。

[J0137/210216]

神崎宣武『神主と村の民俗誌』

講談社学術文庫、2019年、原著は1991年『いなか神主奮戦記』。

問わず語りを聞く
八百や万の神遊び
マレビトの眼
恩師とはありがたき哉
恐ろしや火が走る
信心は宗教にあらず
家祈祷のはやりすたり
株神は摩利支天
中世の歴史再現
町づくりプロジェクトの十年
いまは亡き友人の誓い
神崎姓が二十四軒
直会膳の移りかわり
神と仏の「ニッポン教」
むらの祭りを伝える意義

宮本常一の弟子でもある著者、本書では岡山県小田郡美星町の神主といういわば当事者の立場から、1991年当時における中世以来の、しかし「変わりゆく民俗風景」を描く。著者の仕事の趣向や主題はいろいろだが、どれもそれぞれの「生活世界」に引き込まれる面白さ。

備中神楽における託宣神事の「演技」や、しかし火事の予言が当たった話。消えゆく民俗のほか、大晦日からの初詣や一年間の物忌など、メディアなどを通じて新たに「創られ」流入してくる種々の風習。社縁的な氏神、より地縁的・血縁的な産土荒神、さらに密な結合の株神の祭りという信仰の重層性。株神には摩利支天を祀ることが多いらしい。

それにしても、神主としてこれだけの仕事をこなしながらあの数々の民俗学的業績とは、驚き。これが宮本イズムだろうか。「あとがき」にあるように、平成の大合併や高齢化・過疎化をはじめとする諸々の社会変化を経て、ここに描かれている平成初期の状況、「あの時代の「むら」の、まだ活力のあった実情」もさらに遠くになってきているようだ。昨年からの話で言えば、新型コロナの流行も祭りや民俗慣行の衰退を各地で加速させたろうなあ。

[J0136/210215]

西成彦『ラフカディオ・ハーンの耳』

同時代ライブラリー、岩波書店、1998年、原著1993年の増補改訂版。

序・文字の王国
大黒舞
ざわめく本妙寺
門づけ体験
ハーメルンの笛吹き
耳なし芳一考

これはおもしろい。軽妙な筆致の裏にあってめだたないが、かなりの量の調査が下敷きになっていることも覗われる。数多く示されている図版もとおりいっぺんでなく、興味深いものが多い。

レフカダ島、ダブリン、ダラム、シンシナティ、ニューオーリンズ、マルティニーク島と、世界あちこちを周遊して松江、熊本、神戸そして東京に行きついたハーンの足取りそのままに、ハーンが聴き耳を立ててきた音を辿って、「耳なし芳一」に行きつくその様子を描きだす。本書を読むと、ハーンの経験すべてが「耳なし芳一」へと奇跡的に結びついていったような気がしてくる。

その内容は本文に譲るとして、「耳なし芳一」の感覚世界について一点だけメモを。「ハーンがこの話を「耳なし芳一」と題したのは、じつに反語的な命名であった〔原典では「耳きれ芳一」〕。この物語の中で、耳という耳は過敏になることはあっても、役割を放棄することはない」(183)。とくに亡霊の侍が、般若心経の呪いで姿を消した芳一を探す傍ら、目をつむってそのつぶやきをじっと聞かざるをえない芳一の場面。「闇の平等の中で、ふたりは異常に接近しあい、芳一は耳を全開にする。一方、なまじ視覚に依存しているサムライは、それでも目を凝らす。この対比の妙が、この場面の緊張を倍加している」(189)。まさにだ。

[J0135/210212]