Month: February 2021

筑摩書房編集部『小泉八雲』

筑摩書房、ちくま評伝シリーズ・ポルトレ、2015年。

プロローグ さすらい人の二つの旅
第1章 パトリックからラフカディオへ
第2章 辣腕記者ハーン
第3章 島から島へ
第4章 松江の幸福
第5章 「振り子」の日々
第6章 東洋でも西洋でもない夢
巻末エッセイ「むじな、または顔のない人」赤坂憲雄

その複雑な出自や経歴をたどりつつ、たんに日本礼賛だけじゃない八雲像を分かりやすく描いて、良書。これだけ質が高いのだから、著者名も出したらしいのに。奥付にすら情報がなくて、見返しに構成・文として斎藤真理子さんと書いてある。

八雲の怪談が再話であり創作であることを踏まえつつ、その物語としての力を確かめるくだり。日本社会や日本人に対して愛情だけでなく、それと同時に否定的な気持ちを持つ瞬間もあったこと。一点だけ難じるなら、松江や島根がひたすら辺境扱いされていること。鉄道が通っていなくても明治はまだ北前船のような海路が生きていたし、実際に今ほど格差は大きくはなかった。東京や熊本ほどに近代化し変化はしていなかったかもしれないが、だからといって「遅れていた」というわけではないのだ。

[J0130/210207]

池野誠『松江の小泉八雲』

山陰中央新報社、1980年。

松江時代のハーンについて詳しく記述されているが、いかにも郷土史家的というかマニア的というか、ハーンに興味があることは前提。とくに、小泉セツとの結婚までの経緯にすごく傾注。

ハーンは、ハーバート・スペンサーの信奉者だったそうで、スペンサー哲学と彼の日本趣味はどういう関係にあったのかな。

〔追記〕
同じ著者の『小泉八雲と松江時代』(沖積舎、2004年)もひととおり目を通す。『松江の小泉八雲』より読みやすく編集されている。やっぱりというか、太田雄三『ラフカディオ・ハーン』に対して激しく反批判。気持ちは分かるけれども、「正しいハーン像」なんて言ってしまってはなあ。

[J0130/210207]

梶谷泰之『へるん先生生活記』

松江今井書店、1964年。


因縁
三つの名前
ラフカディオ・ハーン 雇い入れの経緯
松江での生活
紀行と足跡
略伝と年譜
付録・資料及び写真説明
あとがき

以下、メモ書き。

八雲を世話し、そして深く信頼された島根県尋常中学校の教員西田千太郎の日記から。明治24年3月21日「休日、陰暦初午に相当すれども在郷人の出松せるもの極めて少かりしは、一は天気によると雖も一は大橋の人柱用に取らるる恐れありとの事を伝へしによると。蓋し、先に大橋杭の土中に没入して目下尚成功せざるを以て、口碑に存せる源助柱の事人口に上り、従て前述の如き風談の朴質なる田舎人の間に行はるるに至りしと見ゆ」。続いてハーンの「知られぬ日本」の記述。「新しい大橋の改架工事中は、何千人という田舎の人々は町に出るのを恐れた。というのは、再び新しい人柱になる源助が求められているという噂と、その人柱はまだチョンマゲを残している人の中から選ばれるということが広まったので、数百人の老人があわてて、チョンマゲを剃り落とした」。

明治24年5月29日「井上円了氏、今晩到着、其の旅館に訪ひ、帰途、ヘルン氏方に立ち寄る」
翌5月30日「朝ヘルン氏方にて井上氏に逢ふ。午後、相伴つて天守閣に登る」

明治24年11月には熊本に転居。明治25年5月28日「市中有志の計画にて本年より松江祭なるものを始め本日及明日之を執行す。本日は楽山神社、城山に渡御あり。其道筋は楽山より舟にて津田馬橋に渡り同所より同所より行列を整へ城山に至り夜に入りて石橋、川津村を経て還幸す。遊人群衆せり」。ハーンは、この西田からの手紙を「伯耆から隠岐へ」に採用。

石見では、温泉津にだけ訪れている。作品には出てこない。明治25年、隠岐旅行のため下関から境に行くときに上陸したらしい。浮布の池あたりも、訪れてみてほしかったなどと夢想。

[J0129/210206]