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ラフカディオ・ハーン『心』

平井呈一訳、岩波文庫、1951年。日本に来てからの著作としては『知られぬ日本の面影』(1894年)、『東の国より』(1895年)に続く、三作目。出版年の1896年は、ハーンが神戸から東京に移るとともに、帰化手続きがなった年にあたる。

停車場で/ 日本文化の真髄/ 門つけ/ 旅日記から/ あみだ寺の比丘尼/ 戦後/ ハル/ 趨勢一瞥/ 因果応報の力/ ある保守主義者/ 神々の終焉/ 前世の観念/ コレラ流行期に/ 祖先崇拝の思想/ きみ子

あれこれのエピソードにハーンが見つめる「日本」は、あくまでハーンが見出した日本と理解すべきだ。「まちがった日本像」だと言いたいわけではない。余人にはない、ハーンの神秘的に張りつめたまなざしにこそ映る、怪しい光を放つ光景があるということだ。

ハーンは、スペンサーと仏教の輪廻転生を重ね合わせる。美の感情、恋の衝撃こそ、輪廻の証拠であり進化の証拠であるとハーンは見る。強い感情は個人のエゴを超えている。それは人間として、先祖から受け継がれたものであり、その意味で遺伝の結果である。スペンサーも仏教も、個人の属性がたんに個人に尽くされないとする点で一致しているのである。

「いかなる美的感情にも、そこには、人間の脳髄の摩訶不思議な土のなかに埋もれた、百千万億の数えきれない妖怪玄妙な記憶のさざなみが動いている。・・・・・・〔美的理想に似たものを知覚したときの〕この身ぶるいこそは、生命の流れと時の流れとが、一時にどっと逆流するために、それに伴って起る現象なのであって、そこに百千万年、百千万億年を閲した感動が、一瞬の感激となって総括されるわけだ。」(「旅日記から」64-64)

「心理学者は、われわれにこう言っている。その〔初恋の〕蠱惑は、じつは、偶像崇拝者自身の心のなかに潜在する、祖先の力である、と。つまり、死んだ祖先が、まじないを施すのだというのである。恋するものの心におきる激動は、つまり、先祖の激動だというのである」(「因果応報の力」153)。「人間を死に導くような恋愛は、土中に埋められた前世の人の情熱が、この世に迷いでた、飢え焦がれる一念というだけではなくして、なにかそこに、もっと深い意味があるのではなかろうか。ひょっとすると、それは、長く忘れ去られていた前世の罪の、避けようとしても避けることのできない、因果応報を意味するものではないのだろうか」(164)。

「心理学進化の学理からいうと、生きているものの脳髄は、いずれも無量無数の死者の生命から構成されていることを示している。・・・・・・物にたとえていうと、人間の心は幽霊のすみかである」(「祖先崇拝の思想」260)

他の著作もあわせて、こんなかんじの感想を持つ。ハーンが描くところの輪廻や前世とは、重苦しく現世を縛り重くのしかかる鎖のようなものではない。初恋の瞬間、あるいは大きな不幸の瞬間に、電撃のようなヴィジョンとして一瞬垣間見られる、はるかな過去世界にまで広がっているほんとうの世界の成り立ちである。ハーンが心を寄せるところの「日本人」は、ふだんは隠れているそうした世界の成り立ちに寄りそって生き、それに殉じる人々なのだ。

[J0133/210208]

井筒俊彦『『コーラン』を読む』

岩波現代文庫、2013年、原著は2013年。なにか解説書一冊読んで『コーラン』が分かるなんてことはありえないが、これはでも最良の入門書では。イスラーム文化やイスラーム史について良質な入門書は数多いが、『コーラン』自体についてはどうだろうか、自分は知らない。

第一講 『コーラン』を「読む」方法
第二講 神の顕現
第三講 神の讃美
第四講 神の創造と審き
第五講 『コーラン』のレトリック的構成
第六講 終末の形象と表現(一)
第七講 終末の形象と表現(二)
第八講 実存的宗教から歴史的宗教へ
第九講 「存在の夜」の感触
第十講 啓示と預言

この書がありがたいのは、たんにテキストの字面を追うのではなく、『コーラン』を支える独特の感性や論理から説明してくれていることだ。それからまた、『コーラン』およびイスラームが、何でないか、何と対抗しているのかというところから、解きほぐしてくれているところ。

「我々にとって、『コーラン』は決して読みやすい書物ではない。といっても、別に字句がむずかしいわけではない。ただ、なんとなく妙な違和感があって親しめないのだ。表現されている思想、感情、イマージュ、そしてまたそれらを下から支えている存在感覚や世界像が、我々にとってあまりにも異質だからである。……仏教の経典や、ユダヤ教、キリスト教の『旧約聖書』、『新約聖書』とならんで、『コーラン』も世界宗教的な一つの古典だが、これを読むには、仏典や聖書を読むのとは違う一つの特殊な「読み」のテクニークが必要である。しかし、そのテクニークは、何か既成のものとして、我々の目の前に投げ出されているようなものではない」(398-399)。

[J0132/210207]

太田雄三『ラフカディオ・ハーン』

岩波新書、1994年。

第1章 来日前のハーン
第2章 ハーンと明治日本
第3章 ハーンの文学
終章 日本人のハーン発見

「虚像と実像」と副題にあるとおり、批判的ハーン論。ハーンを知る本の一冊目にはふさわしくないが、批判は批判で大事。

批判の焦点はふたつある。ひとつは、ハーンを持ち上げる読者側の動態について。もうひとつは、日本を描く際のハーンの視線や技法についてで、とくには後者が中心。後者にはさらにふたつの論点があって、ハーンの「人種主義的傾向」つまり本質主義的傾向がひとつ、それからハーンにおける「日本」の虚構性がもうひとつ。

著者は「人間性はどこでもだいたい同じだ」とするモース型と対比して、ハーンは日本人の日本人性を実体視しているとする。「モースにおいては、日本の方の優れていることがあれば、日本から学べばよい、のである。しかし、ハーンにおいては、違いは多くの場合、生まれながらの人種的違いに根ざしていると見なされる。したがって、それは越え難い違いなのである」(14)。

ハーンがそういう思想的傾きを持っていたのは、ほんとうなのかもしれない。が、それがどこまで彼の仕事や作品を規定しているかどうか。また、ハーンが描く「日本」の虚構性については、とくに晩年にいたってハーンの作品はより普遍的な世界に近づいているとして、いわばその虚構性に価値を見出す牧野陽子の評の方を持ちたい。ハーンが、作家であるような、日本文化論者ないし民俗学者であるような、中間的な存在であることが事態を複雑にしている。

要するにこの本の批判がほんとうに向けられるべきは、ハーンやその作品自体である以上に、それを「日本の文化を素晴らしさを正確に書き残した」と受けとめる素朴な理解に対して、である。こうした批判は、柳田國男あたりへの批判とも共通するだろう。モース型・ハーン型という類型も単純すぎるし、著者自身、結局は「虚構/実像」の二元論の上に立っている部分があるように見える。ハーンに対する素朴理解がきわめて根強い以上、そのかぎりでは必要な、現れるべくして現れた批判書ともいえる。

[J0131/210207]