Month: July 2024

島根の天狗

知切光歳『図聚天狗列伝 西日本編』(岩政企画、1977年)にも紹介されている本として、大正時代に出版された『幽冥界研究資料 第二巻』(1926年)には、島根県における天狗のエピソードが記録されている。この本は、心霊現象と昔ながらの怪談奇談がないまぜになったようなエピソード集であり、記録者の岡田健文は明治・大正時代の霊能研究者で、旧松江藩士の家柄だという。

天狗が現れた事例として、松江市内外中原町の愛宕神社と阿羅和比神社、鰐淵寺、枕木山、立久恵、旅伏山、石見多根の円城寺のエピソードが紹介されている。本書にはほかにも出雲の話題があって、女祈祷師の「瀧姫行者」の話などが記載されている。

国立国会図書館デジタルコレクション: https://dl.ndl.go.jp/pid/977094

[J0484/240713]

稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』

副題「ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形」、光文社新書、2022年。

序章 大いなる違和感
第1章 早送りする人たち:鑑賞から消費へ
第2章 セリフで全部説明してほしい人たち:みんなに優しいオープンワールド
第3章 失敗したくない人たち:個性の呪縛と「タイパ」至上主義
第4章 好きなものを貶されたくない人たち:「快適主義」という怪物
第5章 無関心なお客様たち:技術進化の行き着いた先

インターネット時代におけるZ世代の感性を説明して、いちいち分析に説得力があるところが衝撃的なレポート。

「普段から本を読まない人ほど、「この一冊で、ことの本質を言い切った系の本」が大好きだ。「これさえ観ておけばOK」のリストを求めるタイパ重視の人達と似ている。この種の人たちは「友人に共感しなければ」と焦り、個性のための趣味が欲しくてオタクに憧れるが、無駄は排したい。その結果、チートを求める。これらが行為として現れたのが、倍速視聴であり、10秒飛ばしであり、ファスト動画の存在であり、「観るべきリストを教えてくれ」という要望だ。彼らを「けしからん」と説教したり、「つまらない奴らだ」と憐れんだりするのは簡単だが、そう説教したくなる年長世代が若かりし頃には、キャリア教育の圧もSNSもなかった。もうひとつ同情すべき点がある。今の大学生には時間とお金がない」(175)。

「作品を主体的に鑑賞して解釈するのは「観るプロ」に任せる。「消費者」たる自分たちはプロの解釈や考察を聞き、観るべきポイントを先に教えてもらう。美術館や歌舞伎の音声ガイドのようなものだ。その上で安心して観る。ネタバレサイト、考察サイトを視聴前に読み込んで「正解を知りたい」勢は、このようなゲーム実況の視聴者に重なる。ゆめめ氏の「文脈を汲み取れる自信がない、私には評価できない」が思い出される。彼らは作品の鑑賞者ではなく、コンテンツ消費者に――むしろ積極的に――徹したいのだ」(267)。

コンテンツ消費について、表層的インスタント的にという志向自体は、とくに今日的現象というわけではない。きわだっているように見えるのは、自己の開示や他者との関わりに関する志向の変容だ。「消費者的態度」のなれの果てというか。実際、消費者である分には特別問題ではなさそうだが、人間はつねに消費者ではありえないわけでね。現代日本では、権利意識一般が消費者としての権利意識と「誤解」されているような気がする、と今思いついた。

[J0484/240713]

辻惟雄『あそぶ神仏』

副題「江戸の宗教美術とアニミズム」、ちくま学芸文庫、2015年。原本は『遊戯する神仏たち』、2000年。

1 日本美術に流れるアニミズム
2 変容する神仏たち―近世宗教美術の世界
  謎多い遊行僧円空にひかれて
  木喰と東北・上越
  野に生きた僧―風外慧薫の生涯と作品
  近世禅僧の絵画―白隠・仙厓
  白隠“半身達磨像”(永明寺本)
3 浮世絵春画と性器崇拝
  北斎の信仰と絵
  北斎晩年の“ふしぎな世界”
4 天龍道人源道の仏画

巻頭論文「日本美術に流れるアニミズム」が発表された1995年はそれが流行だったからか、というか、この論考自体が梅原猛古希記念論文集であったみたいだからこの概念を使っているのだろうけど、この種のアニミズムの用法は超歴史的すぎてやっぱりいただけない。ただ、実はアニミズムを論じているのはこの論文だけで、副題の付け方がおかしい。アニミズムのことは措いて、江戸の宗教美術論として十分に面白い。

仏教美術を渉猟するなかで得た、著者の江戸時代観が興味ぶかい。

「日本の宗教史の記述は、従来近世の宗教なかんずく仏教を、「世俗化」という概念でとらえてきた。それを精神史の文脈でとらえれば「衰退」にほかならない。….. 僧の堕落と幕府の宗教統制――この二つによって、仏教、神道を柱とする江戸時代の宗教は、無気力、低俗で創造性を欠くものとなったといわれる。だが、そのような見方は実は一面的なものにすぎない。近世の宗教は、たしかに民衆のレベルまで自らを下ろすことによって、貴族宗教であったときの高貴な聖性をうしなったのだが、それを俗化ということばで片付けるにしては、近世の宗教はあまりにも多様な活気に満ちている。」(42-44)

「近世の文化は、現実肯定の上に立った世俗文化といわれ、それが、中世文化と違う点だとされる。だが実際には、近世の精神文化は、近代・現代のそれにくらべると、はるかに仏教に依存したものだった。都会での僧侶の世俗化と堕落が批判される一方で、地方にはほこりにまみれ垢じみた僧衣をまとう遊行僧の姿があった。」(96)

「近世美術のなかで馬齢を重ねるにつれ、それが意外に宗教性の強いものであることを思い至るようになる。古代、中世にくらべ、彼岸への往生よりこの世での利益を求める傾向はたしかに増しているとはいえ、人びとの日常生活と神仏との交わりは、現代とはくらべものにならないほど深く親密であったことに気付くのである。」(237)

「円空・白隠など本書にあげた画僧や修験僧たちの活気と個性、それにユーモアあふれる仕事ぶりを見ると、低迷という言葉がむしろそらぞらしく、逆に意欲的であったというべきだろう。」(240)

「活気」という言葉が印象的。

[J0483/240713]