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川村邦光『弔いの文化史』

中公新書、2015年。前半は歴史の話、後半は著者自身のフィールドワークを活かした記述になっている。

 序章 天災と弔い
第I部 弔いの方法
 第1章 鎮魂とは何か
 第2章 火葬と遊離魂の行方―『日本霊異記』の世界
 第3章 弔いの結社と臨終の技法―源信の「臨終行儀」と活動
 第4章 女人の救いと弔い―蓮如の実践
第Ⅱ部 弔いの風習
 第5章 死者の霊魂の行方
 第6章 弔いとしての口寄せの語り
 第7章 ホトケ降ろしの語りと弔い
 第8章 弔いの形としての絵馬・人形
 第9章 災厄と遺影

折口信夫は、念仏踊りなどの風習から、「未完成な霊魂が集つて、非常な労働訓練を受けて、その後他界に往生する完成霊となることが出来ると考へた信仰」を想定したという。「「未成霊」は孤独なのではない。この世の若者の修練・苦行によって、あの世の「未成霊」を成熟させることができ、生者と死者は連携して、あるいは連帯して、ともに「魂の完成」を果たすことができるとするのである」(165)。

たしかに、こう説明すると、あれこれの民俗行事の意味を説明できるような気はする。著者はこのような「霊魂を成熟させる風習」として、ムカサリ絵馬にも言及する。

「彼岸と此岸で同時並行する、未熟な霊魂から完成した霊魂への発展、すなわち霊魂の更新とは、折口の言うタマフリの概念に相応しよう。このタマフリはタマシズメ、おそらくいく度にも及ぶタマシズメを重ねることによって達成させる。こうした未決の霊魂を更新させようとする実践は、生者と死者のともに営まれる、弔いの社会的な心性史のなかに位置づけることができるのではなかろうか」)(266)

[J0588/250709]

相馬拓也『遊牧民、はじめました。』

副題「モンゴル大草原の掟」、光文社新書、2024年。
調査をしてもやっぱり、モンゴル人は乱暴で自分勝手だ、というような告白からはじまる書だが、全体としてはちゃんとしたエスノグラフィー。やはり、背景には厳しい自然環境があるということもわかる。

第1章 遊牧民に出会う
第2章 草原世界を生き抜く知恵
第3章 遊牧民にとっての家畜
第4章 野生動物とヒトの理
第5章 ゴビ沙漠の暮らしを追う

アルタイでの暮らし、「冬の暮らしは、まるで嵐をやり過ごすように、静かにじっと耐え忍ぶように過ぎてゆく。そんな生活の娯楽はやはり世間話だ。なかでも、○○のやつが死んだとか、△△の息子が悪さをしたとか、隣人の生活事情や人間模様を、日がな一日ずっと聞かされ続けた。どんなご家庭を訪問しても、人間模様の話題は尽きず、本当にお互いがお互いをよく知っているものだなと、ある意味感心させられた。狭く変化の乏しいコミュニティ、いわばムラ社会にとって、何よりの楽しみは「話題」なのだと感じさせられる」(171)。

「コミュニティに溶け込むことは、それほど難しいことではない。強いていえば、①現地語の習得、②隣人・知人の名前を覚えること、③コミュニティの内部の人間関係に精通することの3つができれば、どんなコミュニティの壁も乗りこえられるはずである」(172)。

「最近の牧夫たちは、家畜を増やすことに必要以上の執着と熱意を注ぎ込んでいる。富めることと、金を得られることがすべてに優先するという、独自解釈の歪んだ資本主義観が遊牧民の金銭感覚や弱肉強食観と融合した結果、モンゴル人の拝金主義と権威主義、かつ他己犠牲の精神を加速度的に社会に浸透させるようになってしまったのだ」(177)。

家畜個体識別能力の高さ、家畜の分類体系(呼称)の精密さの話。ウマの毛色も、著者の調査によると142色を識別していたそうで、一説では400色の分類があるらしい。

特別な存在としてのラクダ。「ゴビ砂漠の遊牧民とラクダとの関係を表すのに、次の語りほどよく表したものはない。「かつてのラクダの騎乗には、”ウージン”と呼ばれる籠が用いられたよ。このウージンは、草原での燃料となる糞集めのカゴとしても利用されたんだ。ウージンを裏返して台にして、妊婦を横たえて、出産の分娩台にもしたしね。葬儀のときには、裏返したウージンをラクダの左右に載せ、故人をコブのあいだからウージンに横たえて葬送したものだ」」(313)。

[J0588/250705]

中村高康『暴走する能力主義』

副題「教育と現代社会の病理」、ちくま新書、2018年。メリトクラシー論とギデンズの再帰的近代論をくみあわせて、いまの教育システムの機制を論じる。そこそこの抽象度で、具体的な教育の話を求めている人にはあわなさそうだが、論旨明瞭、すくなくとも僕には有益な見方を与えてくれる。

第1章 現代は「新しい能力」が求められる時代か?
第2章 能力を測る―未完のプロジェクト
第3章 能力は社会が定義する―能力の社会学・再考
第4章 能力は問われ続ける―メリトクラシーの再帰性
第5章 能力をめぐる社会の変容
第6章 結論:現代の能力論と向き合うために

「メリトクラシーという近代的なシステムは、前近代的な世襲ないし血縁にもとづく伝統的な地位継承のシステムに代替するものとして登場したが、前近代的な選抜システムほど明確な基準は持てないものであった。なぜなら、社会全体で共通するような能力というものは、抽象的なものでしかありえず、また抽象的能力であればそれは容易には測定しがたいものでしかなかったからである。そして、具体的に世の中を回していくために、学歴や学校の成績、資格といったものを暫定的に「能力」の指標とみなして、それらの保有者を厚く待遇するシステムを構築してきたのが、近代社会の姿だったのである。その意味で、近代社会は、厳格な意味での能力主義社会ではなくむしろ暫定能力主義社会なのである」(162)。

そうしたメリトクラシー社会における「能力アイデンティティ」。この語は、岩田龍子『学歴主義の発展構造』(1981年)で使われていたものを、著者の中村さんが取り上げなおすもの。
「この能力アイデンティティは、さまざまな情報や指標によって確立が試みられるのだが、再三論じているように、決定打となる情報は手に入らないため、つねに揺さぶりをかけられることになる。人々は、仕事や勉強に限らず、さまざまな場面で思い通りに事が運ばない場面に遭遇すると、しばしば「自分には能力がないんじゃないか」という問いを自らに発するようになる。これは人により、状況によって程度や質の差はあるが、おしなべて近代社会に生きる人々に共通する不安である。このような不安を〈能力不安〉と呼ぶことができる」(167)。

就活における「学歴フィルター」言説の話から、「再帰的な学歴社会」という話。
「しかし、ここで重要なのは、露骨な学歴による選別を「学歴差別」として再帰的問い直しのふるいにかけることが前提となる社会になったという点である。後期近代において、私たちは教育選抜だけではなく、採用や昇進の選抜においても、「学歴だけではダメ」というロジックを前面に出したシステムを作らざるを得なくなっている。本音では学歴信者であったとしても、である。だから、これからの学歴社会はつねに学歴主義批判を織り込んだ、まさに自己言及的で再帰的な学歴社会しか当分の間はつくれないだろう。それはある意味でたいへんにまどろっこしく、婉曲な学歴社会なのだ。だから、常に釈然としない感覚が残り、その学歴社会自体がまた再帰的に問い直されつづけることになる。これが、後期近代におけるメリトクラシーの、いささか不安定な存立機構なのである」(201)。

著者の主張全体からすれば、メリトクラシーとしての学歴社会は、たまたま最近になって再帰的で不安定になったのではなく、本来もともとそういうものであって、その性格が近代性の進行ないし後期近代段階への突入によってより露わになってきたということだろう。211ページに一覧表がある。

メモ:岩田龍子『学歴主義の発展構造 改訂増補版』(1988年)、NDLリンク。

[J0587/250702]