ちくま新書、2021年。
読み進むうちに、論に対する嫌悪感が強くなって、ちゃんと読めない。きちんと読めなくなる理由は以下の通り。【理由の1】平等理解や格差論の虚構を滔々と述べるが、相手どっている「常識」の種類(やその理解)が陳腐。凡庸な世論をドヤ顔で論駁しているような印象をもってしまうが、これは僕の方の誤りなのか。【理由の2】同様に、主体なり教育なり格差なり、一連の「虚構性」については、ニーチェでもデュルケームでもゴッフマン(クーリング・アウト論)でもポール・ウィルスでもマイケル・ルイスでも・・・・・・要するに多くの論者が指摘しており、なんなら思想の分野では常識化していること。著者自身もそのいくつかには言及してはいるけど、全体として「今私がこれを発見した」みたいに書くのはどうなのかと。ご本人は、この本の「主張が常識を逆撫でる」など書いているけど・・・・・・(343)。

【理由の3】。あとがきから拾ってみる。「本書を綴った最初の動機は不平等に対するやり場のない怒りだった。株を売り買いしたり情報を集めるだけで巨万の富を稼ぐ企業がある一方で、貧困に苦しむ多くの人がいる。貧乏な家庭に生まれたというだけで将来へのチャンスを奪われる若者がいる。近所の子と同じように誕生日に愛児を祝ってやれない母子家庭がある。極貧の中で孤独死する老人が後をたたない。どうして世界はこれほど不公平なのか。なぜ貧しい国と富める国があるのか」(335)。で、結局提示する思想(の一部)はこう。「格差は絶対になくならない。それどころか、格差が小さくなればなるほど、人間はよけいに苦しむ」(339)。僕に言わせれば、格差が絶対にゼロにならないのは最初から当たり前。でも、このあとがきの最初に触れられているような圧倒的な格差の問題は「程度」こそが決定的に重要なのであって、「格差はなくならない、見かけ上小さくなるだけ」という批判は的外れなだけでなく悪質。程度問題が重要なんだよ。「格差が小さくなればなるほど、人間はよけいに苦しむ」というのは実は正確ではなくて、大きい格差が小さい格差になると、別種の、主に社会心理学的な苦しみが生まれる、あるいはそちらの側面が相対的に強くなるということである。そういう社会心理学的な相対的剥奪論的な苦しみと、圧倒的経済格差による苦しみを同一視して、結果として後者の擁護に回っているのは本当に悪質で、結局僕は、ここに怒っている。俺はマルクスか。「あとがき」冒頭の問題はどうなったわけなんだ、結局。

主体の虚構性の指摘もそれ自体は正しかろうが、格差問題との絡め方が間違っている。丁寧に説明すると長くなって面倒なのでざくっと書くと、格差問題自体が主体の虚構性に立脚しているとして、だったらそれならそれでそこで論を止めて格差問題は放っておくべきだ。平等も格差も誤った問題設定だというなら、「格差問題は解決できない」とこの問題の内部でしたり顔の主張を繰り返すべきではない。

実は『責任という虚構』でも似たような感想を持って、それもあってちゃんと読めていないんですよ。だから上の感想も生半可な暴論かもしれなくて、これらの本の価値を、誰かかっちりと説明してもらえるなら聞いてみたいと思っている。

[J0277/220708]