Month: May 2020

遠藤公男『ニホンオオカミの最後』

山と渓谷社、2018年。岩手県を主な舞台に、明治時代に絶滅したニホンオオカミの跡をたどる。著者は1933年生まれで、教師をやりながら生物や自然史の研究、のちに作家生活に入った人とのこと。アカデミックな世界に属していてはできない、魅力と迫力に満ちた探究の書。

まず、「狼酒」なる酒の話に度胆を抜かれる。狼の肉の入った薬酒(といってもアルコールは入っていないらしい)とのこと、しかも長年民家に秘せられていた現物にまでたどり着いて、賞味までさせてもらっているのだから凄い。

明治時代、オオカミに賞金がかけられた頃の捕獲記録を探し出し、その子孫を徹底的に訪ね歩く。突然の絶滅は、欧米から羊などの家畜を導入したときに、その天敵として賞金や毒薬によるオオカミ退治が押し進められたこと、それから猟犬の輸入にともなった伝染病の拡散したことによると推測されるらしい。明治30年代前半に、奈良や三重では、オオカミの群れに伝染病が蔓延したことが語り伝えられているとのこと(平岩米吉『狼』)エゾオオカミも、毛皮を狙ったシカの乱獲の結果、牧場を襲うようになったオオカミを硝酸ストリキニーネによって毒殺したことから、明治20年頃にはほとんど姿を消したらしい。岩手県令が高値で買い取ったオオカミは、払い下げていろんな用途に用いたらしいが、その肉や「タン」を出していた店が盛岡などにあったらしい。また、当時はカセキ(カセギ)というイヌとオオカミの混血とおぼしき動物がいたとのこと。

以上は一部の情報をメモとして抜き出したものにとどまるが もう一度、これは迫力に満ちた探究の書だ。

[J0042/200516]

浜田寿美男『子どもが巣立つということ』

ジャパンマシニスト社、2012年。著者の『「私」とは何か』(1999年)が良書だったので、その勢いで読む。もともと雑誌の連載記事なので、読みやすい。

第1章 この時代に「巣立つ」ということ
第2章 関係を求め、関係に傷つく
第3章 学びをめぐる錯覚
第4章 お金をめぐる錯覚
第5章 巣立てないままの「モンスター」
第6章 飛ぶ鳥に自ずから吹く風はあるか

日常的ないさかいでも、大きな戦争でも、攻撃性の裏には、被害感情が存在する。「夫婦げんかでも親子げんかでのたがいの被害感情も、アメリカの人々をかり立てる被害感情も、「自分は悪くない」として自分を立てている点では共通です。じつはこれは、人間にとって非常に根の深い感覚ではないかと、私は思っています。夢など考えてみても、人は被害の夢をいっぱい見るのに、加害の夢はめったに見ないものです。誰かに追われる夢は定番ですが、反対に誰かを追いかける夢を見るという人はあまりいません。あるいはなにかに襲われてうなされる夢はあっても襲う夢というのは珍しいでしょう。統合失調症の人たちの妄想も、たいていは被害妄想で加害的な妄想はまれです」(p.74)。

「いまの子どもたちは、おとなたちから喜びを与えられることばかり多くて、自分が人を喜ばせるような機会を十分に与えられていないのです。このことは子どもたちの自立にとってけっこう深刻な問題ではないかと、私は思っています」(p.89)。むやみに「子どもを守れ」と叫ぶことで、子どもがひたすら守られるだけの存在になって、問題がかえって深刻になる(p.108)。逆におとなにしても、もっぱら守るだけの存在ではない。おとなが「自立」しているといっても、それはけっして独りで生きていくということではない(p.114)。〔本書のどこだかに、独りで生きている仙人でも生まれたときからそうだったわけではない、と指摘があってちょっとおもしろかった。エヴァ・キテイ的でもある。〕

学ぶことの制度化こそ、子どもたちの巣立ちを妨げる最大の要因(p.127)。

最終章では希望というテーマを取り上げる。たしかに、現代社会における「希望」とは重要な問題で、「希望」と「欲望」との違いは考察に値する。「希望がなければ、欲望は無軌道に走り出しかねない」(p.259)。一方で、商品市場はさまざまな欲望をあおっている。著者自身は、「相手を喜ばせて喜ぶことの本源的な意味」を強調している。付け加えるならば、「希望」なるものも常に良いものとはかぎらず、またしばしば世間に流通している「希望」はそれ自体、現代資本主義社会の論理に組み敷かれていることも多い。「成長」や「キャリアアップ」的な観念との関連も整理しておきたいところ。

別の著書:浜田寿美男『「私」とは何か』(講談社選書メチエ、1999年)

[J0041/200516]

J.バーダマン『アメリカ黒人の歴史』・『黒人差別とアメリカ公民権運動』

ジェームス・M・バーダマン『アメリカ黒人の歴史』森本豊富訳、NHKブックス、2011年、同著者『黒人差別とアメリカ公民権運動』水谷八也訳、集英社新書、2007年。『アメリカ黒人の歴史』は、奴隷貿易のはじまりから説き起こす通史。『黒人差別と・・・・・』は、そのなかでも1950年代に着火して、1960年代に大きく燃え広がった公民権運動にスポットを当てる。堅実な情報の積み重ねのもと、ウェットにもホットにもなりすぎない筆致で歴史を描いているだけに、逆に黒人差別の凄まじさをまざまざと感じさせる。とんでもない仕打ちや理不尽がたかだか50年前にはまだあって、つまりいくらでも生存者を見つけられる時代の話だとは。アメリカという国は、考えるほどに分からない国だ。虐げられてきたアメリカ黒人たちが、その戦いの中で、現代世界でもっとも素晴らしい音楽を作り上げてきた逆説についてもいつも考えさせられる。

ディティールにおいても発見が多い。
『アメリカ黒人の歴史』から。アフリカ人とヨーロッパ人の交流は、15世紀にははじまっており、奴隷貿易より前に大西洋クレオールの文化を形成しており、キリスト教もすでに取り込んでいた(17-18)。また、後の奴隷売買は、たんにヨーロッパ人によるだけではなく、ヨーロッパ人と手を組んだアフリカ人の奴隷商人が、ほかのアフリカ人を大量に奴隷化していったという構図で進んだ(20-21)。また、北米に渡ったアフリカ人がすべて奴隷だったわけではなく、主に都市に居住していた自由黒人が、南北戦争時には黒人人口の一割程度いたという(51-52)。アフリカ人奴隷がキリスト教に傾倒するきっかけのひとつとなったのは、1800年にはじまった「第二の大覚醒」である(57-58)。自分たちの経験に寄せて聖書を解釈する中で、ある意味モーセは、ファラオから奴隷を解放した人物として、イエスよりも重要な存在であった(58)。

南北戦争や抵抗運動の話は、引用しているときりがないかな。第二次大戦時の軍隊生活が、教育の機会や技術の習得を通して、黒人の意識に影響を与えたというところは興味深い(185)。多くのアメリカ人が、1977年のドラマ『ルーツ』ではじめて奴隷の問題を知ったとな(231)。そこから「奴隷ナラティブ」が再発見・再評価される気運が生まれたとか。

『黒人差別とアメリカ公民権運動』は、さらに良い本。ジム・クロウ法の概要であったり、KKKの実態などについてもよく分かる。先にアメリカはふしぎな国と書いたが、憲法への強い信頼と黒人差別が共存しているのもふしぎだし、黒人側も賛美歌と同じ憲法を根拠に戦ったりするのもふしぎ。もうひとつ、最初は小さな抵抗運動やデモが、大きな動きへと繋がっていくところも印象深い。もちろん、無力に終わった無数のデモがあったわけだろうけども、それも含めて学ぶことがある。

[J0040/200515]