岩波書店、2008年。

第1章 予兆―80年代後半宗教事件・考
第2章 遺体と暮らす
第3章 祈りの値段
第4章 違法伝道の果て
第5章 確信の宗教殺人―オウム真理教
第6章 宗教的理想と世俗

オウム真理教の問題は、いま考えることでまた違った見え方ができるような気がしている。この本自体は一昔前のもの。いろいろ考えさせられる情報や論点は多いが、ただ、この本の読者の多くは、果たして「宗教は怖いね」という淫祠邪教観以上の感想を持てるだろうか。

極端な事件を、極端な事象として描くか、あるいは身近な事柄と連続させて描くか、それは難しい選択だ。オウム事件のように陰惨な事件を扱えばしかたがない気もするが、この書は露悪的なトーンも強い。

本書における批判の対象のひとつは、宗教的な論理を理解しない司法の立場である。著者は、オウム真理教の理解には彼らの宗教的な論理を知ることが必要だとする。したがって、一連の事件は「宗教」であるがゆえに起きたことであることになる。ただこのことは、著者自身が統一教会のトラブル事例において紹介しているように、「これは宗教ではない」と繰り返して入信を説得する信者の論理と表裏一体でもある。

佐々木雄司医師が、中川智正について「巫病症候群」と診断し、また裁判所はその診断に基づいた精神鑑定請求を却下したやりとりは興味深い。

新実智光の場合でも、中川智正の場合でも、ひとつの「理屈」として理解(注:共にすることとは全然違う!)をまったく超絶しているとはいえないと思うが、この書も最終的には「そんな行動は私たちには信じられない」と繰り返しているだけに見える。世界中で(不幸なことに)日々数多く発生してる殺人や、戦争での殺人と比べてみるような視点もない。簡単に人を殺す人は(まことに残念ながら)オウム以外にもまったく存在しないわけではない。同じ事件を生み出さないためにも、「こんな考えは信じられない」「洗脳による主体性の喪失だ」で済ませていいものかどうか。

読みながら頭に繰りかえし浮かんだのは、オウム真理教がいかにも若者の集団であったということである。愛や真理を信じる純粋さ、他者に対する一種の酷薄さ、社会との関わりに感じる切迫感、など。社会には、多分に反社会性を含む「若さ」にどんな場所を与えるかという課題がある。オウム真理教や「新宗教ブーム」から30年以上が経ち、若者のあいだにオウム的なものは姿を消したと言っていいのだろうか。もしそうだとすれば、それはどのようにしてであろうか。

[J0099/201031]