河出文庫、2010年。1996年出版の『ノイマンの夢・近代の欲望』の増補改訂版。

序章 「情報化」の時代―情報技術は何を変えるのか?
第1章 「情報化社会」とは何か―社会の夢・夢の技術
第2章 グーテンベルクの銀河系/フォン・ノイマンの銀河系―人間‐コンピュータ系の近代
第3章 会社は電子メディアの夢を見る―ハイパー産業社会のコミュニケーション
第4章 近代産業社会の欲望―「情報化」のインダストリー
第5章 超近代社会への扉―二一世紀の社会と情報技術
補章 情報化社会その後―一五年後の未来から

1970年代から繰りかえし語られてきた、ポスト近代としての「情報化社会」。その言説自体が、たえまない生産・消費で動く近代産業社会の産物に過ぎないとみる。

もうひとつの主張は、「新技術が社会を変える」という言い方が短絡にすぎるということ。「新しい技術は生活を変えるが、基本的な社会のしくみを変えることはない。産業資本主義の下では、日常生活は技術革新によって必然的に変えられてしまう。そういう形で変わってしまうこと自体が、産業資本主義という社会のしくみのなせる業なのだ。だから、産業社会では日常生活と社会のしくみは絶対に一致しない。生活が変わるから社会のしくみも変わるだろうというのは、とんでもない短絡なのである。技術の変化にあわせて生活が不可逆的に変わっていく――それは近代産業社会にとって、あるべき姿なのだ」(209-210)。

著者は言う。「技術によって社会が変わってしまった」という技術決定論は、社会の変化やそれにともなう自分自身の変化に関する責任の所在をあいまいにする、責任逃れの話法としても機能しているのだと(214)。また、技術決定論は救済論としての性質もあるという(300)。教育や自己啓発の必要を語るときに技術決定論を持ち出すところなど、僕にも心当たりがある。
〔註、追記。すでにベックは『リスク社会』で、「「進歩」とは、誰も責任を取らない社会変革なのである」と述べている。〕

さらに。著者は、もはや現在、人々は「情報化社会」を素直に信じてもいないと指摘する。「夢と現実のはざまを影のようにただよっているからこそ、この神話は死ぬことがない、いや死ぬことができない」(267)。そこに社会の反省メカニズムの変化があるという。

この増補新版が2010年。コロナ時代の2021年、さて、状況はどうかな。技術によって生活が変わり続けていけば、どこかで社会にも影響しかえしていくだろう。そのように語ることは、佐藤への反論というより、まさしく彼が用意した視点の展開である。

[J0157/210519]