Author: Ryosuke

クリスチャン・カリル『すべては1979年から始まった』

副題「21世紀を方向づけた反逆者たち」、北川知子訳、草思社、2015年。原著、Christian Caryl, Strange Ravels, 2013.

プロローグ 激しい反動 
第1章 不安の高まり 
第2章 辰年 
第3章 「粗野だが、歓迎すべき無秩序状態」
第4章 革命家の帝王 
第5章 トーリー党の暴徒 
第6章 贖罪の夢 
第7章 イマーム 
第8章 銃を片手に 
第9章 預言者のプロレタリアート 
第10章 事実に基づき真実を求める 
第11章 殉教者の血
第12章 レディ 
第13章 三度の追放と三度の復権 
第14章 伝道師 
第15章 一千百万人の国民
第16章 バック・トゥー・ザ・フューチャー 
第17章 第二の革命 
第18章 ブリッジを好む
第19章 兄弟の支援 
第20章 「連帯」 
第21章 ホメイニーの子供たち 
第22章 ジハード
第23章 「女性は後戻りしないものです」 
第24章 有中国特色的社会主義 
エピローグ 進歩がもたらす問題

舞台は1979年の世界地域と共通するが、サッチャーのイギリス、鄧小平の中国、ホメイニーのイラン、ヨハネ・パウロ二世のポーランドと、複合的なドキュメンタリー。こんなに読むのに時間がかかった本はひさびさだ。それぞれ、別々に読んでちょうどいいくらいかもしれない。

現代政治における宗教の力を示す書として読まれているし、カリルもそのつもりだけれども、それはそれでちょっと誇張のような? もっとも、今まで、あまりに宗教の政治的影響力が軽くみられてきたというのは本当だろう。

イラン革命の経緯はとくにおもしろい部分だが、この本を読んで、「イラン革命の影響」という主題の重要性を改めて感じた。というのは、21世紀のイスラーム主義の台頭と、イラン革命が直接には結びついてはいないからだ。そこにはねじれがある。イラン革命の重要な遺産を説明して、「古くから対立するイスラム教のシーア派とスンニー派への影響だった。1979年以前はこの対立が世界政治に影響を及ぼすことはほとんどなかったが、79年以降は避けられなくなった。神の統治を再構築するうえで、いかなるイスラム教国家よりも前にシーア派が成功したということは、スンニー派にとっては、計画的な侮辱にも近い驚くべき展開だった」(390)。

もうひとつだけここにメモをしておくと、西洋社会がしばしば宗教の力を軽視しているのに、中国共産党は正しくも宗教勢力を軽視することがないというカリルの指摘はおもしろい。たしかに、中国の法輪功弾圧は外からみると神経質すぎるように見えるし、チベットへの態度も、チベット仏教への警戒心があるという。ふむ、なるほど、そういうこともありそうだ。

[J0281/220804]

家永三郎『日本文化史 第二版』

岩波新書、1982年。初版は1959年。

はじめに
I 原始社会の文化
II 古代社会初期の文化
III 律令社会の文化
IV 貴族社会の文化
V 封建社会成長期の文化
VI 封建社会確立期の文化
VII 封建社会解体期の文化

ちょっと理由があって手に取る。なるほど、今ではこういう、著者自身の「価値判断」が色濃く出た通史を書くのは、難しいだろうな。家永のその「価値判断」が、記述に精彩を与えている。宗教思想に対する造詣が深いのも、彼の特徴。もうひとつの特徴は、江戸時代や封建社会の文化に対する評価の低さで、「民主主義的な」立場からの批判意識が感じられる。宗教思想へのある種の共感と民主主義とは必ずしも当たり前に結びつくものではないが、安丸良夫がその後継者として思い浮かぶ。また、相対的に中世文化への評価が高いが、こちらは網野善彦史観との共通点を持つ。

しかし、「文化」という括りは難しいものだ。政治と対置できるという意味では「生活」や「民俗」と並べうるが、とくに高尚な文化をも含む点で、庶民に焦点のある両者ともまたちがっている。

[J0280/220729]

雨宮処凛編著『ロスジェネのすべて』

副題「格差、貧困、「戦争論」。2020年、あけび書房。

序章 ロスジェネをめぐるこの十数年(雨宮処凛)
第1章 ロスジェネと『戦争論』、そして歴史修正主義(対談:倉橋耕平×雨宮処凛)
第2章 ロスジェネ女性、私たちの身に起きたこと(対談:貴戸理恵×雨宮処凛)
第3章 「自己責任」と江戸時代(対談:木下光生×雨宮処凛)
第4章 貧乏だけど世界中に友達がいるロスジェネ(対談:松本哉×雨宮処凛)

奈良の元総理暗殺事件でもまた注目を浴びている「氷河期世代」の加齢、高年齢化。本書、あくまで雨宮さんが体験したかぎりのロスジェネ論ではあるが、それはそれで興味ぶかい。がっつりロスジェネ当事者のひとりとしては、私たちが自己形成をしたころの1990年代の空気感を改めて思い出した。

とくに興味深いのは、ときどき顔を出すジェンダー問題やフェミニズムとの関連性。雨宮さん貴戸さんは、ロスジェネ女性は(あるいは男性もだが)、「主人と妻と子どもという家庭」という理想像を実現することができない境遇に置かれたゆえに、そうした「男らしさ」「女らしさ」の理想を批判するフェミニズムは贅沢にしかみえず、共感が持てなかったのではという。

最後の松本哉さんの話はだいぶ雰囲気がちがっていて。

松本:まあね、20代後半とか30代に差し掛かる頃に、将来について悩むのはいいんですけどね。30過ぎて将来を悩んでも、もう手遅れなんですよ。
雨宮:あ、そうか、もう手遅れなのに何とかしようとしているから、悩みが深くなるのか。
松本:皆さん手遅れですというのを、ちゃんと皆で再確認して、後はやけくそに勝手に生きる。それで、最後にざまあみろと言って死んでいく。これがやっぱりうちらの世代の一番理想の生き方なんじゃないかなと。(237-238)

最後の「理想の生き方」が本当に理想かどうかは別にして、「手遅れ」という認識を出発点にすることは、たしかに大事な気がする。思い返せば、どこまでロスジェネ一般の話か分からないけども、1990年代頃は、世俗の富や出世ばかりガツガツ追いかけても意味がない、というような理念がしばしば将来のヴィジョンとして語られていて、自分を含め、なんとなくそれがそのとおりになったという人も多いのではないか。そのときは、日本社会全体の貧困化までは想定していなかったわけだが。そう考えれば、今になって不遇を大騒ぎするのもどうかという見方もある(他人からそう言われたくはないが)。

「私たちは、一億総中流が崩れた社会を走るトップランナーとも言える」(4)というのは、良くも悪くも、きっと本当。今話題の、独身孤独中年の問題などは、おそらく後の世代が中年になればまた同じ状況になる。いやむしろ、今、団塊世代が逃げ切り世代として冷ややかに語られるときのように、「親が団塊世代だった世代」と、まだ特権が残っていた世代、まだまだ牧歌的だった世代として見られるのかもしれない。現在のヤングケアラー問題なども思い出される。

[J0279/220728]