Month: March 2022

五来重『先祖供養と墓』

角川ソフィア文庫、2022年。もとは角川選書として、1992年出版。

第1章 古代の殯―凶癘魂と鎮魂
第2章 殯の種類―殯の残存形態
第3章 葬墓と仏教―寺院と葬墓文化
第4章 中世の葬墓―念仏と浄土教
第5章 近世から現代の葬墓―墓と葬具

もとは講演録かなにかなのか、語り口調で、民俗の世界と仏教の世界を縦横無尽に行き来しながら「五来史観」が示されていて、著者の学問の真髄をよく知ることのできる一冊。著者の博覧強記ぶりはさることながら、まだまだ民俗的事象が生きていた時代だから成立した学問のあり方だとも思う。「私は歴史的には一種のオプティミズムがあって、必ず分かるという自信をもっています」という姿勢も、今はなかなか保つことが難しい種類のものだ。

著者は、日本の葬送史の「主発点」に、風葬とそれにともなうモガリを置き、古代の文献にみえる葬送や、全国の両墓制、あるいは沖縄の風葬といった事象をその展開として理解する。たとえば、法隆寺夢殿は八角円堂という形態からして廟や霊屋であり、モガリの形を踏襲した聖徳太子の廟なのであると主張しつつ、梅原猛の太子怨霊説を斥ける(82, 86)。

著者の理解では、もともと仏教は霊魂を認めないはずが、「日本仏教は仏教の誤解から出発し」(105)、仏教が死者の霊の供養に働く場を得たのだと。同時に著者は「葬式は非常に大事な仏教の宗教活動の中心になります」(107)と葬式仏教の価値を肯定して、「人の嫌うものをすることが宗教者です。霊の実在を信じている庶民のほうが葬式に非常な重要性を認めて、僧侶が葬式の重要性を認めないと、だんだん葬式は精神を失ったものになっていくと思います」(106)と断言している。

たくさんの情報を駆使しながら、はっきりした著者の見解が示されていて小気味よささえ感じられる書となっている。

[J0252/220319]

フランソワーズ・カシャン『ゴーギャン』

高階秀爾監修、田辺希久子訳、創元社、1992年。「知の再発見」双書シリーズの一冊、副題は「私の中の野生」。著者のフランソワーズ・カシャンはオルセー美術館の館長を務めた人だそうで、原著は1989年。

第1章 遅い出発
第2章 ポンタヴェンの神話
第3章 ゴーギャンとゴッホ
第4章 タヒチ讃歌
第5章 モンパルナスの孤独
第6章 情熱の最後の輝き
資料編 失われた楽園を求めて

「小泉八雲にとっての日本は、ゴーギャンにとってのタヒチのようなもの」という思いつきが自分で気に入って、改めてこの本を手に取ってみた次第。ゴーギャンは1848年生まれ1903年没、ハーンは1850年生まれ1904年没で、まさに同時代人でもあった。

類似点。どちらも、ヨーロッパ文明に違和感を抱いていたところ。出自からして、放浪への志向があったこと。(彼らの理解するところの)アルカイックなものに惹かれていたこと。ゴーギャンはブルターニュも愛していたようで、どちらもケルト文化との親和性を示していたこと。マルティニークも、ふたりに共通したゆかりの土地。

相違点。ハーンは、彼のルーツのひとつであるギリシャ文明にしばしばインスピレーションを得ていたが、ゴーギャンはそれを嫌っていたらしいこと。ゴーギャンが堂々とした、あえて傲慢な態度を取るようなタイプの人だったこと。ハーンは子どものときから肉体的なハンディの多い人だったのに対し、軍隊生活の経験もあるゴーギャンは、健康を害するまでは逞しいタイプだった様子がある。

ゴーギャンの作品や生活には、セクシャルなモチーフが多いのも特徴的。ゴーギャンはタヒチでの幼妻をはじめ、身近な女性を多く絵にしている。一方のハーンは、理念としての愛を哲学的に語ったり、再話作品に愛の悲劇をよく取りあげてはいても、たとえば妻セツに対する賛美といったものは、管見のかぎり読んだことがない。なお、実生活における愛妻家ぶりについては、いくつもエピソードが残されている。ハーンが持っていたプラトニック・ラヴへの志向は、彼が日本におけるある種の近世文学(武士の物語など)とよく馴染んだ理由でもありそうだ。ハーンの場合、女性のイメージとはまずなによりも、母であった。対してゴーギャンは、暖かい家庭を築くタイプからはほど遠かった。

ゴーギャンが結局、タヒチにも安住することができなかったのに対して、ハーンは日本に帰化し、当地を終の棲家とした。「小泉八雲にとっての日本は、ゴーギャンにとってのタヒチのようなもの」。そこにヨーロッパが失った、郷愁を帯びたユートピアを認めたという意味では、このように言えるのではないか。ただ、彼ら二人が歩んだ実際の人生においては、それぞれの土地の意味はかなり違っている。幻視家であった八雲の作品が日本文化の「再話物語」になりえているのに対し、ゴーギャンによるタヒチの絵画のほうが、なにか浮遊感のある幻想画のようにみえるのは、彼らがそれぞれの土地に実際に根を下ろすことのできた度合いのちがいを反映しているのだろう。

[追記]
画家のゴーギャンには「カトリック教会と近代」「近代精神とカトリシズム」という教会批判の原稿があり、その一部だけは『オヴィリ』(みすず書房)に収録されている。彼もまたキリスト教そのものというより、教会の「超自然主義」や道徳の押しつけを拒否していること。彼のタヒチにおける「不道徳」は、反教会や反宣教師の精神と結びついていた。

『オヴィリ』編集者ダニエル・ゲランのコメント。「ゴーギャンは、予言者たち、福音書の著者たちの特殊な表現の中には、多かれ少なかれ蔽いかくされている象徴乃至たとえだけを見るべきだ、という考えを抱いていた。これに反して教会は、不合理にも文字通りにとったため、それを馬鹿げたものにしてしまったのである。一方、彼は、《神を殺そう》とした後、ティヤール・ド・シャルダンに先立って、教義の垢を洗い落としたキリスト教と、近代の進化論ならびに民主主義とのあいだに、綜合を見出そうと試みている。他方、聖職者至上主義に対する彼の痛烈な非難は、彼を――これは読者にとって、小さからぬ驚きであろうが――無政府主義的、反国家的な結論へ、ブルジョワ道徳の悪罵へとみちびいた」(203)。

『オヴェリ』の抜粋はごく短いので明瞭には分からないが、ゴーギャンでも進化論への傾倒があるというのは興味ぶかい。そしてその進化論的発想が、どのようにタヒチへの想いと繫がっているのか。「ハーンの日本、ゴーギャンのタヒチ」問題(?)、この観点からでも掘りさげられそうだ。

[J0251/220315]

青木美希『地図から消される街』

副題「3.11後の「言ってはいけない真実」、講談社現代新書、2018年。

序章 「すまん」原発事故のため見捨てた命
第1章 声を上げられない東電現地採用者
第2章 なぜ捨てるのか、除染の欺瞞
第3章 帰還政策は国防のため
第4章 官僚たちの告白
第5章 「原発いじめ」の真相
第6章 捨てられた避難者たち
エピローグ

1.本書の内容から

福島原発事故に関わる被災者支援や除染作業、原発政策、さらには被災者いじめをめぐる学校の「欺瞞」の数々を直接取材を通して明らかにする。報告の全体を通して、改めてこの問題の深刻さと、日本の政治や社会が抱える問題体質を痛感する。以下は部分部分で、改めて気づきのあった点。

表面的な復興を語りたがる帰還政策について、住民からの声。「せめて第一原発からデブリが取り出せた後で復興を考えたらどうか」(118)。

原発を密集させることの危険。「福島第一原発では1~4号機が密集していたため混乱し、爆発が続いた。福島第一原発の事故時は吉田昌郎所長も被害日本壊滅を意識したほどだ。密集していると事故時のリスクが何十倍にもなる」(127)。

それから、やはり原発推進政策の裏には、核武装という政策的狙いがあることは明らかだと言うことが分かる。著者が取材した原子力ムラに関わっていた専門家の話によると、国が核武装をすると決めれば、一年以内にはできるとのことだ。

政府が東電を守る理由、原子力損害賠償法。これの免責事項(異常に巨大な天災地変)を適用すると、国に賠償責任が生じる。それで、経産省が「東電を守るので免責事項に当たると言わないように」と密約をしたという話。がれき撤去による放射性物質拡散も、この論理からうやむやにされたと推測されるとのこと。

2.ジャーナリズムの社会的意義

さて、直接この本の中に書かれていることではないけど、新聞記者としてデスクとやりとりをしながら取材を進めていった様子が記されており、新聞をはじめとするジャーナリズムの社会的意義というものがこの書には示されている。地道な取材に基づき、政府や行政の闇を暴くこういった告発は、ネット上のメディアだけでは、少なくとも今のところは不可能ではないか。

(と思って、青木さんの名前を検索してみたら、朝日新聞社内で左遷されて記事を書けなくなったとかなんとか。)

3.現在の情勢から思うこと

原子力発電所の危険性については、2011年以前も決して「予想外」であたわけではない。大事故の可能性も、理論上は薄々知りながら、同時に「絶対安全」のかけ声になんとなく乗っていたのだ。今回のロシア軍によるウクライナの原発への攻撃で、また同じことが起こっていると感じる。私たちは、原発への攻撃やテロがありうることを薄々知りながら、「でも実際にはだいじょうぶ」と、本気にしてこなかったのではないか。そしてその「スルー」の構造は大地震や噴火の可能性にも当てはまる。どこかの火山が噴火して日本各地に存在する原発のどこかに被害が生じたときに、私たちはまた、「まさか噴火するとは」とつぶやくのだろう。

もうひとつ、「危機」というものが一瞬で経過する大爆発やカタストロフィとイメージされすぎており、原発の問題では特にそうだ。本書では、福島原発から放射性物質が漏れ出しつづけている様子が描かれているし、頑強な反・反原発主義の人でも、今現在も溶解した核燃料が、近づくことも移動させることもできずに「そこにある」ことは否定できないだろう。実際にこれが「安全な日常」と言える状況だろうか。同様に、「復興」が語られる今も、少なからぬ被災者たちの生活は「安全な日常」からはほど遠いということが、本書には示されている。

震災の話その他から気づいたことは、危機とは必ずしも危機と意識されることがなく、感覚の麻痺を伴いながら、じわじわと日常を蝕むようなあり方をするものだということだ。絶対にあってはほしくないが、これからウクライナの戦争が拡大・飛び火していったら、2022年3月という今現在の、日本を含むこの世界が、すでに「戦時下」にあったということがはっきりするだろう。

(どうもしかし、こうやって記事を書いていると「どうせこうなる」調になってしまう。もちろん、なんとかしたいのだ。)

[J0250/220312]