副題「日本人の自然観・動物観」。従来、稲作中心史観のもと、「一般に日本人は肉食を避けてきた」と語られて済まされてきた肉食と供犠の問題を、執念深くといいたくなるようなしかたで辿る。最初は「逆張り」の牽強付会をうたがって読みはじめたが、読み進むうちに説得させられる迫力の論考。なぜか、現代の自然保護運動に対してやたらに当たりが強いところは、ご愛敬としておきたい。(歴史を現代から斬ったら怒るわけだから、歴史で現代を斬るのも同じだけの慎重さが要るはずだ。) ――原著2001年、法蔵館文庫、2022年。
序章 祭祀と供犠の比較文化序説―“血”の問題を手がかりに
第1部 動物供犠と日本の祭祀
1 イケニヘ祭祀の起源―供犠論の日本的展開のために
2 動物供犠の日本的形態―古代中国との連続と差異をいとぐちに
3 狩猟民俗の身体観―“食”と“生命”のアルカイスム
4 非稲作の祭祀と神饌―〈自然〉と〈聖地〉のかかわりから
第2部 日本宗教のなかの人と動物
1 古代呪術と放生儀礼―仏教受容のアニミズム的基盤
2 祭祀のなかの神饌と放生―気多大社「鵜祭」の事例を手がかりに
3 殺生肉食論の受容と展開―とくに近世真宗教団の問題として
4 供犠の文化/供養の文化―動物殺しの罪責感を解消するシステムとして
5 動物供養と草木供養―現代日本の自然認識のありか
第3部 柳田国男の供犠理論
1 人身御供と人身供犠―柳田国男と加藤玄智の「人身御供」論争から
2 「一目小僧」の供犠解釈―その意義と限界をめぐって
供犠に関して、〈殺す文化〉と〈食べる文化〉があるという。「日本での動物供犠があたかも「例外」であるように見えたり、あるいは中国的な犠牲を緩和したかのように見えるのも、決して、日本の道徳性が古代中国の人びとよりも高かったために中国式の残酷な犠牲儀礼を受け容れなかった、などという理由からではないのである。ただそこには、人間の生存の基本である日々の糧の中心を、家畜という人為の成果のうちから調達するか、あるいは山野河海の自然の恵みに頼るのかの相違があるにすぎない」(115-116)。「別の言い方をするなら、遊牧文化地域や華北などのように半農半牧的傾向にある地域においては、人間の生活は人間みずからの創意と努力によってささえられる面が大きいのにたいして、温和なモンスーン気候で牧畜を必要としなかった農耕社会日本にあっては、日々の糧はそうした人為の成果と見られるよりも、むしろ山野河海に内在する目に見えない力のたまものであると感じられた」(116)。
著者の記述は、非歴史的な本質をずっと描いているわけではなく、とりわけ仏教やその殺生忌避観念をめぐる供犠の歴史的変遷と、そのもとにおける供犠的感性の変遷=存続――たとえば諏訪信仰や放生会、さらには真宗の「肉食妻帯」における――を辿っている。
また、〈供犠の文化〉と〈供養の文化〉という対比。「動物殺しの罪責感を解消・軽減する方法にしたがって人類の文化はおおむね二つに大別して考えられることになろうか。すなわち第一は、動物を神の賜物と見なす文化であって、そこでは、神から人間に贈られた動物のうち、人間が己れのために利用する文化であって、そこでは、神から人間に贈られた動物のうち、人間が己れのために利用するものの一部を贈り主への返礼として神に返すこと、すなわち「供犠」という儀礼慣行がそなわっている。そして第二は、殺した動物の霊を弔う文化であり、そこでは動物が人間のアナロジーとしてとらえられ、彼らは人間と同様に「供養」や「鎮魂」の対象となる。言い換えると、第一の「供犠の文化」とは、動物殺しという人間の罪を神の権限を導入することで一挙に解消あるいは免罪する文化であり、第二の「供養(あるいは鎮魂)の文化」とは、動物殺しの罪を事後も定期的に確認しながら、その罪責感情を宗教的に少しずつ浄化しようとする文化だということにあるだろう」(295-296)。
日本における「供養文化」の現代にいたる広がりを著者は確かめているが(たとえば鯨供養だとか鰻供養だといった種類のもの)、中牧弘允氏が最初に指摘したという、それが「生業」と結びついたものだという洞察は重要だ。
「こうした「生業」の必要から行われる事業処理システムとして機能していき、生業が要請する資源の調達や製品の効率的供給に歯止めをかける必要がなくなるという点である」(326)。「そこで、短絡を承知で言ってしまえば、こうした供養が現代日本で果たしている機能は、個人の私的活動を全面的に解放するための心理的・文化的装置であり、ひいてはそれが資本主義的企業経営の全面解放を保証する心理的・文化的装置としても流用されているということではないか」(327)。
「こう見てくると、現代日本で再生産され隆盛を誇っている供養の風景を仏教の供養の現代ヴァージョンだと解釈するのは、それを現代日本人の心の深層に生きつづけるアニミスティックな心情のあらわれだと超歴史的解釈を付すのとおなじくらい、非現実的な話ではなかろうか。それは、生物であれ無機物であれ、自然の資源を組織的効率的に奪取して利用することを許容する、まさしく現代的なシステムとして機能しているのである」(327)
[J0464/240506]