Month: May 2024

小野和子『あいたくてききたくて旅に出る』

まずこの本のこと。このパンプクエイクスなる仙台市の出版元自体、小野和子さんのこの本を出版するためのユニットのよう。たしかに細部にまで手のかかった本で、編集者たちの著者への思い入れが伝わってくる。これで3000円以下の値段というのも、けっこうすごい。PUMPQUAKES、2019年。

第1部
オシンコウ二皿ください
石のようになった人
わたしの「友だち」
かのさんのカロ
はるさんのクロカゲ
ひと山越えても鹿おらん
エゾと呼ばれた人たち
みはるさんの『冬の夜ばなし』

第2部
寂寞ということ
「捨てる」ということ
母なるもの、子なるもの
「現代の民話」について
一粒の豆を握る・一粒の豆を見失う
「ふしぎ」の根をさがす
山の民について:猿鉄砲のむかし
浜で出会った人たち
ゆめのゆめのサーカス
小野和子年譜

著者の小野和子さんは、1934年生まれで、宮城県を中心に民話収集(小野さん自身は「採訪」というとのこと)を続けてこられた方。昔話を聞くというと、ほっこりとした癒しのイメージがあるが、この人が民話を聞きに臨む姿勢はひりひりとした緊張感に満ちている。ひとつには、民話の裏に込められた生の姿を聞き逃すまいとして、もうひとつには、彼女が語りを乞うている眼前の人の、「お前は何者か」という問いかけに対峙して。研究者然とも「理解者」然ともせずに民話に臨むこの人には、「いまここから生まれる話」に対して予断がないのだ。
[J0466/240509]

今井悠介『体験格差』

おもには家庭の貧困から、習い事や部活、家族旅行といった「体験」をすることができない子ども、「体験」をさせてあげられない親たちがいるという問題提起の書。「体験格差」という言葉はこれから有名になると思うが、「そういえばそういう子どもたちもいる」というところに目を向けさせるだけでも、この書の意味は大きい。講談社現代新書、2024年。

第1部 体験格差の実態
1 「お金」と体験格差
2 「放課後」の体験格差
3 「休日」の体験格差
4 「地域」と体験格差
5 「親」の体験格差
6 体験格差の「現在地」から
第2部 それぞれの体験格差
1 ひとり親家庭の子ども
2 私が子どもだった頃
3 マイノリティの子ども
4 体験の少ない子ども時代の意味
第3部 体験格差に抗う
1 社会で体験を支える
2 誰が体験を担うのか

よく教育社会学業界ではブルデューの「文化資本」論が引き合いに出されるが、その種の議論は「文化資本」を本質的には空虚なものとしか捉えないし、上流階層の告発の方向にだけ流れて、本書がその必要を訴えるような、そうした資本にアクセスできない層に対する、現実の「体験格差」改善への取り組みにはつながってはこなかったように思う。

本書冒頭に、阿部彩『子どもの貧困』から、日本では「子どもが最低限にこれだけは享受するべきであるという生活の期待値が低い」という指摘を引いている。「飢え死にしないだけよい」という謙虚とも貧乏性ともつかない、こうした日本人の生活観が、こうした子どもの事柄だけでなく、福祉や医療における処遇の問題や、あるいはもっと一般的に労働環境の問題にも繋がっている。しかもこの種の生活観が、すべての場面で適応されているのではなく、生活保護が必要な定収入層や、高齢者や病人といった層に対ししばしば選択的に適用されることが問題なのだ。

[J0465/240508]

中村生雄『祭祀と供犠』

副題「日本人の自然観・動物観」。従来、稲作中心史観のもと、「一般に日本人は肉食を避けてきた」と語られて済まされてきた肉食と供犠の問題を、執念深くといいたくなるようなしかたで辿る。最初は「逆張り」の牽強付会をうたがって読みはじめたが、読み進むうちに説得させられる迫力の論考。なぜか、現代の自然保護運動に対してやたらに当たりが強いところは、ご愛敬としておきたい。(歴史を現代から斬ったら怒るわけだから、歴史で現代を斬るのも同じだけの慎重さが要るはずだ。) ――原著2001年、法蔵館文庫、2022年。

序章 祭祀と供犠の比較文化序説―“血”の問題を手がかりに
第1部 動物供犠と日本の祭祀
 1 イケニヘ祭祀の起源―供犠論の日本的展開のために
 2 動物供犠の日本的形態―古代中国との連続と差異をいとぐちに
 3 狩猟民俗の身体観―“食”と“生命”のアルカイスム
 4 非稲作の祭祀と神饌―〈自然〉と〈聖地〉のかかわりから
第2部 日本宗教のなかの人と動物
 1 古代呪術と放生儀礼―仏教受容のアニミズム的基盤
 2 祭祀のなかの神饌と放生―気多大社「鵜祭」の事例を手がかりに
 3 殺生肉食論の受容と展開―とくに近世真宗教団の問題として
 4 供犠の文化/供養の文化―動物殺しの罪責感を解消するシステムとして
 5 動物供養と草木供養―現代日本の自然認識のありか
第3部 柳田国男の供犠理論
 1 人身御供と人身供犠―柳田国男と加藤玄智の「人身御供」論争から
 2 「一目小僧」の供犠解釈―その意義と限界をめぐって

供犠に関して、〈殺す文化〉と〈食べる文化〉があるという。「日本での動物供犠があたかも「例外」であるように見えたり、あるいは中国的な犠牲を緩和したかのように見えるのも、決して、日本の道徳性が古代中国の人びとよりも高かったために中国式の残酷な犠牲儀礼を受け容れなかった、などという理由からではないのである。ただそこには、人間の生存の基本である日々の糧の中心を、家畜という人為の成果のうちから調達するか、あるいは山野河海の自然の恵みに頼るのかの相違があるにすぎない」(115-116)。「別の言い方をするなら、遊牧文化地域や華北などのように半農半牧的傾向にある地域においては、人間の生活は人間みずからの創意と努力によってささえられる面が大きいのにたいして、温和なモンスーン気候で牧畜を必要としなかった農耕社会日本にあっては、日々の糧はそうした人為の成果と見られるよりも、むしろ山野河海に内在する目に見えない力のたまものであると感じられた」(116)。

著者の記述は、非歴史的な本質をずっと描いているわけではなく、とりわけ仏教やその殺生忌避観念をめぐる供犠の歴史的変遷と、そのもとにおける供犠的感性の変遷=存続――たとえば諏訪信仰や放生会、さらには真宗の「肉食妻帯」における――を辿っている。

また、〈供犠の文化〉と〈供養の文化〉という対比。「動物殺しの罪責感を解消・軽減する方法にしたがって人類の文化はおおむね二つに大別して考えられることになろうか。すなわち第一は、動物を神の賜物と見なす文化であって、そこでは、神から人間に贈られた動物のうち、人間が己れのために利用する文化であって、そこでは、神から人間に贈られた動物のうち、人間が己れのために利用するものの一部を贈り主への返礼として神に返すこと、すなわち「供犠」という儀礼慣行がそなわっている。そして第二は、殺した動物の霊を弔う文化であり、そこでは動物が人間のアナロジーとしてとらえられ、彼らは人間と同様に「供養」や「鎮魂」の対象となる。言い換えると、第一の「供犠の文化」とは、動物殺しという人間の罪を神の権限を導入することで一挙に解消あるいは免罪する文化であり、第二の「供養(あるいは鎮魂)の文化」とは、動物殺しの罪を事後も定期的に確認しながら、その罪責感情を宗教的に少しずつ浄化しようとする文化だということにあるだろう」(295-296)。

日本における「供養文化」の現代にいたる広がりを著者は確かめているが(たとえば鯨供養だとか鰻供養だといった種類のもの)、中牧弘允氏が最初に指摘したという、それが「生業」と結びついたものだという洞察は重要だ。

「こうした「生業」の必要から行われる事業処理システムとして機能していき、生業が要請する資源の調達や製品の効率的供給に歯止めをかける必要がなくなるという点である」(326)。「そこで、短絡を承知で言ってしまえば、こうした供養が現代日本で果たしている機能は、個人の私的活動を全面的に解放するための心理的・文化的装置であり、ひいてはそれが資本主義的企業経営の全面解放を保証する心理的・文化的装置としても流用されているということではないか」(327)。

「こう見てくると、現代日本で再生産され隆盛を誇っている供養の風景を仏教の供養の現代ヴァージョンだと解釈するのは、それを現代日本人の心の深層に生きつづけるアニミスティックな心情のあらわれだと超歴史的解釈を付すのとおなじくらい、非現実的な話ではなかろうか。それは、生物であれ無機物であれ、自然の資源を組織的効率的に奪取して利用することを許容する、まさしく現代的なシステムとして機能しているのである」(327)

[J0464/240506]