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E.ルナン『イエスの生涯』

忽那錦吾・上村くにこ訳、人文書院、2000年。

1 幼い頃から青年期まで/2 イエスの受けた教育/3 イエスを取りまく思想界/4 最初の訓言――〝父なる神〟/5 バプテスマのヨハネ/6 「神の国」というイデーの発達/7 カペナウムにおけるイエス/8 弟子たち/9 湖畔の説教/10 神の国は貧しい者のために/11 囚われのヨハネ/12 イエルサレムでの最初の試み/13 よきサマリア人/14 伝説誕生、イエスの軌跡/15 「神の国」の決定的な考え方/16 イエスが定めたもの/17 イエスのへの反対/18 最後の旅/19 敵の計略/20 最後の一週間/21 イエスの逮捕と告訴/22 イエスの死/23 イエスの事業の根本にあるもの

本書は『キリスト教起源の歴史』の冒頭をなす『イエスの生涯』の普及版で、1870年に出版されている。

神秘的な伝説を斥けて「人間イエス」を描いたルナンのイエス伝は、当時のフランスやヨーロッパに衝撃を与えつつ、広く迎えられた書。復活の話もここには出てこない。今となってはふつうのことに見えるかもしれないが、それは「重要な仕事あるある」で、現在にいたる「ふつう」をつくりあげた大きなきっかけこそがこの書であった。

ルナンが描くイエスは、慈愛に満ちた人物であるとともに、ユダヤ教のしきたりを断固として否定して、ローマ的な世界観からも離れて超俗的な世界に価値を置いた理想主義者である。

ルナンは、イエスが巧みに比喩を用いるところや、神の国と「解脱」の近似性について、仏教を高く評価している。一方で、彼によるイエスの描写はなるほどと読み進むうちに、最後にユダヤ教を絶対的に否定しているところで、おやこれはどうだろうか、となる。彼に言わせれば、イエスが有罪に陥れられたのはモーセの立法ゆえであり、たんに歴史的偶然ではない。さらに。

「今日でもキリスト教を奉ずると称する諸国において、宗教上の犯罪という名目で、刑罰が言い渡されている。だが、こうした過ちについてイエスに責任はない。・・・・・・ キリスト教は寛容ではなかった。その通りである。しかしこの不寛容はキリスト教本来のものではない。むしろユダヤ教本来のものというべきだ。・・・・・・モーセ五書は、それ故、最初の宗教的恐怖の法典であり、ユダヤ教は剣で武装した万古不易の宗教の典型である」(282)

キリストやキリスト教を称揚するのに、本当にこのようにユダヤ教を貶める必要があるのだろうか。19世紀フランス的な現象と言えばそれはそうなのだが、一方で、ホロコーストを経て、より複雑なかたちでこの問題圏は現在に至っている。こうした反ユダヤ教を否定することと、今日のガザ侵攻を否定すること、それを同時に行うことが、どうしてこんなに難しいことになっているのか。

[J0432/231208]

中原昌也『死んでも何も残さない』

副題「中原昌也自伝」、新潮社、2011年。

第1夜 気づいたら満州引揚者の息子
第2夜 ろくな大人にならない
第3夜 教育なんてまっぴら
第4夜 どんよりとした十代
第5夜 暴力温泉芸者は高校四年生
第6夜 世間の茶番には勝てん

著者が子ども時代を過ごした1970年代や1980年代のカルチャーの話が山盛り、それから戦争体験者だったという高齢の父親の話、どこまでも個人的な話でありながら時代性も濃い。

中原昌也といえば「サブカル」と結びつけられやすいが、本人はぜんぜんサブカルじゃない。サブカルに分類されるあれこれが好きなのはたしかとしても、サブカル界隈特有の構えた姿勢がまったくなくて、本書を読んで感じたのは、なんて素直な人、率直な文章なんだってこと。たとえば、ホラーやノイズが好きなことを語る傍らで、タモリの芸達者に憧れてたとか、そうそう、逆張り的なところがまったくない(と、僕には感じられる)。このように自分の感覚に率直な人の言葉って、「みもふたもない言葉」として、ついついポーズを取ってしまう側の人にはときに恐ろしく感じられる。率直であるだけの中原さん本人は心外だろうけども。
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石田雄『平和の政治学』

岩波新書、1968年。

 序 平和と政治
I 歴史的遺産と今日的状況
 一 平和観の文化的類型
 二 戦争規制の歴史的展開
 三 個人と現代政治
 四 戦争に反対する政治的態度
II 平和を日本の政治的現実の中で考える
 一 生産的な討論のために
 二 日本の安全と極東の平和
 三 平和主義とその政治行動
 四 最後の抵抗形態としての市民的不服従
 五 非武装の政治的可能性

前半は、平和概念の歴史的バリエーションを扱っていて重要。後半は、1968年当時の時事に即した考察で、いかにも当時の日本社会という部分と、今でも通用する部分とが混在していて興味深い。いずれにしても、文化的・歴史的背景を重視した平和論であるところに、本書の価値はある。

(本書 35ページ)

古代ユダヤ教の「シャーローム」。「シャーロームは、ただ戦争が存在しない状態を指すのではなく、はるかに、より積極的な意味を持っていた。シャーロームは同時に幸福、繁栄、安全を意味し、さらには神意による正義の実現という意味をも含むものと考えられたといわれる」(p. 19)。「シャーロームは、戦争のない状態として、戦争の反対概念を形成したわけではない。時には、むしろ反対に勝利を意味することさえなかった」(p.21)。著者は、1967年の中東戦争におけるイスラーム文化を参照して、そこにこの伝統が反映しているとしているが、2023年の現在では、進行中のガザ侵攻を連想せざるをえない。

「日本の場合は、中国的な平和観の類型に属するように思われる。ただ日本と中国とのちがいを求めるとすれば、日本においては、平和と緊密に結びついた調和的秩序が、よりいっそう心情的な、そしてまた同時に美的な要素を加えて理解されたという点にみられるであろう」(p.33)。

後半の方で論じられている、平和感情と平和主義のちがいという論点。「このような個人の利益からの発想が、そのままだらだらの延長で、人類の永遠の平和という普遍主義的な考えにつながると考えるのは楽観論にすぎるだろう。平和感情と平和主義との間には、たしかにある種の断絶がある。別のいい方をすれば、社会的調和と結びついた平和観から、普遍主義的な絶対平和主義への途は、決して坦々とした連続的な変化ではない」(p.141)。「平和主義は、国家との対決を不可避とするような、個人の原理なのである」(p.143)。

刀狩り以来の、日本社会の民衆非武装の長い歴史。「「平和憲法」が民衆によって抵抗感なくうけ入れられたのは、戦争の悲惨な体験があったことと同時に、このような民衆非武装の長い伝統があったことにもよると思われる」(p. 167)。

なお、本書は、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能。(無料の登録とログインが必要)info:ndljp/pid/2981282

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