Author: Ryosuke

小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』

講談社現代新書、2021年。

第1章 そもそも生物はなぜ誕生したのか
第2章 そもそも生物はなぜ絶滅するのか
第3章 そもそも生物はどのように死ぬのか
第4章 そもそもヒトはどのように死ぬのか
第5章 そもそも生物はなぜ死ぬのか

進化のなかで、生物とその死を捉える。一番のポイントは、生物の誕生と多様性の獲得のためには、個体の死や種の絶滅といった「死」が重要であって、死とは、進化が作った生物のしくみの一部であるという見方。

もうひとつのポイント、生物の死にはパターンがあるということ。捕食されて死ぬ、あるいは細菌のようにアクシデントで死ぬというしかた。一方で、ゾウリムシなどは、一定回数の分裂をすると「老化」して死んでしまう。また、多くの昆虫のように、生殖を終えるとそれで死んでしまうパターン。ある種のクラゲは若返りをして寿命では死なないが、寿命で死ぬという「パターン」は、生物にとってデフォルトではなく、進化のために「選択」された、ひとつの生存戦略にすぎないということ。

ただし、寿命で死ぬ生物の多くが「ピンピンコロリ」で死ぬのに対して、大型哺乳類、とくに人間では老い衰える期間が長い。寿命の問題は、もとをただすと、有性生殖のしかたに端を発している。生物のからだの構造が複雑になっていくと、偶然に任せた遺伝子の変異によってフルモデルチェンジをするような進化をしかたが困難になる。そこで、有性生殖というしかたで、偶然による変異と異なる遺伝子上の多様性の確保の方法が採られるようになる。それがさらに進んでいくと、子どもに対する保護や教育が必要になり、その分寿命も延長される。

長寿化した生物について、細胞レベルでは、老化というしくみが、がん化していく細胞を排除する役割を果たす。もともと細胞老化とは、がん化のリスクを抑えるしくみなのである。しかし、ヒトでいうと、55歳くらいからは幹細胞自体も老化して異常な細胞が増えてしまい、個体自体の老化が進むとともに、がんの発症が増加していくことになる。つまり、進化の可能性を確保するための細胞老化というしくみが、人間に寿命をもたらしているのである。

この本を読んでまず興味を惹かれるのは、ハダカデバネズミの生態の特殊性だ。ハダカデバネズミはがんにならず、通常のネズミの10倍以上にあたる30年という寿命を誇るという。がんにならないため、たんに寿命が長いだけでなく、死を迎えるまで健康なピンピンコロリでもあるという。その背景に、哺乳類としては例外的な「新社会性」を有し、子どもを産む個体とそうではない個体との分業制を敷いており、一匹あたりの労働量が少ないという理由があるのだという。すごいぞ、ハダカデバネズミ。著者はこのハダカデバネズミに、人間の長寿化のヒントを求めている。

ひとつ、本書から得られるポジティブな学びとしては、「教育」あるいは文化の伝達は、生物進化の面からしても重要な手段として発達してきたものだということ。人間社会にとって生殖だけを種の進化、ならびに生存の要件と考えるのはあやまりである。冷静に考えると当然のことだが、「文系/理系」的な区分の発想がこう考えることを妨げてきたのだろう。著者は、生物進化の観点から、多様性を損なわない教育こそが大事だと述べている。

次に批判的なコメントを。この著書は学びが多く、誰にでも広く薦めたい本である。とくに、もちろん、生物学的な知見は著者の専門性に裏打ちされている。だが、生や死の意味を考えるのに、このレベルの見解にとどまっていてはいけない。まず、当たり前のように、進化過程を押しすすめることが望ましいであるという前提に立っているが、本当にそうなのだろうか。単純に考えてみても、何億年も変化なく生存しているシーラカンスのような生物の存在が、なにかほかより劣っているということはないはずだ。本来、生物進化の観点からすれば、生存していること自体が一番の価値である。

もっと踏みこんで考えれば、人間種の進化がどのような意味で望ましいと言えるのかを考える必要がある。まず、地球生物全体にとって、人間種の進化がどこまで望ましいと言えるのか。しばしば種の絶滅が進化に与してきたとは、著者自身が述べてきたことでもある。たしかに人間種の絶滅が望ましくないとして、それがどの立場からみて望ましくないのかを明確にしておくことは大事だ。さらにまた、人間種の進化の望ましさは、個々の人間個人にとっての望ましさとどこまで重ねあわせることができるか。それを考えることができることこそが、進化の果てにここにいる、人間という種の特殊性である。こうした事情を考えていくと、本書の思考はまだまだ浅い。

「これまでこのように進化をしてきた」という知見は、まさに生物学の専門性が発揮される領域である。だが、「ゆえにこれからこうすべき」という大きな方向性は、生物進化の学説から直接導き出すことはできない。生物進化の過程とは、本質的に、大いなる結果論である。まして、高度な意識や判断力、そして文化や伝統を備えたヒトという生物は、長い生物進化の果てに生まれてきた存在でありながら、それまでの進化過程には存在してこなかった前例のない存在である。ヒト以外の生物に関するあれこれの知見から得られることは非常に大きいが、それでは埋まらない問題領域も広大なのだ。

[J0322/230102]

鈴木涼美『JJとその時代』

副題「女のコは雑誌に何を夢見たのか」、光文社新書、2021年。

序章 甘くて残酷な女性ファッション誌の夢
第1章 JJの時代
第2章 女性誌は生き方を規定する
第3章 JJの誕生と大学のブランド
第4章 女子高生と雑誌
第5章 エビちゃんOLとは何だったのか
第6章 JJの終焉と「自由」な若者たち

1990年以降の時代を中心に、女性雑誌とそれとともにあったそのときどきの若い女性の生き方を辿る。情報が雑誌の変遷と本人の感覚だけという限界はあるにせよ、社会史研究としても成立していると思うし、ひとつの時代史として秀逸。機微に富んだ分析は、著者が当事者だったからこそという面もたしかにあるが、ある種の客観性は担保できているのでは。

とくに序章は、メディア研究を考えている学生にぜひ一度読ませたい文章だし、それだけでなく、この文章を読んで涙する同時代の人がいたとしてもおかしくないと思う。一方では雑誌の時代はもう終わったのだという基本認識がありつつ、他方では、たんに「メディアに踊らされている読者」という想定を強く否定して、当時の読者の主体性に共感を寄せる姿勢がある。

「あえてその〔JJといった〕雑誌が規定してきた価値観に、力強くイエスと答えてきた女性たちの主体性に注目することもできるのではないか、と私は思う。男性にとって(都合の)いい女や高級(そう)に見える女が提示されたことに間違いないが、表紙の梅宮アンナを魅力的に思い、梨花の私物の買い物をチェックして真似した女性たちの選択を、単に社会的圧力や社会的に構築されてきた思い込みによって、本当に100%「そう思わされていた」だけだと一蹴してしまうには、その憧れの気持ちはあまりにキラキラ眩く、フィジカルで生々しいものであった気もするのだ」(20)。

社会学や文化研究、とくにその通俗的バージョンは、「憧れ」というものの本体を見逃しがちなのかもしれないね。

1990年代に全盛を迎えたJJ。「女であることに疑問を抱かず、女としての側面を強調した生き方に迷いがない。そのはっきりとした外的イメージを作っていたのが、おそらく受け継がれ続けたニュートラの流れと多面的なブランド志向だ」(47)。

1970年代まで戻って、「アン・ノン」の話題。斎藤美奈子の解説を紹介して、料理や洋裁といった家事について「『女の義務』が『女の趣味』に代わった」。

1990年代~2000年代の女性たちの行き方を活写した記述は本文に委ねるとして、「女性雑誌以後・SNS時代」の状況や可能性について、著者の見方は両義的。

「女子高生の衰退を経て、より極端なものが避けられ、誰が見てもそれなりに可愛くてそれなりに綺麗なファッションが流行していくのであれば、雑誌は女子高生をジャンルの中に閉じ込める役割よりも、彼女たちの表現を爆発させ、力を伸ばし、大きな意味での若い力の発散の場を与えるものであったようにも思うのだ」(186)

実感としては分かる気がする。社会学的分析としては、これにプラス、三浦展が団塊世代に対して行ったような、人口動態的な観点を加えると、今の若い人たちの立場をいっそう理解できそうだ。

[J0321/221227]

伊豫谷登士翁『グローバリゼーション』

副題「移動から現代を読みとく」、ちくま新書、2021年。

序章 移動という経験
第1部 グローバリゼーションの時代
第2部 移動とは何か
第3部 場所の未来
人の移動をどう考えるか

おもに人の移動としてのグローバリゼーションの経緯や諸テーマを語る。後半は、日本における移民の問題を「再考」する。奇をてらわない記述で教科書的とも言えるが、21世紀以降に更新されたグローバリーゼーション理解として、勉強になるところもあれこれと。

「労働力の再生産は、国家が果たすもっとも重要な経済的機能の一つであり、近代国家は、教育や医療を通じてその役割を担ってきました。失業者のプールとしての産業予備軍は、社会政策などを通じて、さらには福祉国家政策によって、最低限の生存を制度的に保障してきたのです。しかし、国民経済の外部における無尽蔵の労働力プールの利用可能性が開けたことによって、すなわち産業予備軍がグローバル化したことによって、国家による生命の再生産への介入は限定されることになります。これは福祉国家的な社会保障政策の後退を意味します」(123)。いや、重大。同じく・・・・・・「再生産労働に従事する女性移民の増加にもかかわらず、労働力は基本的には市場経済のなかで生産することができません。それは国家と家族というある種の共同性の集団のなかで再生産されるほかないのです。そしてその再生産を保障する制度は、近代国家においてはナショナルな領域のなかで制度化されてきたのであり、現在においてもそうです」(186)。

「総力戦体制期は国民国家と移民との関係が劇的に変化した時代であり、民間人ならびに植民地の人々が戦争へと動員され、きわめて短期間に、しかも世界的な規模で人が移動した、もう一つの移民の時代でした。植民地主義という暴力的な労働力化が、世界戦争の過程で一挙に推し進められたわけです。その意味で総力戦体制は、植民地地域を含めた未曾有の規模での世界的な原蓄過程、すなわち新規の追加的労働力供給確保だったとみることもできるでしょう(C・メイヤスー『家族制共同体の理論』、ジェームズ・C・スコット『ゾミア』)。戦後の占領期は、その原蓄過程で析出された労働力が、独立国家となった発展途上国政府ならびに占領軍の権力によって産業化へと組み込まれた時代でした。戦時に析出された労働力は、戦後に世界的規模で展開する資本のグローバルな労働力編成の前提条件を生み出す基盤となりました」(181)。

[J0320/221226]