Month: April 2023

山本ひろ子『摩多羅神』

副題「我らいかなる縁ありて」、春秋社、2022年。

1 摩多羅神と夢の女人―壇上遊戯としての恋)
2 毛越寺の二十日夜祭
3 毛越寺の摩多羅神と芸能―「唐拍子」をめぐって
4 摩多羅神紀行―服部幸雄『宿神論』の向こうへ
5 出雲の摩多羅神紀行(前篇)―遙かなる中世へ
6 出雲の摩多羅神紀行(後篇)―黒いスサノオ
補章 出雲の摩多羅神新考
7 我らいかなる縁ありて今この神に仕ふらん―常行堂と結社の神
8 大いなる部屋―修正会から三河大神楽へ

2010年、島根県安来市の古刹清水寺で、中世の摩多羅神像がみつかったことが、筆者による摩多羅神をめぐる旅のターニングポイントとなっている。長らく正体不明だったこの像は、雪害でお堂が潰れた際には、一体だけ厨子から飛び出して無傷だったとのことで、「中世の奇瑞譚さながらで、まさに「出現」というにふさわしい」(246)と。調査で判明した胎内銘が重要で、「嘉暦二二己巳(*1329年)七月廿二 雲州清水寺常行(*堂) 摩多羅大明神 仏師南都方法橋 覚清生年六十一歳」となっている。

出雲にはもうひとつ重要な摩多羅神信仰の跡として、鰐淵寺常行堂がある。常行堂と摩多羅神の組み合わせは、叡山から念仏行に伴って各地の有力寺院に伝えられたもので、叡山常行堂のほか、日光山常行堂、毛越寺常行堂があり、いずれも深く秘された秘法相伝、結社の神として祭祀されてきたという。

鰐淵寺の摩多羅神がスサノオとみなす説が『懐橘談』などにあり、そこに筆者は「異神」としてのスサノオを認める。ここで注目される土地は韓竈神社のある唐川で、唐川にはスサノオの「脛の骨」を埋めた墓があるという伝承があるのだという。典拠のリンクを貼っておきましょう。
>『島根県口碑伝説集』https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1465126/1/1 
また『雲陽誌』には、鰐淵寺の山上にもスサノオの葬地があったと記されているらしい。

「摩多羅神が接近遭遇し、一部で合体を果たしたのは黒いスサノオの方であった。いくつかの所伝と土地に痕跡を残す黒いスサノオに、摩多羅神の影がうっすらと重なっている。一方、杵築するスサノオには、摩多羅神は関心を示さなかったし、近寄りもしなかった。それも当然のことだろう。国土造成の行為をする神に、異神たる摩多羅神がすりよるはずがない」(160)。

こうした神話学的ないし山本学的な解釈のほかには、歴史学の立場からは、次のような近世初期出雲大社における「神仏隔離」原則の推進に関する指摘がある。「中世の否定による大社祭神のスサノオからオオクニヌシへの転換、及びその杵築大社との関係の断絶にともなって、鰐淵寺では蔵王権現をスサノオと主張することができなくなり、しかし浮浪山の山号のためにはスサノオとの関係が不可欠で、そのことから摩多羅神をスサノオと読み替え、それを近世鰐淵寺の新たな守り神にしたということなのだろう。杵築大社と同じ大社造りの摩多羅神社の創建が、杵築大社からの断絶を宣告された寛文七年(1667)だというのも、決して偶然のこととはいえない」(井上寛司「出雲大社と鰐淵寺」『もう一つの出雲神話』特別展図録、出雲弥生の森博物館、2013年、36頁)。つまり、「杵築大社が否定したはずの中世という時代の様相を、形を変えながらも今日まで伝えている」の鰐淵寺なのだという。

出雲というと、古代がピックアップされがちであるが、中世もまた濃い。

[J0352/230404]

神崎宣武『吉備高原の神と人』

副題「村里の祭礼風土記」、中公新書、1983年。

第一章 高原の土と水
第二章 氏神の秋祭り
第三章 荒神の式年祭
第四章 株の祭りと家祈祷

著者39歳の頃の一冊。2023年2月にNHKで特集番組もあったが、今回美星町や中世夢が原を訪ねる機会があった――宇佐八幡社もお参りしてきた――ので、昔読んだ本を再度手にとる。番組の中でも語られていた、司馬遼太郎に「命じられて」書いたという民俗誌。講談社学術文庫で再版された『神主と村の民俗誌』(旧題『いなか神主奮闘記』1991年)は、筆者の語り口も確立されて読みやすいエッセイ風の一冊だったが、こちらはそれに比べるともっとかしこまった、要するには、信仰生活を中心とした美星町八日町のエスノグラフィー。

当地には、氏神(宇佐八幡)に加えて、地縁的な集団でである荒神組、祖霊の祀りであって血縁的な小集団である株神組が重層的に存しているという。株神として祀られているものの多くは摩利支天で、それはこの辺の家系が小笹丸城の家来で、武家との関係があるからではないかと、著者は推測している。

「一代に一度は八幡様の大当番」と言われていて、負担の重い当番が、かつては家の造作や調度品のあつらえを行う機会でもあったという指摘に、なるほど。

さまざまな機会に催される備中神楽も大きな特徴。神楽の口上のなかに、ミサキも現れる。猿田彦(さだびこ)が舞いながら「東西南北に御崎はないか」「死魔はないか」と。土地に祀られている御崎神には、火御崎神と水御崎神とがあり、火災や水害による不慮の事故が起きたときに、ふたたびそれがないように祀るものだという。

著者は、吉備以上に出雲の影響が強いと指摘しているが、神楽には出雲神話もたっぷり盛り込まれている。神楽の即興的な掛け合いとして紹介されているもの。「さって、この神殿の真中に立っているハンサムボーイを、いかなる者とや思うらん。我こそは出雲の国楯縫の郡、小阪井村に鎮座仕る松尾明神、酒造りの守護神にて候。それがしを尊信する者は、清酒、焼酎、濁酒、はたまたやけ酒をいくら飲んでも、悪酔もさせず二日酔もさせんとのご託宣せり。これより神変奇酒毒酒八千国造らばやと存じ候。やあ、お囃し御苦労千万」(97)

NHKの番組では、いまでもなんとか細々と、伝承が続いている様子が描かれていた。中世夢が原もなかなか閑散としていたが、それでも夢が原と神崎先生という地域の歴史を伝える拠り所があるのは、この地域の幸運だろう。

[J0351/230403]