Month: August 2024

島薗進『戦後日本の国家神道』

副題「天皇崇敬をめぐる宗教と政治」、岩波書店、2021年。

第Ⅰ部 国家神道をめぐる概念枠組み
第一章 近代日本の宗教構造と国家神道
 1 「神道指令」 と国家神道概念
 2 狭義と広義
 3 「宗教」、 治教、 祭祀
 4 国家神道とは何か
 5 宗教構造の変容
第二章 国体論神聖天皇崇敬と神道
 1 国体論神聖天皇崇敬と神道の関係
 2 今泉定助が捉える神道と国体論
 3 国体興隆と神道の復興としての明治維新
 4 近代神道史と国体論天皇崇敬
第三章 「宗教」 の上位にある精神秩序としての神道
 1 「宗教」 という訳語
 2 近世における 「道」 「教」 「宗門」
 3 「宗教」 の上位の 「治教」(「皇道」)
 4 文明の基盤としての 「宗教」 と 「信教の自由」
 5 「神道」 「皇道」 が 「宗教」 ではない理由
 6 「祭祀」 「治教」 が 「神道」 とみなされるまで
第四章 神社神職中心の神道観は妥当か
 はじめに
 1 神社を「民族宗教」とみなす
 2 神祇信仰から神道への展開を問う
 3 神社こそ神道の基体とみなす
 4 国家神道を宗教集団とみなす
 5 共有された考え方や行動様式から宗教を捉える
第五章 明治維新は世俗的変革か――安丸良夫の国家神道論をめぐって
 はじめに
 1 戦前の日本は世俗国家か
 2 神話に基づく天皇崇敬と国体論は宗教的ではないか
 3 まがりなりにも 「信教の自由」 は成り立っていたか
 4 国民国家とナショナリズムは世俗的か
第六章 国家神道神聖天皇崇敬の 「見えない化」――葦津珍彦の言説戦略とその系譜
 1 葦津珍彦と 「天皇の神聖」
 2 狭義の 「国家神道」 の言説戦略
 3 「国家神道」 と神聖天皇崇敬の 「見えない化」
付論1 神道国家神道の戦前戦後――『戦後史のなかの 「国家神道」』 をめぐって
 はじめに
 1 「広義の国家神道」 概念は戦前に系譜をたどれるか
 2 戦後の広義 「国家神道」 と戦前の 「神道」 の連続性
 3 戦後憲法学の 「国家神道」 とその系譜おわりに
第Ⅱ部 「国家神道の解体」 と天皇の神聖性
第一章 国家神道の戦後――皇室祭祀神社本庁
 1 「国家神道の解体」 の実態
 2 戦後の皇室祭祀
 3 宗教教団としての神社本庁
第二章 敗戦と天皇の神聖性をめぐる政治
 1 「天皇の人間宣言」 は誰の意思によるものか?
 2 「国体のカルト」 をどう制御するのか
 3 神道と天皇崇敬という複合問題
 4 「天皇の人間宣言」 が先送りしたもの
第三章 国家神道の存続と教育勅語の廃止問題
 1 国家神道の解体と教育勅語
 2 教育勅語の存続
 3 占領初期の日本の知的指導者らの教育勅語観
 4 南原繁の教育勅語尊重と天皇崇敬
 5 「国体護持」 と 「民族共同体」
付論2 戦後の靖国神社をめぐって
 はじめに
 1 靖国神社はなぜ生き延びることができたのか
 2 戦後靖国政治史をどう捉えるか?
第Ⅲ部 天皇の神聖性をめぐる政治の展開
第一章 戦後の国家神道復興運動――日本会議神道政治連盟神社本庁
 はじめに
 1 日本会議の運動
 2 神道政治連盟と皇室の尊厳護持運動
 3 神社本庁の発足と設立の意図
 4 神道政治連盟の結成とその後の運動
 5 安倍元首相と国家神道伊勢神宮
 おわりに
第二章 日本人論と国家神道の関わり
 はじめに
 1 中空構造無構造固有信仰
 2 日本人論と国民道徳論
 3 教育勅語国体論から日本人論へ
 4 新たな 「神聖天皇」 言説
 5 昭和前期戦中期の言説への回帰
 おわりに
第三章 皇室典範と「万世一系」
 はじめに
 1 皇位継承問題と立憲主義
 2 生前退位問題と立憲主義
 3 生前退位否定の根拠と 「万世一系」
 4 『皇室典範義解』 の終身在位論
第四章 生前退位と 「神聖な天皇」
 1 天皇崇敬を重視する論者の反対論
 2 天皇の人間性
 3 天皇の神聖化の動き
 4 「新日本建設に関する詔書」 との照応関係
 5 象徴天皇制と信教の自由思想信条の自由

I-1、「ここで概念化を試みた広い意味での「国家神道」は、神聖天皇崇敬と結びつき、学校、軍隊、国民行事、メディア、神社などを通して、さまざまな機会にさまざまなエージェントを通して鼓吹されたものである。・・・・・・教育勅語や御真影をめぐる儀礼的実践、軍人勅諭の奉読等は神道的な要素を色濃く含むとはいえ、「神聖天皇崇敬」が基調である。それらのすべてを「国家神道」に含める必要はないが、それらが国家神道と密接に結びついて、その境目を区切ることが困難であることについては異論が少ないであろう」(29)。

なお、著者が『国家神道と日本人』(2010年)で論じてきた「国家神道」に「神聖天皇崇敬」を合わせて用いる方針は、『神聖天皇のゆくえ』(2019年)や『明治大帝の誕生』(2019年)を著す中で固まってきたものだという(「あとがき」418)。

近代の国家神道・神聖天皇崇敬と諸宗教・諸宗派の「分業を内包した二重構造」(32)。そしてまた、「「宗教(狭義)」と「治教」や「祭祀」という二重構造は実は、近代以前から存在していたものだった」(33)。「個々人の救いと死生の超越を志向する仏教や神仏習合の諸宗教・諸宗派の上位に、政治権力と国家を聖化し、秩序原理を提示する「治教」と「祭祀」のシステムが重なる二重構造」とは、「近世東アジア的な宗教構造の日本的形態と言える」ものだったという(33)。ただし、「日本の近代の宗教構造は神聖天皇崇敬と結びついた国家神道を生成させることにより、世俗秩序の宗教的聖化のシステムを著しく肥大化させることになった」(33-34)のであり、「国民としての規律づけが、儒教や神道の伝統を引き継ぐ、世俗秩序の聖化のシステムと不可分なものとして展開したわけである」(34)。さらには、「〔神道指令によるところの〕「国家神道の解体」の後にも、日本の宗教の二重構造が完全に「解体」してしまったわけではなく、異なる形で存続していると見る見方も十分に成り立つはずである」(34)。

I-6、国家神道・神聖天皇崇敬の「見えない化」。実証史学の観点から広義の「国家神道」にあたる用語の実例があまり見あたらないことから、「国家神道」という概念を使えないとする山口輝臣の主張も、葦津珍彦や阪本是丸のように、一時期国家に属した神社神道にかぎって「国家神道」を狭く定義しようとするやり方も、いずれも「神聖天皇崇敬がもった強力な歴史的働きを「見えない化」することにつながっている」(149)と、著者は批判する。「神社神道、皇室神道、神権的国体論は密接に関わって近代日本の精神文化を、また人々の行動様式や形づくってきた。そのことを「見えない」ままにしておく用語法は歴史学的にも適切と言えないだろう」(149-150)。

II-1、「神道指令が「神道のイデオロギー的歪曲」と捉えたものは、皇室祭祀をその中核に含み込んだ「祭政教一致」の規範体系として一体性をもっていた。神道の歴史を理解する上でも、他の社会との比較を行う上でも、そして、近代日本国家を支えた規範=表象体系の全体像を捉える上でも、このシステムを名指すことは避けがたいことである。その用語としては国家神道が適切だ。これが筆者の立場である」(181)。

近代日本において神社神道、皇室神道、神権的国体論、あるいは神聖天皇崇敬が結びついてひとつの国家的システムを形づくってきたこと、それは国家制度であるのみならず、民衆にも深く食い込んだものであること、そしてこれが筆者の着眼の重要な点であるが、それが現在にいたるまで一定のかたちで存続をしていること、これらの主張には首肯である。ただし、それを名指すのに「国家神道」以外の用語はありえないものか、とも直感的には思う。

「「宗教集団としての神社本庁」は研究史上の盲点になってきたと言える」。「神社本庁は民間の神社信仰をすくいあげてまとめるというよりは、国家と天皇を主要な主題とする政治的宗教団体として発展していく。神社本庁は広い意味での国家神道的な信念を宗教的な柱とし、神道的な意義をもあった天皇崇敬や天皇と神社の連携強化を目指すようになる。民間の神社神道の充実というよりは、主に国民生活のなかでの国家神道の地位を高めることに多大な力を注ぐ宗教教団として活動を進めていくことになる」(193)。まさに盲点、言われてみればそのとおり。本書III-1でも取り上げられているが、「日本会議」への注目でその領域もある程度認知されるようにはなったが。

「第二次世界大戦後の国家神道はたとえ「解体」されたとしてもけして消滅したわけではなかった。戦後の国家神道はいくつかの大きな座をもっていた。一つは皇室祭祀であり、もう一つは神社本庁を重要な担い手とする神聖天皇崇敬運動である。前者は見えにくい形に隠れているが、現存の法制度のなかでの国家神道の核であり、後者はその核を見据えつつ、国家神道的な制度を拡充していこうとする団体や運動体である。伊勢神宮と靖国神社はこの両者を媒介する位置にある。20世紀後半の日本の国家神道は、「隠れた皇室祭祀と運動体のなかの国家神道」の連合体として位置づけることができるだろう」(200)。あと、ここに付け加えるとすれば、遺族会の存在か。著者が遺族会に言及していないのは、それがだんだんと力を失ってきていることと、あと穿った見方をすれば、国家神道における「救い」の問題をペンディングしておきたいという意識もあるだろうか。

II-2、これは僕が勉強したことないからメモをしていおくものだが、天皇の人間宣言は、「天皇は神の裔ではない」とあったCIEの原文を、侍従次長の木下道雄と天皇自身が修正して、「天皇は現人神ではない」としたものだという。その意図するところは、天皇自身は神ではなくても、神の子孫ではあるという主張を維持したということだと。その経緯は、幣原平和財団編『幣原喜重郎』や木下道夫『側近日誌』にあるとのこと。

[J0497/240810]

島薗進『国家神道と日本人』

岩波新書、2010年。ちょっと読み直しを。

第1章 国家神道はどのような位置にあったのか?
第2章 国家神道はどのように捉えられてきたか?
第3章 国家神道はどのように生み出されたか?
第4章 国家神道はどのように広められたか?
第5章 国家神道は解体したのか?

「もちろん皇室祭祀自体は長い歴史をもつ。だから、これまでも小規模な皇室神道は存在した。しかし、明治維新によって従来とは質的に異なる大規模な皇室神道が新たに創出されたといってもよいだろう。しかもそれらは宮廷社会でごく少数の人々の関与のもとに行われていたこれまでのものとは異なり、大多数の国民の精神生活に深い影響を及ぼすものとなった」(23)。

「「公」の国家神道と「私」の諸宗教が重なりあうという二重構造的な宗教地形」(51)。これが「祭政一致」と「政教分離」の並存を可能にした(56)。「しかし、平時の国家神道の側からすると、この二重構造という前提の下で諸宗教が存在することは、むしろ必要なことでもあった。国家神道は「公」の国家的秩序について堅固な言説や儀礼体系をもっているが、「私」の領域での倫理や死生観という点については言葉や実践の資源をあまりもちあわせていない。また、「公」の領域でも、西洋由来の思想や制度のシステムの助けを借りなくては、存続しえないものだった。そこで日本文化の特徴を自覚的に考える人たちにとっては、国家神道と諸宗教や近代の思想・制度が支え合うことによってこそ、ある種の多様性を抱え込んだゆるやかな調和が成り立つ、そこに多神教的な日本文化の利点がある、と感じられる。日本の国体が美しいとされる一つの理由である。こうした精神状況は、そのまま第二次世界大戦後に流行する日本人論に引き継がれていく」(51)。

著者は「国家神道」の語を広めにとり、これを外延において、「神社神道」や教育勅語に示される「国体論」と一致するものとは考えない。「神社神道」・「皇室神道」・「国体の教義」の三要素を不可分のものとして指摘した村上重良の国家神道論とは異なり、戦前のある一時期を特徴づけるものである、現人神の観念を国家神道の必須要素とも考えない。

また、「天皇制イデオロギー」という概念を、次のように批判する。「歴史学の立場からの国家神道研究が皇室祭祀を軽視しがちであることと、「天皇制イデオロギー」の語に依拠する傾向が強いことは大いに関係がある。イデオロギーという概念に込められる意味は立場によって異なっているが、イデオロギーという概念に影響されて国家神道を捉え損なっている点では、神道指令の背後のアメリカ的な発想と、マルクス主義以来の「社会科学」的発想に相通じる点がある」(91)。

村上重良の国家神道理解批判として。「国家神道をまずは神社神道という宗教集団に関わること、また、宗教制度(宗教集団の政治的位置づけ)に関わることと捉えるとともに、他方では宗教集団とは別の「皇室神道」や「国体の教義」に関わることと理解しており、それらの関係が明らかにされていない」、「国家神道をもっぱら政府が国民に強制したものと捉えていて、国民こそが国家神道の担い手だったという側面についてあまりふれられていない」(139)。

村上重良『国家神道』における4区分、「形成期」「教義的完成期(帝国憲法発布~日露戦争)」「制度的完成期」「ファシズム的国教期(満州事変~敗戦)」。本書著者による修正案。呼称を「形成期」「確立期」「浸透期」「ファシズム期」とし、第二期と第三期の区分を日露戦争(1905)ではなく、大逆事件と明治天皇の死(1910年頃)とする。

靖国神社がもつ「実存的深み」について。「国家神道は仏教やキリスト教や天理教のような救済宗教と異なり、個人の運命に関わり死後の救いを約束したり、苦悩する個々人の魂に訴えかけるというような実存的深みの次元はさほどもっていない。国家神道と諸宗教との二重構造ということの中には、救済や死後の生、あるいは苦悩からの解放といった実存的な問題は私的な領域に本領がある諸宗教に任せ、国家神道は公的な秩序の領域を司るというような分業的な意味合いもあった。ところが若くして死んでいく兵士の運命に関わる靖国神社の場合は、避けがたく実存的な苦悩や癒し・慰めの次元が入り込まざるをえない。人々の心の奥深い部分をも揺り動かす力をもっているという点で、靖国神社は国家神道の中で特別な重みをもつ施設となった」(152)。この見方がどこまで妥当であるかは措いて、宗教による救済を論じ続けてきた著者らしい着眼。

本書の議論の目立った特徴、国家神道の戦後における存続。「第二次世界大戦後の国家神道はたとえ「解体」されたとしてもけっして消滅したわけではなかった。戦後の国家神道は二つの明確な座をもっていた。一つは皇室祭祀であり、もう一つは神社本庁などの民間団体を担い手とする天皇崇敬運動である。前者は見えにくい形で隠れているが現存の法制度の中での国家神道の核であり、後者はその核を見据えつつ国家神道的な制度を拡充していこうとする団体や運動体である。さまざまな政治・宗教・文化団体があり、さらに広く国民の間にゆきわたっている天皇崇敬や国体論的な考え方・心情がある。これらに支えられつつ、国家神道は戦後も存続し続けて今日に至っているのだ」(213)。

バルトの「空虚な中心」論への批判。「薄められた形ではあるが、明治維新前後から形成されていった国家神道はなおも存続している。そのことが見えにくくなっているからこそ、「空虚な中心」という言説が人気をよぶのだ」(222)。

僕自身による本書まとめ。日本人はしばしば無宗教だと言われる。しかし、それは「真空」のような状態なのではなく、「見えにくい」かたちで存続する国家神道の働きなのだ(「見えにくい国家神道」は本書にもある表現)。それは、本当の無神論とは異なるという意味で、日本社会が「世俗化していない」ことを示しているが、(けっして本書著者はこのような表現はとらないが)人々に適切に救済をもたらす真の社会的な宗教を排除する構造として、日本社会の公的領域を「世俗化」している歴史的-社会的背景を形成しているのだ・・・・・・、と。さあ、どうでしょう。

本書読解上の課題として、安丸良夫の所論との距離感を確かめておきたいところでもある。それから、国家神道の存続が語られている一方で、国家神道と諸宗教の「二重構造」のゆくえ、とりわけ戦後におけるゆくえについてははっきりとは書いていないようだ。

[J0496/240804]

佐藤弘夫『アマテラスの変貌』

副題「中世神仏交渉史の視座」、法蔵館文庫、2020年、原本は2000年。

プロローグ 神仏交渉論への視座
第1章 祟る神から罰する神へ
第2章 “日本の仏”の誕生
第3章 コスモロジーの変容
第4章 変貌するアマテラス
第5章 日本を棄て去る神
エピローグ ある個人的な回想
文庫版解説

古代から中世へ、「祟りをなす〈命ずる神〉から賞罰を下す〈応える神〉へ」。ただし、古代における祟りとは、必ずしも邪悪なものだったわけではなく、神意の表現一般であったが、意思の不可測性を特徴としていた。それが、仏教的世界観への日本の神祇の組み入れによって、神々の性質が変容していったのである(104 ff.)。

中村生雄の説を紹介して、「神を二つに分類し、賞罰の権限を行使することによって仏法を守護する由緒正しき神を「権社」、死霊・悪霊といった祟り神を「実社」とすることは、中世では仏教者を中心に一般化していたのである」(70、『日本の神と王権』)。

起請文に登場「しない」仏に注目するところが、著者一流の着眼。「起請文に勧請される神仏のなかで、圧倒的に数が多いのは日本の神である。そうしたなかに、少数ではあるものの、仏の名前を見出すことができる。もっとも頻繁に登場するのが、東大寺の大仏である。石山寺や長谷寺の観音なども起請文の常連だった。起請文の罰文では、誓約を破ったときに罰を与える存在として、これらの神と仏がまったく同列に勧請されているのである。それだけであれば、あまりにも常識的なことで、だれもあえて口にしないだけだ、といわれるかもしれない。しかし、わたしが不思議に思ったのは、起請文に決して名をみせることのない一軍の仏たちがいたことである。極楽浄土の阿弥陀仏は絶対に登場することはなかった。密厳浄土の大日如来もそうだった」(300-301、自著解説部分)

往生伝における阿弥陀仏の登場のしかたについて、「それは同時代の説話集について、現世利益の霊験譚が常に特定の寺の具体的な「仏」と不可分の現象として説かれていたことと、際立った対照をなしている」と指摘する(96)。「すなわちそこには、現世のさまざまな問題解決を担当するのがこの世界の形而下の仏であったのに対し、極楽へ導いてくれる主体は他界浄土の仏である、という当時の通年が存在していたのである」(96)。「この世界の形而下の仏」とは、〈日本の仏〉のことである。

中世の神仏のコスモロジー、「彼岸の仏と此岸の神仏という二重構造」。「本地垂迹とは、狭義の神と仏の関係のみに留まらず、此土の神仏を、他界の仏がこの世の衆生を救いとるために具体的な姿をとって出現したものとみなす思想だったのである」(101)。本地垂迹とはたんに仏と神を結びつけたのではなく、「人間が容易に認知しえない彼岸世界の仏と、この現実世界にある神や仏との結合の論理」なのであった(104)。

後世の神仏区分に囚われないよう、さらに進んで、「私たちは、〈神〉という言葉を神・仏・諸天・聖霊など人間を超えた存在するすべてを包摂するものと解釈した上で、以後、他界にあって来世・次生の救済を事とする仏を〈救う神〉、此土にあって賞罰を司る神仏を〈怒る神〉と定義することにしたい。神-仏という区分よりは、救済を使命とする彼岸の神=〈救う神〉と、賞罰を行使する此土の神仏=〈怒る神〉という分類の方が、当時の人々の実感に即した冥界の区分だったのである」(103)

「機能分化に基づく諸仏諸神の共存という理念は、国土のここかしこに神社仏閣があって、無数の神仏が並存していた日本中世の現実に対応し、そうした状況を追認する論理であったことは明らかである。神仏の選択を人間の側の主体的な判断に委ねるこのような理念のもとでは、個々の神仏の権威は著しく相対化されることは必至だった。それゆえ、こうしたコスモロジーからは、世俗のあらゆる権威を超越する神仏の至高性を強調するような主張は、生まれるべくもなかったのである」(132-133)。

中世におけるアマテラスの位置も、こうしたコスモロジー全体の中で理解されなくてはならない。「天照大神は確かに「日本」という限定された空間では「国主」であったかも知れない。だが、中世的なコスモス総体の中でみれば、所詮は日本の神々の筆頭でしかなかった。その外側と上下方向には、さらに広大な神仏の世界が広がっていたのである」(190)。しかもその「日本国主」の主張すら、他の多くの神々とその地位を争っていた。「いわば神々の戦国時代ともいうべきものが、神をめぐる中世の思想状況だったのである」(196)。

こうした中で、日蓮や親鸞の思想はやはり異彩を放っているが、次の指摘はおもしろい。「しかしここで重要なことは、神祇不拝という基本的立場を取る一方、鎌倉仏教の祖師たちはだれひとりとして神々の存在自体を否定しなかったことである」(213)。

日蓮にみられ、実はさらに時代を遡るという、国土守護の神が日本を見捨てて去るという「善神捨国」の理念。たまたま、島薗進『日本仏教の社会倫理』を読了したばかりなので、この「善神捨国」理念や、あるいは儒教的な徳治主義と、正法理念との関係が気になる。そういえば、『日本仏教の社会倫理』でも、「妙法蓮華経」の「妙法」とは「正法」の別訳であるとしつつ、日蓮の思想が取り上げられていたはず。

文庫版に付された、著者自身による解説も有益。とくに、黒田俊雄の顕密体制論を、「国家の存立と支配に果たす超越的存在の役割を的確に認識し」(297)、従来の鎌倉新仏教中心史観を(結果として)塗り替えた点で画期的と評価する一方、それは神仏の権威の利用を述べるだけで、「中世人がいだいていた神仏世界のリアリティの深層にまで踏み込むことはなかった」(298)と、著者自身の問題意識を説明している。

「前近代の人々の認識では、この世界の構成者は人間だけでなかった。・・・・・・中世以前の時代にまで遡れば、社会をもっとも根源的なレベルで突き動かしているのは人間ではなく、神仏の意志だったのである」(304)。「わたしたちが前近代の国家や社会を考察しようとする場合、その構成要素として人間を視野に入れるだけでは不十分である」(305)。

[J0495/240804]