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W.クラーク『死はなぜ進化したか』

ウィリアム・R・クラーク、副題「人の死と生命科学」、岡田益吉訳、三田出版会、1997年。原著 Sex & The Origin of Death は、1996年刊。

著者は免疫学の研究者らしいが、免疫学や細胞学の話だけにとどまらず、ノンフィクション作品の要素も加えながら、死について考察する。似た主題を扱った高木由臣『有性生殖論』(NHK出版、2014年)に比べ、バランス感覚があってこなれている。

1章 細胞の死
2章 死のもう一つの顔
3章 性、DNAの隔離、そして細胞の死
4章 セックスから死へ―老化の不思議
5章 細胞の上下関係―脳死とは何か
6章 生命の深淵を覗く―ウイルス、胞子、生命の意味
7章 終幕

本書を読むに、やはり、細胞レベルの死と、個体レベルの死との関係は問題である。前述の高木本はあっさりそれを同一視するが、それでは現実の死の問題を考えるには不足である。細胞レベルの死/生物個体レベルの死/個人意識レベルの死/DNAレベルの死(断絶)・・・・・・。

アポトーシスとの関連から、キラーT細胞が標的細胞を「破壊する」しかたについて。「キラーT細胞により死の運命を選択させられた細胞は、殺されたのではなく自殺したのである。キラーT細胞が特別の武器を隠し持っているに違いないと、それを探し求めていた歳月は、結局は無駄だったのである。キラーT細胞が持っていたのは、細胞を破壊する武器ではなく、特別の保安暗号の知識である。細胞は自分自身のなんかに自己破壊のプログラムを内蔵している。これは決して一部の異質な細胞のことではなく、生体内のすべての細胞に当てはまるのである」(59)。で、キラーT細胞は、そのプログラムを発動させるのであると。

たとえば、もっとも小型の多細胞動物であるC・エレガンスの受精・細胞分裂の過程でも、ヒトの細胞の自己破壊と同じ現象が観察される。「細胞の自殺は、何十億年という生物の歴史のなかで、完全に保存されてきた古い儀式であるらしい」(65)。

「セックスは、同じ種に属するに個体の間で遺伝情報(DNA)の一部、またはすべての交換混合することだけを指す。生殖は、ある細胞のコピーを作って数を増やすことである。したがって、「有性生殖」は遺伝情報の交換と細胞増殖、この二つの組み合わせを意味するのである」(81)。

「セックスによる生殖は疑問の余地なく遺伝的多様性を推進し、それによって種は環境の変化に適応することができるのである。・・・・・・セックスによる生殖のもう一つの重要な利点は、遺伝子の誤りを修理したり、取り除いたりすることが可能なことである」(83)。

「ゾウリムシやその仲間たちのような原生生物が出現する以前は、体細胞のDNAは、すなわち生殖生物のDNAであった。つまり、多細胞動物出現以前は体細胞と生殖細胞とは同一であった。われわれをも含めて、動物に見られる半数体の生殖細胞はある意味では小核の後継者であり、また地球創世期のモネラや無性的に増殖していた現生生物の直系の子孫であるということもできるだろう。つまり生物の細胞のなかで生殖細胞だけが不死という特質を維持しているのである。どんな生物でもその生活のサイクルのなかのある時点で、生殖細胞はその個体を離れて他の個体由来の生殖細胞と癒合すれば、細胞分裂を続けてたくさんの子孫の細胞を作ることができる。これらの細胞は新しい多細胞生物個体を作りあげ、生殖細胞さえも新生する。生殖細胞が新たな個体を作り始めたとき、ちょうどゾウリムシの接合後と同じように、老化の時計はリセットされる。生殖細胞が抜け出したあとの個体の細胞、体細胞は死刑判決をうけているのと同じで、プログラムに従って老化し、死んでしまう。生殖細胞の生存を見届けた後は、体細胞もその過剰のDNAももはや必要ないのである」(94)。
 多細胞生物における、不死である生殖細胞と死すべき体細胞との分化、という話。ただし、ここでいう「生殖細胞の不死」の意味するところと、体細胞が不死生を失って必然的に死がプログラムされることの進化論上の理由は、いまいちよくわからない。前者は、DNA情報の継続という意味での不死ということか?「細胞それ自体の生/死」と「DNA情報の連鎖としての生/死」についても区別が必要なのかも知れない。

「摩耗を考えた場合に最も心配な分子は、すべての遺伝的制御の中心、DNAである。DNAは常に突然変異に脅かされている。・・・・・・生殖細胞の減数分裂中の半数体DNAは、影響を受けやすいが修理もしやすい。その上生殖細胞には修理のための機材、すなわちDNA修復酵素が文字通り満載されている。体細胞にはこれらの酵素の供給がずっと少なく、老化した体細胞では特に減少する、そのために体細胞はDNAの修理ははるかに困難である。この結果として、体細胞には訂正されない突然変異が徐々に蓄積されてくる」(100-101)。「繊毛虫はセックスができないと老化していくが、その原因が主として大核DNAへの突然変異の蓄積であることを示す証拠はたくさんある」(101)。「セックスを行う原生生物では、遺伝的に決まっている寿命があり、その寿命は各生物種固有のもので、細胞外の条件に影響されないことは明らかである」(101)。

つまり、体細胞は、遺伝子修復をあきらめた細胞ということか。一方、生殖細胞が不死というとき、それが遺伝子修復機能を備えていることを前提しているということなのか。また、突然変異の蓄積による「老化」がしかたないことと、死が「プログラム」されていることとの関連もまだ明瞭ではない。がん細胞のように、老化≒異常化をふせぐために死がプログラムされている?摩耗の末の死と、予定された死との関係をまだ理解できていない。

「ヒトの細胞とバクテリアのような無性生殖のみをする単細胞原核生物とは、数週間培養を続けると初めてはっきりと違うことがわかってくる。バクテリアは栄養分の補給を続け、余分なバクテリアをときどき吸い取って過度の混雑を防いでやれば、分裂速度は決して変化しない。しかし、ヒトの線維芽細胞はいかなる手段を講じても、つまり、どんなにしばしば培養液を交換し、栄養を与えてやっても、結局は増殖が衰えてしまう」(104)。

「真核原生生物での教訓は体(非生殖)DNAの修復は厄介で高くつき、結局やる価値のないものであるということであった。・・・・・・古い体DNAを破壊して、もう一回スタートし直す方がずっと簡単である。体DNAが生殖DNAと別の細胞に入っている場合には、その細胞が死ねばよいのである。不幸なことに、その細胞というがわれわれ自身なのである」(107)。

「生殖細胞は無性的に増殖する単細胞のごとく、また原生生物の小核と同じように、潜在的には不死である。不死でいられる理由の一つは、生殖細胞が有害な突然変異を自分自身のDNAから一掃することができることである」(109)。

「初期胚から分離した細胞であるES細胞は全能性を持ち、不死であると結論することができる。しかし、発生後期にある胚からとった細胞ではこうはいかない。ES細胞となりうる細胞の存在する発生時期(杯盤胞期)を過ぎると、すべての細胞は全能性を失い、そして、同時に不死でもなくなることが明らかにされている。この時期以降、細胞は老化を開始する」(112)〔*これ、山中さんが更新したんだっけ?〕。なお、胚の発生が進行して、一部の細胞が生殖細胞に分化すると、その細胞は「不死の能力を再び獲得する」(118)。

「必ず死ぬという運命は、遺伝的に制御されている特別なプログラムそのものであるという認識が重要なのである。進化という観点からは、体細胞の老化と死、その結果としての体細胞DNAの破壊という一連の過程は、「機能獲得」の現象である。すなわち生命のこのような特性は最初の生命が誕生してから10億年の間は存在しなかったのである。そして、ひとたび老化とプログラム死が出現すると、その有利さのゆえに、これらの現象や、それを引き起こす遺伝子群は生物に「定着」してしまった。・・・・・・それでは、死のプログラムは誰にとって有利なのだろうか?加齢と死から誰が、あるいは何が利益を得るのだろうか?唯一の可能な答えであり、考えうる唯一の受益者は、生殖細胞を介して前世代から受け渡され、次世代に手渡されるDNAである」(112-113)。

また根本的な話になるが、DNAの存続が目的だとして、しかし、DNAは元の情報そのまま存続するのではない。突然変異もあれば、セックスによる交換混合もあり、その機構は推薦されてさえいる。遺伝子情報の完全な維持をめざすのであれば、無性生殖という手段をとることになる。つまり、多細胞生物≒有性生殖において、遺伝子情報の完全な維持は絶対の目的とされているとは言えないはずだ。だとすれば、どこまでもとの生殖細胞は「自己保存」を目的としていると言いうるのだろうか。DNAの自己とは何か。

再掲、胚の発生が進行して、一部の細胞が生殖細胞に分化すると、その細胞は「不死の能力を再び獲得する」(118)。「生殖細胞や初期胚の細胞に見られるような全開のゲノムでは、死を抑制する遺伝子群も目一杯に開いて働いており、細胞は無制限に増殖し、老化は阻止されている。この遺伝子群が働いている限り老化のプログラムは実行されないので、その細胞は実際上不死である」(120)。
つまり、細胞は死すべきようにプログラムされているが、そのプログラムを止めるプログラムも存在しており、それが生殖細胞を不死にしていると。

途中、死を考えるうえで、人間の脳死の問題が取りあげられ、脳/神経/それ以外に境界線を引く見方が、生物学的な根拠をもつものではなく、倫理的・哲学的な線引きであることが述べられる。

さらに、長期の冬眠のような、仮死状態としての潜在生活のことも取りあげる。例とされるのは、研究の進んでいるバクテリアのバチルス属の胞子形成過程である。最後には、ウイルスが考察の対象となる。「ウイルス自身は、生きている細胞の特徴をまったく持っていない。潜在生活と同じように代謝活性を欠くばかりでなく、細胞に由来したと認定できるいかなる構造上の特徴もそなえてない」(175)。

[J0664/260522]

J. ボードリヤール『象徴交換と死』

ジャン・ボードリヤール、今村仁司・塚原史訳、ちくま学芸文庫、1992年。底本の翻訳は1982年、原著は1975年。

『消費社会の神話と構造』は、現代社会の同時代的分析であったが、本書は社会の歴史的変容を前提にしている。ただし、前近代社会をモデルにしたり、理想像にするような分析とも一味ちがっている。学説面では、モース、ベンヤミン、マクルーハン、ソシュールあたりの発想が重視され、フロイトやマルクスは批判的に相対化されている。『消費社会の神話と構造』よりずっと難解で、性の話のところや、最後の記号論のところなどほとんど理解できていない(根詰めてまで読んでいないが・・・・・・)。

第1部 生産の終焉
第2部 シミュラークルの領域
第3部 モード、またはコードの夢幻劇
第4部 肉体、または記号の屍体置場
第5部 経済学と死
第6部 神の名の根絶

生産の終焉。記号となった労働。これはマルクス批判でもある。「労働を社会的割当て・反射・モラル・合意・規制・現実原則のごとく再生産することも依然として不可欠なのである。現実原則というのはコードの現実原則であって、それは社会全体に拡がった労働の記号の巨大な儀礼なのである。・・・・・・要求されていることは、人びとを社会化することである」(35)。

「労働はすべてサーヴィスになる――ただそこに居ることがそのまま職業となり、時間を消費し、時間を提供すること、これが労働となる」(49)。

「労働とは緩慢なる死のことである。・・・・・・労働は、延期された死であるから供犠の直接的死と対立する」(95)。「奴隷は殺害の担保から解放されるのだが、何のために解放されるのかといえば、まさに労働のためにである」(96)。

「システムが象徴的お返しを賃金によって買いもどすことで骨抜きにしてしまう」。「搾取される者が労働のなかで搾取者に自分の死を返そうとしても、搾取者は賃金によってこの返却を悪魔祓いしてしまう」(99)。

注の中で。「贈与は、交換=贈与の名の下に、原始「経済」の特徴とされてしまったが、それと同時に価値法則と経済学の法則はそれにとって替わる原理とされた。これほど悪いごまかしはない。贈与はわれわれの神話であり、われわれの唯物論的神話と相関する観念論的神話である」(115)。

神話、とくに起源と終末に関する神話の終焉。なお、この箇所ではないが、ボードリヤールは本書でも「世俗化」という表現を数回用いている。
「無限に複製されるという事実において、システムはその起源にかんする神話と、システムがその固有の過程にしたがって分泌してきたすべての準拠的価値に終止符を打つことになる。そして、こうした神話に終止符を打つことによって、システムは内的諸矛盾を棚上げにし(もはや現実も、現実と対決する準拠枠も存在しない)、その結果、システムの最期についての革命という神話さえも終焉させてしまう。・・・・・・資本が資本自身の神話、あるいはむしろ非決定論的で偶然に支配される機械、すなわち社会の遺伝情報コードのようなものになってしまうと、資本はもはや決定論の側には逆転の機会を二度と与えない。これこそは、資本の真の暴力である」(144)。

「選挙制度は、とにかく社会的交換がひとつの答えの獲得に矮小化されてしまう最初の巨大な制度である。この答えという信号の単純化のおかげで、選挙制度はまっ先に世界中に広がっていった制度だ。普通選挙は、最初に出現したマス・メディアである」(155)。そして、経済も政治もシミュラークルの領域へ。

現代の「消費の祭り」はポトラッチではない。機能的浪費は象徴的破壊ではない(229)。「〔モードが提供するところの〕モデルの存在するところにはどこでも、価値法則が押しつけられ、記号による抑圧と記号そのものの抑圧がおこなわれている。だからこそ、象徴的儀式とモードの記号との間には根源的な差異が存在するのである。・・・・・・未開社会では、記号は、裏の世界も、無意識ももたず(無意識とは、共示的意味作用や合理化の作用のうちで、最後に登場する、いちばん巧妙な作用なのだ)、幻覚、つまり現実のまぼろしを伴わずに、交換される。だから、未開社会の記号は、現代社会の記号とは、何の共通点ももたない」(230)。

「衣服と肉体の対立」(234)。「肉体の生産、死の生産、記号の生産、商品の生産――それらは同一のシステムの、さまざまな様態にすぎない。・・・・・・労働者が、搾取と現実原則に支配されて、自分自身から生きながら切り離されているとすれば、女性の方も、美と快感原則に支配されて、自分自身と自分の肉体から、生きながら切り離れているのだ!」(237)。

「われわれは、死を生物=人類学的法則の方へおし戻し、死に科学の特典を与え、死を個人的運命として自立化されることで、死を脱社会化してしまった。・・・・・・彼ら〔未開人〕は決して死を「自然化」しなかった。彼らは死が(肉体や自然的出来事と同じく)ひとつの社会関係であり、死の定義が社会的であることを知っている。その点で、彼らはわれわれよりもはるかに「唯物論者」である」(315-316)。

「近親相姦の禁止は生者たちの同盟の基礎になっている。加入儀礼は生者と死者との同盟の基礎になっている。このことがわれわれと未開人とを分かつ根本的事実である。交換は生命とともに終わりはしないからである。象徴交換は、生者と生者の間でも、死者にたいしても(石や獣にたいしても)停止することはない。それは絶対的な掟である。義務と相互性は侵すべからざるものである。何びとも、誰にたいしても、何についても、それを裏切ることはできない。さもなくば死刑だ。さらに死とは象徴交換の循環から除去されることにほかならない(マルセル・モース「集合体により示唆された死の観念の個人にたいする肉体的効果」)」(322)。

「〔現代人の〕ばかげた自由論だけが、われわれが象徴交換を免れていると主張することができる。負債は普遍的でとだえることはない。われわれは、獲得したこの「自由」とひきかえに何かで「返済」しつくすことは決してない」(322)。「〔フロイトが述べたところの〕無意識は、死が象徴過程(交換、儀礼)から経済過程(贖い、労働、負債、個人)へとさまざまなに歪められるなかで全面的に生ずる。そこから享受の面で途方もない相異が生まれる。われわれは、憂うつ症状の死者たちと取引する。未開人は、儀礼と祝祭のおかげで死者たちとともに生きる」(322-323)。

人食=カニバリズムの風習について。「食われる者はつねに価値のある者であって、誰でも食うわけではない。ひとを食うことは、つねに敬意の徴(しるし)であり、だからこそそのひとは聖なるものになる。われわれ〔「西欧人」〕は、自分が食うものを軽べつし、軽べつするものしか食うことができない。すなわち死んだものとか、動物であれ植物であれ生物学的同化に適した生命のないものだけを食う」(329)。
・・・・・・な、なるほどなあ。

「死の条件の普遍態としての死は、死者たちの社会的差別が生じて以降に初めて実在する。死の制度は、彼岸の生と不死の制度と同じく、司祭層と教会の政治的合理主義の遅ればせの勝利である。死の想像的領域を管理することに、司祭や教会の権力の基礎がある。宗教的彼岸の生の消滅はどうかといえば、それは、国家の政治的合理主義の――時代をずっと下った――成果である。彼岸の生が「唯物論的」理性の進歩の前に消え去るのは、ごく単純なことで、それが〔現実の〕生そのもののなかに移行したからだ。国家権力の基礎は、生を客観的な彼岸の生として管理することにある。この管理は協会よりもずっと強力なものだ。彼岸の想像界ではなくて、この生そのものの想像界の上でこそ、国家とその抽象的権力は強大になる。国家は、世俗化された死、社会的なものの超越に依拠し、国家の力は国家が体現する死の抽象から由来する。医学が屍体の管理であるのと同じく、国家も社会体の死せる身体の管理である」(342-343)。
 かなり凝縮された記述。マルクス左派的な思想を展開したもののようにもみえる。

「キリスト教的で封建的な伝統的共同体がブルジョワ的理性と生まれたばかりの政治経済体制によって解体されるにつれて、死はもはや人びとに共有されなくなる。・・・・・・これを境に、死の強迫観念と蓄積によって死をなくそうとする意志が経済学の合理性の基本的動力となる。それが価値の蓄積であり、とくに価値の線条的無限の終わりへと死を延期するといった幻覚にとらえわれて時間を価値として蓄積することである。人格の永遠性をもはや信じない人びとですら、複利的資本を信ずるように時間の無限を信ずる」(346)。

「社会的管理のもうひとつの形態は、この世での生とあの世での生、つまり安全保障をたてにとるゆすりの形をとる。それは今日はどこにでも見られるもので、「安全保障の力」は生命保険や社会保障から警察機動隊を経て自動車の安全ベルトにまでひろがっている」(412-413)。
「死は物質的生産のなかで決定的な形で世俗化されてしまった。そしてまさにそこでこそ死は資本と同様に拡大再生産されるのである。・・・・・・資本は、死の生産で生きながらえているので、安全保障を生産する機会に恵まれている。それは同じことなのだ。エコロジーが公害の産業的延長であるのとまったく同じように、安全保障は死の産業的延長である」(415)。
 なお、本書の別のところには、フーコーにも言及した箇所もある。

「未開人が死者を記号ぜめにするのは、死者をできるだけ早く死者の地位へと移すためである――崩れゆく肉体がちょうど証言しているような死者と生者との間のどっちつかずの状態をのりこえさせるためである。死者に生者のふりをさせることなど問題にならない。未開人は死者を死者らしくさせる。なぜならこのような代価を払ってこそ、死者たちは再びパートナーとなり、彼らの記号を交換することができるからである。〔現代西欧の〕葬儀場の筋立てはまったく逆である。死者に生きているふりをさせ、生命の自然らしさを保つことに腐心している。・・・・・・生の虚飾で偽造され理想化された死だ。生は自然的で死は反自然的であるというのが、そこに隠されている思想である。だから死を自然化し、死を剥製にして生の模造品にかえなくてはならないわけである」(421)。

「スイス人の女性ロス」すなわちキューブラー=ロスへの辛辣な言及も。彼女による瀕死の病人との対話の試みを評して、「これこそ人間科学や心理社会学の新交霊術である」と(425)。

先に述べたとおり、一読しただけで不明な箇所もたくさんあるのだが、一読したかぎりの印象による筋書きを。(これをまた本文に当たって検証する作業が必要): 現代(西洋)社会は、死者を「現実」から排除することで成立している政治経済体制を本質としている。もっとも、その「現実」は、まさに死者や死を排除することによって成立している種類の区分である。(本書にいう)未開社会では、そうした「現実」を生きているわけではなく、生者と死者とが別種の存在としてあり、交流(象徴交換)することができる。現代社会では、そのように死者の地位が確立していない、あるいは確立することを忌避しているため、かえって「無意識」が意識にまとわりつくように、死が生の領域に影としてつきまとっている。実際、フロイトの精神分析は、こうした現代の社会体制の記述以上のものではない。悪いことには、そうした影としての死が、社会を動かす上で不可欠の資本として動員されており、無限に回転すると想定されている資本に従属した労働や生産の形態、もはやそうした資本の一表現でしかない労働や生産の形態を支えているのだ。この意味で、労働や生産に資本よりも先だった実質的な価値を認めるマルクスの理論は、現代ではもはや有効ではない。いまあるのは、生産ではなく再生産である。

[J0663/260507]

上村正裕「私荷前と追善」

副題「平安貴族社会の「家」秩序寸描」、岩下哲典・東洋大学人間科学総合研究所編『研究論集 歴史のなかの「しにぎわ」と死後』、戎光祥出版、2025年、50~77頁。

「私荷前(わたくしののさき)」とは、毎年12月に陵墓に派遣され幣物を奉献する公的な荷前にたいして、貴族が私的に実施する追善の営みのこと。本論文は、この私荷前の記録から平安貴族社会の「家」秩序の様子をたどる。この論文が依拠している先行研究は、服早苗論文(『家成立史の研究』)で、著者自身は、摂関期における氏と家は併存する存在だと位置づけているという。

本論文では、藤原氏一族による木幡参詣や、浄妙寺への強訴の様子を史料からたどっている。

本書に言及されている論文のうち、気になるものをメモ。
林屋辰三郎「藤原道長の浄妙寺について」(『古代国家の解体』所収)
堅田修「藤原道長の浄妙寺」(『日本古代寺院史の研究』所収)
西山恵子「藤原氏と浄妙寺」(『京都市歴史資料館紀要』10)
黒羽亮太「円融寺と浄妙寺」(『日本史研究』633)
小林理恵「平安期の墓参に関する一考察」(『奈良女子大学大学院人間文化研究科年報』)
森浩一編『日本文化の探究 墓地』
山田邦和「平安時代前期の陵墓選地」(角田文衛監修・財団法人古代学協会編『仁明朝史の研究』)

[J0662/260507]