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新井政美『イスラムと近代化』

新井政美編著、副題「共和国トルコの苦闘」、講談社選書メチエ、2013年。

序章 オルハン・パムクと「東洋vs.西洋」
第一章 トルコ共和国成立前後における改革とイスラム
第二章 ポスト・アタテュルク時代のイスラム派知識人
第三章 一九五〇~七〇年代のイスラム──ヌルジュとトルコ‐イスラム総合論
第四章 第三共和政下のイスラム──ギュレン運動、公正発展党
終章 ふたたび「東洋vs.西洋」

[J0406/230926]

山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』

岩波現代文庫、2003年。1992年の『旧約新約聖書時代史』から、旧約聖書の部分を改訂・増補・省略したもので、年表や周辺情報などは底本の方が詳しいとのこと。

第1章 乳と蜜の流れる地
第2章 歴史と伝承
第3章 カナンの地におけるイスラエル民族の成立(前12世紀‐前11世紀前半)
第4章 王制の導入といわゆる統一王国の確立(前11世紀後半‐前10世紀)
第5章 王国分裂後のイスラエル王国とユダ王国(前9世紀‐前8世紀前半)
第6章 アッシリアの進出と南北両王国の運命(前8世紀後半‐前7世紀)
第7章 ユダ王国の滅亡とバビロン捕囚(前6世紀前半)
第8章 ペルシアの支配(前6世紀後半‐前4世紀中葉)
第9章 ヘレニズム時代
第10章 ハスモン王朝からヘロデ大王まで

まえがきから。「この意味で、旧約聖書においては、歴史的現実世界を離れた天国も地獄も存在しない。イスラエル・ユダヤ民族が体験する歴史的事態が、そのまま天国になりもすれば地獄にもなるのである。東アジアの宗教が一般的に、現実世界の変化を無意味な「諸行無常」と見なし、そこから「解脱」して「彼岸」に至る救済を希求する傾向が強いのに対し、旧約聖書は、歴史の中で生起する事柄をそのまま神の意志、神の行為の表現として、限りなく真剣に受け止めるように説くのである。この意味で旧約聖書の信仰は極めて「此岸的」、「この世的」(ツィンマリ)であるとも言えよう」(ix)。

第3章から。「「イスラエル」というこの部隊連合の名称は、それが当初よりヤハウェという神の崇拝を中心に形成されたものではなかったことを示唆している(創三三20参照)。…… イスラエルという名称におけるエルがいずれの意味であるにせよ、このことは、まずヤハウェ宗教が到来する以前に、すでにエルを中心として「イスラエル」という部隊連合の形成が始まっており、その後、より強力な神ヤハウェがもたらされ、このエルとの同一視によって「イスラエルの神」とされたことを推定させる」(62)。

第4章から。「ソロモンは、このようにして流入した富を利用して、首都エルサレムを中心に大規模な建築活動を行った。何よりもまず、彼はエルサレムの市街を大きく北側に拡張し、町の北東のシオンの丘にフェニキア人の建築家の手により(王上五17-20)壮麗なフェニキア・カナン風の神殿を建設し(王上六1-36)、その中に、かつてダビデがエルサレムに搬入した「契約の箱」を安置した。これにより、今日にまで至るエルサレムの「聖地」としての地位が確立された」(91)。

第7章から。「アッシリアによって滅ぼされた北王国と、新バビロニアによって滅ぼされた南王国とでは、征服者側の占領政策の微妙な違いが、民族のその後の運命に決定的な相違をもたらした。アッシリアもバビロニアも征服した民族に強制移住政策を行ったが、アッシリアが旧北王国の住民をアッシリア領土内各地に分散させ、また旧北王国領に他の地域の住民を移住させる双方向型移住政策をとり、結果的に被征服民を混合させてしまったのに対し、バビロニアは旧ユダ王国の住民を比較的まとまった形でバビロン近郊に住まわせ、しかも一方向型移住政策で満足して、旧ユダ王国領土を放置し、そこに異民族を植民させなかった。それゆえユダの人々は、バビロンにおいてもその民族的同一性をかろうじて維持することができ、しかもバビロン捕囚終了後には故郷で民族の再建を図ることができた」(172)。彼らがやがてユダヤ人と呼ばれるようになる。

「かつてヤハウェは、神の都エルサレムの不滅と(詩四六5-10、四八5-12等)ダビデ王朝の永遠の存続を約束した(サム下七12-16、詩八九20-38)。それにもかかわらず、エルサレムの神殿が灰塵に帰し、ダビデ王家最後の王がみじめな姿で捕囚に連れ去られたという厳然たる事実は、ヤハウェの約束と力とに対する深い疑念を呼び起こした(詩八九39-52参照)。それゆえ王家の滅亡と捕囚という事態は、深刻な信仰の危機をもたらしたのである(エレ四四16-19)」(174)。こうした事態から、歴史家たちが申命記史書と呼ばれるヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記の編集を行った。「すなわち彼らは、イスラエルの歴史を民の側の罪と契約違反の歴史と描き出すことにより、王国の滅亡と捕囚という破局が神からの正当な罰であり、その責めはもっぱら民の側にあることを示し、この事態が決してヤハウェの敗北や無力を表わすものではなく、むしろまさにヤハウェの義と歴史における力を示すものであることを論証したのである。他方で彼らは、登場人物たちの口や行動を借りて、罪の悔い改めとヤハウェへの立ち帰りを説き、民族復興の希望を与えようとした」(175)。

第8章。アッシリアやバビロニアの強権政策とまったく対照的に、寛容な被支配民政策をとったキュロスやペルシア。バビロン捕囚民も解放へ。「そしてこのような寛容政策が事実極めて効果的であったことは、少なくてもユダヤに関しては、その後の歴史によって実証される。ユダヤ人はその後ペルシアがアレクサンドロス大王によって滅ぼされるまで、反乱らしい反乱は起こさず、捕囚後のユダヤ人共同体復興の指導者であったゼルバベル、ネヘミヤ、エズラもペルシアの大王の忠実な臣下であった」(189-190)。

第9章。「前167年、アンティオコスは、ペルシアおよびヘレニズム諸国家の支配者たちがとってきたユダヤに対する宗教的寛容政策を棄て、ユダヤを徹底的にヘレニズム化することを決意した。…… これはイスラエル・ユダヤ民族がかつて体験したことのなかった規模の宗教的迫害であり(前9世紀のアハブ・イゼベル時代や前7世紀のマナセ時代でさえヤハウェ宗教を奉ずること自体は禁じられなかった)、ユダヤ人一人一人に信仰をとるか生命をとるかの決断を迫るまさに「信仰告白的状況」であった」(240)。ハシディーム(敬虔者)の殺害が起き、ここから、死者復活の信仰も生まれてくる。

第10章。前142-1、ユダ王国滅亡から450年ぶりに、シモンがユダヤ独立国家を復活させる。前30年のローマによる征服までの、「ハスモン王朝時代」。


[J0404/230925]

中村桂子『生命誌とは何か』

講談社学術文庫、2014年、原著2000年。

1 人間の中にあるヒト―生命誌の考え方
2 生命への関心の歴史―共通性と多様性
3 DNA(遺伝子)が中心に―共通性への強力な傾斜
4 ゲノムを単位とする―多様や個への展開
5 自己創出へ向かう歴史―真核細胞という都市
6 生・性・死
7 オサムシの来た道
8 ゲノムを読み解く―個体づくりに見る共通と多様
9 ヒトから人間へ―心を考える
10 生命誌を踏まえて未来を考える:クローンとゲノムを考える
11 生命誌を踏まえて未来を考える:ホルモンを考える
12 生命を基本とする社会

遺伝子ではなく、遺伝子のセット(システム)であるゲノムを単位としてみること。1980年代以降は、そのような研究動向となっている。ある種に共通の遺伝子を組み合わせながら、多様や個別を作り出すのがゲノムである。

生物の歴史にとって、15億年前に真核生物が現れたことは重要である。それも、一倍体細胞から、一つの細胞にゲノムを2セット有する、二倍体細胞になったこと。二倍体細胞は、ある回数増えると死ぬという特性を有する。「生あるところに必ず死があるという常識は、私たちが二倍体細胞からできた多細胞だからです。本来、生には死は伴っていなかった。性との組み合わせで登場したのが死なのです」(124)。

「一倍体細胞の段階では「個」の概念はもてません。その中でのゲノムのあり様、また細胞の存続のしかたは、DNAとして存続すればそれでよいという形になっています。しかし、有性生殖ででき上がった受精卵から誕生するのは、まさに個体であり、しかもそれは発生の過程まで含めるなら、他には類例のない、まさに唯一無二の存在となります。自己創出系という言葉にふさわしい存在です」(140)。

進化に関して、「生きものづくりは鋳掛け屋さんだとつくづく思います(もっともこの商売は若い人には通じなくなっているようで、しゃれていうならブリコラージュでしょうか)」(182)。

「最近はDNA、DNAといわれ、DNAさえ調べればなんでもわかるように思われがちですが、それは違います。ある遺伝子が、いつどこではたらいてどんな形をつくっていくのかを追わなければ、生きもののことはわかりません」(184)。

どこにでも転移してしまうがん細胞は、つねに内と外を主張している通常の生物や細胞とは異なり、「アイディティティを失っている」とも言いうる(199)。

「脳もそれ以外の身体もすべて含めた私という存在の機能が心なのではないか」(212)。

生物の共通パターン、1:積み上げ方式(鋳掛けや方式)、2:内側と外側、3:自己創出(最初は自己組織化)、4:複雑化・多様化、5:偶然が新しいものを、6:少数の主題で数々の変奏曲、7:代謝、8:循環、9:最大より最適、10:あり合わせ、11:協力的枠組みでの競争、12:ネットワーク。

生物の特徴、多様だが共通、共通だが多様/安定だが変化し、変化するが安定/巧妙、精密だが遊びがある/偶然が必然となり、必然のなかに偶然がある/合理的だがムダがある/精巧なプランが積み上げ方式でつくられる/正常と異常に明確な境はない。

循環系に基づく、ライフステージ型社会の構想。

――

生物やDNAの捉え方について、基本的には首肯できる。とくに、機械論的還元主義に抗して、関係性の中にある機能こそが重要であるという点。ちょっとあいまいで多義的だと思うのは、アイデンティティについての議論だが、一方でここがとても面白く重要なところでもある。生物の原理を、社会設計など他の事柄に応用する段階では、異論が多くあり得るだろう。生物一般の特性については非常によく要約してくれているが、人間の文化や文明の位置づけについては考慮されていない。それらは、生物進化の延長線上にあるのか、それともそれと対立さえしうるものなのか。人間の文化や文明はどこまで肯定されるべきものなのか。

なにもこの書を否定しているわけではない。当然これらの問いは、中村さんが提示しているような生命誌的考察の基盤の上に積み上げるかたちでなされねばならないし、そしてやはりまだまだこうした考察は欠けているからだ。

本ブログで取り上げた本のうち、近い問題を扱っている書として、小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』(講談社現代新書、2021年)

[J0403/230920]