Page 66 of 184

サルトル『存在と無』(2)第一部 無の問題

松浪信三郎訳、人文書院、1951年。

第一部 無の問題
 第一章 否定の起原
  Ⅰ 問いかけ
  Ⅱ 否定
  Ⅲ 無についての弁証法的な考えかた
  Ⅳ 無についての現象学的な考えかた
  Ⅴ 無の起原
 第二章 自己欺瞞
  Ⅰ 自己欺瞞と虚偽
  Ⅱ 自己欺瞞的な行為
  Ⅲ 自己欺瞞の〈信仰〉

緒論につづく第一部では、無の問題が扱われる。

例として「キャフェにおけるピエールの不在」を論じる筆致は、さすがのサルトル。「まさしくピエールはそこにいない。このことは、その店の一定の場所における彼の不在を私が発見する、という意味ではない。事実上、ピエールはそのキャフェ中のどこにもいないのである。彼の不在は、そのキャフェを消失状態に凝固させる。キャフェは背景としてとどまるにすぎない。・・・・・・」(I:77)、云々。

無の捉え方について、まずはヘーゲルのそれを取り上げて、批判する。サルトルの理解によれば、ヘーゲルの思想においては、存在は本質によって包まれており、この本質が存在の根拠であり根原であるとされている(84)。存在と無とは、相反する存在として、論理的な同時性のもとに考えられているが、サルトルは「存在は存在し、無は存在しない」として、これを否定する。

一方、無を、そこから存在が生じてくるひとつの根原的な深淵と捉える見方も、サルトルはこれを否定する。ハイデガーはヘーゲルより進んで、無を存在を全面的にとりかこみながら、それと同時に存在から追放されたものとして理解している。しかし、サルトルの見方では、存在は無に先行し、無を根拠づけている。「無が存在につきまとう」のであり、「非存在は存在の表面にしか存在しない」のである(90)。あるいは「無が与えられうるのは、まさに存在のふところにおいてであり、存在の核心においてであり、一ぴきの虫としてである」と表現されている(101)。

サルトルは、さらに無の説明を続ける。「「無」は存在するのではない。「無」は〈存在される〉のである」(104)。無が〈存在される〉のは、存在によってである。ここで、自由ということが主題に上ってくる。自由こそが、無のあらわれを条件づけている。「われわれが自由と呼ぶところのものは、〈人間存在〉の存在と区別することができない。人間はまず存在し、しかるのちに自由であるのではない。人間の存在と、人間が〈自由である〉ことのあいだには、差異がない」(110)と、この第一部ではやや予告的に述べられる。

重要なことは、人間存在が世界から自己を引き離すことができることである。たとえば心像(image)である。「心像が心像として成立するのは、その対象をどこか他のところに存在するものとして、あるいはそもそも存在しないものとして措定することによってである」(112)。ここには、世界の無化(心像の対象があるべき世界はここではない)、心像の対象の無化(心像は眼前には現れていない)、心像それ自身の無化(その対象はここにはない)が含まれている。したがって、サルトルにいう無化とは、哲学的人間学でいうところの、脱中心化の概念に近い。

そしてまたサルトルも、人間的自由にかかわる事柄として、恐怖に対する不安という話題を取りあげる。「不安は、自由そのものによる自由の反省的把握である」(138)。ここから逆に、こんな言い方もしている。「不安は、諸価値を世界から出発してとらえ、諸価値の擬物的固定的な実体化のうちに安住している「くそまじめな精神」とは正反対のものである」(138)。

第二章の冒頭では、ここまでの議論を総括するかたちで、「意識とは、それにとってはその存在のうちにその存在の無の意識があるような一つの存在である」と言われる(151)。人間は、不断の否定として自己を構成し、それによって「否」を自己の主観性そのもののうちに持しているとされる。こうして、人間が自己に対してこうした否定を差しむける態度のひとつとして、自己欺瞞が取り上げられる。無に関わる作用をたどるなかで、最終的には、「誠実の目的と自己欺瞞の目的とが、さして異なるものではない」(191)とさえ言われる。誠実も自己欺瞞も、自己や世界をひとつのかたちに固定的に対象化するところで、必然的に無をはらむ存在の根本的あり方(サルトルは反射という言葉でも表現している)からずれを生じるのである。自己欺瞞とは人間にとって不断の脅威とされているが、これを言い表す「われわれは、眠りにおちいるようなぐあいに自己欺瞞におちいるのであり、夢みるようなぐあいに自己欺瞞的であるのである」(197)というサルトルの表現は、なんと魅力的なことか。

自己欺瞞の議論は主に自己が相手の事柄であるが、途中、重要な他者論も登場している。サルトルはこの洞察をフッサールに帰しているが、「私の意識は根元的に他者にとってはひとつの不在としてあらわれる」(183)。私の態度や行為の意味はつねに現前するが、私の意識は他者にとって不在的な対象である。こうして、「他者の意識は、それがあらぬところのものである」と言われる(184)。

サルトルの言う存在とはもっぱら人間存在を指しており、しかもその存在は意識の存在であり、意識の作用であると言えそうである(対自としての存在)。こうしてサルトルにおける存在とは、人間存在とそれ以外の存在に加えて、自己の存在=意識と、他者の存在=意識とでは、その存在を論じるのに別のしかたが求められるのだろう。

サルトルの無論の特徴。サルトルにおいて無とは、否定と重ねあわせられているように思われる。しかし、はたして無と否定は同じものと言えるだろうか、とも問うことができよう。サルトルが無と否定を重ねあわせているのは、彼にとって無とは、それに論理的に先行するものが存在であり、肯定としての存在における否定的契機として無が理解されているからだろう。

[J0333/230205]

サルトル『存在と無』(1)緒論

松浪信三郎訳、人文書院、1951年。原著は1943年。長らくこの版がスタンダードだったけど、2007年にちくま文庫版が出ていたね、そういえば。3巻通読するのにいつまでかかるか分からないが、とりあえず緒論でノートを。

緒論 存在の探究
I 現象という観念
II 存在現象と現象の存在
III 反省以前的なコギトと知覚の存在
IV 知覚されることの存在
V 存在論的証明
VI 即自存在

なるほど、一世を風靡した理由も分かるような気がする。一般論として言えばそりゃ難解ということになるのだろうが、フッサールやハイデッガーとはちがったポップさがある。レイモン・アロンが「現象学者だったら、このカクテルについて語れるんだよ」と述べてサルトルを感動させたというエピソードを思い出したが、この言葉は、現象学一般にというより、ほかならぬサルトルの哲学にこそふさわしい、なんていう第一印象。

サルトルはまず、カント流の、現象と真なる存在(正確にはたんに存在)との二元論を否定し、あらゆる「背後世界」の想定を斥ける。ただし、存在は本質でもない。本質は対象が有する諸々の性質のひとつであり、対象の「意味」であるが、存在はそうしたものではない。本質は現象の一部だが、存在は現象ではない、と言ってもいいだろう(ただし、厳密さを求めるなら、サルトルにおける現象という用語の意味についてはさらに要精査)。

ハイデガー流のしかたと同様に(おそらくはそれに倣って)、サルトルの理解にあっても、人間意識こそが存在の成立に重要な役割を果たしている。それはある種の循環的構造をもっていて、「意識しているあらゆる存在は、存在することの意識として存在する」と言われる(I: 29)。しかし、ハイデガーと袂を分かつのは、無と人間意識との関係に関する理解についてである。「意識は無に先だつものであり、存在から〈自己をひきだす〉」(34)。

存在が、人間意識との関係のうちに成立基盤を有している(すくなくとも緒論までの行論において)として、現象の存在は「知覚されること」のうちに「宿る」のであり、したがって存在とは相対性と受動性という特徴を有している。受動性については説明不要だとして、相対性とは「知覚する者の存在と相対的」ということであり、このことには、対象となっている存在が、知覚する者の存在に還元されないということも含意されている。すなわち、存在は人間意識と「相対的」ではあるが、人間意識に還元されるものではなく、この意味にかぎっていえば、自体的に――「即自的に」――存在してもいるのである。だから、現象の存在は、単純に「知覚されること」と同一なのではない。ここでサルトルは、意識/現象の継起のなかに存在を還元できたと認める種類の現象学を批判する。現象学的還元によって説明できるものは、存在のしかたであって、存在ではない。逆に、人間意識の側についても、それはつねに何ものかについての意識であると言われる。つまり、意識はつねに、それとは別の存在を「巻き添えにする」。

ここまでくれば、次の定式の意味もだいたい理解できるだろう。「意識とは、それの存在が本質を立てるような一つの存在であり、また逆に、意識は本質が存在を含むような一つの存在についての、すなわちその現れが存在を要求するような一つの存在について、意識である」(47)。

このようなサルトルの存在理解は、意識の存在と現象の存在というふたつの問題圏をもたらすことになる。

以上、緒論のメモだが、すでに、サルトル哲学の基本的洞察はこのなかに提示されているように思われる。まだ残り、読んではないけど・・・・・・。

[J0332/230131]

加藤尚武『死を迎える心構え』

PHP研究所、2016年。

[内容]
死なない生物と死ぬ生物
ほんとうに私は一人しかいないか
現代哲学としての仏教―どうしたら本当に死ねるか
鬼神論と現代
霊魂の離在、アリストテレスからベルクソンまで
私をだましてください
他人の死と自分の死
人生は長すぎるか、短すぎるか
世俗的来世の展望
どこから死が始まるか
人生の終わりの日々
胃瘻についての決断
往生伝と妙好人伝
宗教と芸術
人生の意味のまとめ

日本を代表するヘーゲル研究者であり、精彩に富んだ文章でヘーゲル哲学を表現してきた著者。しかし、その著者をもってしても、死という主題を前にはこんな感じの、厳しく言えば、よくある感じの本になってしまうのね。死にまつわる古今東西の本を渉猟していくというスタイルだが、加藤さんには加藤さんご自身の、死の思想をもっと綿密に示してほしかった。本書の結論部分は「「どうして死ぬのですか。」「それが自然だから。」――それ以上の答えはない」(236)という具合で、これではちょっと。以下、部分的に気になった箇所について。

「死が美となるという思想は、中国にもインドにもないように思われる。「美しい死」という思想は日本的である」(90)。そういえば、こういう言い方も成り立つだろうか? もし成り立つとすれば、かなり重要。

「父母の思い出は子どもにとっては一生涯つづく「お守り」のようなものである」(102)。うまいこと言う、という言い回しとして。

「お金について選択の自由が成り立つのは、お金の有無で私の状態が変わらない、同じ私であり続けることができるからである。・・・・・・しかし、命や手足や目やこころの場合、それを持つときと失った後とで、同じ人格が存在し続けるとは言えない」(168)。ふむ。

「詩とは、瞬間を永遠とする魔術である。詩があれば、永遠を宗教から借りてくる必要がなくなる」(223)。ふむふむ。

「若い時に甲子園の野球に出場して負けたという人に、「負けたんだから、出場しない方が良かったですね」と言ったら、「負けたけれど出場して良かった」と答えるだろう」(226)。なるほど、この言い回しは今後、使わせてもらいたい。

[J0331/230130]