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角茂樹『ウクライナ侵攻とロシア正教会』

副題「この攻防は宗教対立でもある」、KAWADE夢新書、2022年。

序章 ロシアとウクライナの歴史に深く関わる正教会
1章 キリスト教三大教派の一つ「正教会」とは何か
2章 キーウ・ルーシ公国と正教会の長い歴史
3章 正教会、共産党政権下で弾圧される
4章 ソ連崩壊とウクライナ正教会の独立問題
5章 ロシアによるクリミア併合とプーチンの失敗
6章 2022年のウクライナ侵攻の真実
終章 モスクワを正教会の中心地にしたいなら

記載されている情報の正確さを判断できる能力がないのだが、きっと正確だろうと考えて。角氏は駐ウクライナ大使を務めた人物だというが、それにしてもロシアやウクライナの宗教史への造詣が深くて驚き。これがたとえば経済中心の記述なら驚かないが、東方正教会の成り立ちから書き起こして、1000年以上にわたる彼の地のキリスト教史を辿り、本当に現在における宗教的な勢力図を描いて、今回のウクライナ侵攻に働いている動きの理解を何段階も深めてくれる。前半部を中心に、ロシア正教会を中心とした東方正教会入門としても読むことが可能。ウクライナ人でもこうは書けないのでは。

再読・再再読の価値がある本でメモはしきれないが、歴史に弱い人間としてノートを少し。

キーウ(キエフ)がいかに重要な都市であるか。9世紀頃出現したキーウ・ルーシ公国(キエフ大公国)の首都として、モスクワなどとは比較にならない、東欧最古の都市。キーウ・ルーシの「ルーシ」は、ロシア(ルーシのラテン読み)やベラルーシという国名の由来でもある。ロシア正教が「純粋培養」の小宇宙を形成してきたのに対して、ウクライナはヨーロッパとスラブの文化がせめぎ合う場所であった。そうした歴史も反映して、現在のウクライナには、2つの正教会を含む 3つの教会が並びたつ。すなわち、モスクワ総主教庁正教会、キーウ首座府主教庁正教会、ギリシャ・カトリック教会である。キーウ首座府主教庁正教会は、ロシアからの独立分離を志向している。【注:小泉悠のコラム本『ロシア点描』によれば、2014年以前は、モスクワ総主教庁正教会、キーウ首座府主教庁正教会にくわえて、ウクライナ独立正教会があって、3つの正教会が並びたっていたという。】

ロシア正教の側からみても、ウクライナは重要な場所である。ロシアとウクライナには「ラーブラ」と呼ばれる大修道院が5つあるが、そのうち3つはウクライナに存在する。ペチュルスカ大修道院、ポチャイフ大修道院、スビャルトヒルスク大修道院である。今回の侵攻では、修道院に対し何度もミサイル攻撃が行われている。

また、ウクライナのモスクワ総主教庁正教会は、ロシア正教の勢力全体のなかでも重要な位置を占めている。思想的にも、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、モルドバを文化的に一体のものとみる「ルースキーミール」を支える存在である。もちろん、この「ルースキーミール」は、ロシアの覇権主義に有利な思想である。また、東方正教会内で、伝統的位階では上位にあるコンスタンティノープル総主教に対して、ロシア総主教庁が第一勢力であることを認めさせつつ、バチカンに対抗する上でも、ウクライナを宗教上ロシアの支配に置くモスクワ総主教庁正教会の存在は重要である。なお、モスクワをコンスタンティノープルに代わる正教会の盟主の地位に引き上げてバチカンと対抗させる計画については、スターリンがこれを一度試みたことがある(112)。

もともと、ウクライナは東部を中心に、親ロシア勢力も強く、それがモスクワ総主教庁正教会の存在にも結びついてきた。しかし、2014年のロシアによるドンバス侵攻は、東部住民に「ロシアに裏切られた」という感情を生むことになった(162)。これは明らかに、今回のロシア軍の「苦戦」の遠因のひとつになっている。

2014年のクリミア併合やウクライナ東部への軍事介入は、モスクワ正教会を母教会とすることへの疑問や反発を生んで、当時のポロシェンコ大統領はコンスタンティノープルとの交渉を重ね、2019年にはウクライナに教会法上合法な独立教会「ウクライナ正教会」が誕生することになった。大統領が動いた背景には、モスクワ総主教庁はロシアのスパイの巣窟になっているという事情もあった(177)。しかしその後も、親ロシア・親プーチンのキリル総主教を中心に、モスクワ総主教庁側も反論や反撃を続けており、現在にいたっている。

歴史の話。1941年、ナチスは突然、ドイツ領ポーランドからロシア領ポーランドへの侵攻を始め、ロシア軍は一挙に追い詰められる。その際、ウクライナではスターリン統治に反感を持っていた人たちが多く、ウクライナ独立運動を率いたステパーン・バンデーラを解放したこともあって、ナチスドイツは解放軍のように受けとめられた。しかし、ナチスはバンデーラを再度捕らえるとともに、ウクライナ領内のユダヤ人の大虐殺を開始したのであった。これが、ロシア側からはウクライナ愛国主義とナチズムがともに「反ロシア」として重ねあわせて理解される歴史的背景となっており、プーチンがゼレンスキーを「ネオナチ・バンデーラ」と呼ぶ理由となっている。

[J0289/220830]

デイヴィッド・ライアン『パンデミック監視社会』

松本剛史訳、ちくま新書、2022年.

第1章 決定的瞬間
第2章 感染症が監視を駆動する
第3章 ターゲットは家庭
第4章 データはすべてを見るのか?
第5章 不利益とトリアージ
第6章 民主主義と権力
第7章 希望への扉

監視社会論で名を知られているライアンの、コロナ社会論。すごく新しい見解があるとまではいえないが、監視社会の観点からコロナ・パンデミックを捉えると、これだけ論点があるよという総覧としては役に立つ。

ひとつ、とくに重要な観点とおもうのは、それぞれの国家の統治体制との影響関係で、本書ではとくに中国の動向に留意されている。

[J0288/220820]

立花隆『サピエンスの未来』

講談社現代新書、2021年。

目次
すべてを進化の相の下に見る
進化の複数のメカニズム
全体の眺望を得る
人間の位置をつかむ
人類進化の歴史
複雑化の果てに意識は生まれる
人類の共同思考の始まり
進化論とキリスト教の「調和」
「超人間」とは誰か
「ホモ・プログレッシヴス」が未来を拓く
終末の切迫と人類の大分岐
全人類の共同事業

1996年の東京大学での講義をもとにした本という。8割がた、テイヤール・ド・シャルダンの紹介のような内容で、立花隆がこんなにシャルダンに入れ込んでいたとは知らなかった。そういえば、30年前に読んだ『宇宙からの帰還』にも精神圏の話なんかがあったような気もする。

シャルダンはいわゆる科学の枠組みに収まらないところがあり、昔ブームだった人と思われているかもしれないけど、最近よく読まれているあれこれの人類史よりはずっと興味深いと思う。

[J0287/220815]