Author: Ryosuke

渡辺慧『認識とパタン』

岩波新書、1978年。アマゾンと日本の古本屋をみるかぎりでは稀覯本ぽくなっているらしく、図書館から借りだして読む。情報科学の哲学的・認知科学的基礎と言えばいいだろうか。数式が出てくる箇所があったりして斜め読みだが、なるほど、今でも、なんなら「コンピューター時代」の今こそ、読む価値のある本だ。

1 パタンとパタン認識
2 データをどう取るか
3 類は実在するか
4 コンピューターによるパタン認識
5 パタン認識と人工知能

著者の主張は、パタン認識や分類というものは、どこまでいっても一義的なものではありえず、価値評価から切り離せないということ。

第三章では、「醜い家鴨の仔の定理」を説明。「二つの物件の区別がつくような、しかし有限個の述語が与えられたとき、その二つの物件の共有する述語の数は、その二つの物件の選び方によらず一定である」(101)。すなわち、もし論理的に考えるならば、すべての二つの物件は同じ度合いの類似性を持っているのであり、ふたつの白鳥の類似性の度合と、ひとつの白鳥とひとつの家鴨の類似性の度合は同じだということになる。したがって、ものごとの類似性は論理的には与えられないし、私たちが類似性の度合を語るのは、ある述語はある述語より重要であるという判断をしているからであり、その判断は脱経験的・脱論理的な種類のものなのである。

最終章ではコンピューターと頭脳の関係性を論じている。コンピューターにできることは次の4つであるという(187-)。(1)ソーティング、情報の選び出し。(2)記憶。(3)論理的演繹。(4)算術。

そして(3)の論理的演繹について、「普通、演繹的な仕事だと考えられる定理の証明というものは、実はコンピューター自身ではできないで、人間の作った(または人間が作り方を教えた)ヒューリスティック(発明法)を必要とします。ヒューリスティックとは論理的なものではなく、従って必ず成功するとは限らない、錯誤試行法のやり方の指針のようなものです。これは普通、人間が直感とか帰納的思考を使って作るものです」(188)。

そして、以上の四つに含まれていない理知的活動の重要なものとして、帰納、パタン認識、言語活動があるとする。これらをコンピューターが実行しているように見えるときも、それは人間の直感と価値評価を教えているからであるという。「言葉には認識言語と情動言語があり、後者はもちろんコンピューターには操作できません。しかも重要なことは、この二つの言葉は実はいつも完全に分離できないのです」(189)。

[J0205/211004]

デイヴィッド・チデスター『サベッジ・システム』

沈善瑛・西村明訳、青木書店、2010年、原著1996年。

第1章 比較のフロンティア
第2章 宗教を発明する
第3章 不信仰者たちの宗教
第4章 知られざる神
第5章 聖なる動物
第6章 フロンティアを越えて

なるほどなるほど、これはいい仕事だ。フーコーやサイードの影響を受けて、従来の宗教研究の植民地主義をえぐった名著、みたいな触れ込みを聞いていて、ああ、そういう「批判」系かとおもって敬遠していたが、それはまちがっていたね。

正確に言えば、その触れ込み自体はまちがってはないんだけど、たんに批判や脱構築をするのではなくて、いわゆる正統な宗教研究史の外側に、植民地と直に接触した宣教師や行政官寄りの人たちもまた、ある種の「比較宗教」の実践を行ってきたことを示して、新たな「異文化理解史」の掘り起こしをしている労作だということを、読んでみて悟った次第。なんなら、ヨーロッパの「支配者」側だけでなく、植民地の原住民側も同じようにキリスト教の吟味をして「比較宗教」実践を行っていたことを記している。チデスターさんは、これを「下からの比較宗教」と表現している(261)。この辺、歴史学に対する保苅実さんの見方とも通じるところがあるかもしれない(『ラディカル・オーラル・ヒストリー』2004年)。

植民地の宗教を理解する際、最初に、またその後も頻繁に用いられた説明は、「奴らは無宗教だ」「奴らは宗教を持たない」という言い方だったという。これに対して、たとえば南アフリカのコサに対して、ジョセフ・ワーナーという駐在員が1858年に「秩序正しい迷信の体系」を認めるにいたったと。チデスターさんを信じれば、こんな言い方が出てきたのが、19世紀も後半にさしかかろうかという時期というのもなかなか衝撃的だが。

「民族誌的現在」に関して。やはり南部アフリカを例に。「20世紀の閉じられたフロンティアにおいて、ヨーロッパ人比較論者たちは、アフリカ人の伝統的な宗教生活の輪郭を再構築することで、彼らを特定の場所に固定し、特定の時間のなかに凍結することができた」(291)。

こういった話については日本は無関係ではまったくなくて、支配者側の立場の話もあるだろうし、逆に見られる側、品定めされる側の話としては、ロジェ=ポル・ドロワ『虚無の信仰』あたりが関連が深い。

チデスターさんは、宗教というカテゴリーが政治的・植民地主義的な動機のもとに用いられてきたことを誰よりも詳しく明らかにしたあと、それでも比較宗教という営みにポジティブな可能性を認めている。このへんがまた、脱構築に甘んじる立場(あるいは脱構築を徹底する立場、だろうか?)とは異なるところだ。

[J0204/210925]

村上靖彦『ケアと何か』

中公新書、2021年。

第1章 コミュニケーションを取る―「困難な意思疎通」とケア
第2章 “小さな願い”と落ち着ける場所―「その人らしさ」をつくるケア
第3章 存在を肯定する―「居る」を支えるケア
第4章 死や逆境に向き合う―「言葉にならないこと」を言葉にする
第5章 ケアのゆくえ―当事者とケアラーのあいだで

なるほどなるほど、良い本ですね。まあ、ほかにいっぱい人がほめるだろうから、僕はいいでしょう。たとえば、この本で引用されている文献の過半数はもうすでに読んだことがあったりするので、僕自身についてはあまり新鮮さはない。スレてしまってるね。部分的には、似たようなこと書いたりしたこともあるし・・・・・・。

医療や福祉という場所には強い職業的・業界的な規範が働いているだけに、このように現場の感覚をなぞって言語化することも大事な仕事なのはたしか。個人的な欲を言えば、たしかに経験談はちょこちょこ挟まれているけど、村上さん自身がどこに切実さを感じているのかが、もうすこし感じられるとよかった。そもそも、切実さみたいなものはないのか。ま、この本は新書だし、ほかの本を読めばいいのかな。『摘便とお花見』は読んだな、たしか。

[J0203/210922]