Author: Ryosuke

小泉八雲『日本』

平井呈一訳、1976年、原著1904年。原著の表紙には「神国日本」と漢字で大書してある。

わかりにくさ/珍しさと魅力/上代の祭/家庭の宗教/日本の家族/地域社会の祭/神道の発達/礼拝と清め/死者の支配/仏教の渡来/大乗仏教/武力の興隆/忠義の宗教/キリシタン渦/封建制の完成/神道の復活/前代の遺物/現代の抑圧/官制教育/産業の危機/反省

やはり読むなら、日本の歴史解釈としてではなく、八雲の思想として。終盤の方、当時の日本社会の描写はおもしろい箇所もある。

八雲は心血を注いでこの本を書き上げてすぐ、亡くなった。なぜ彼は、自らエッセイストに徹するのではなく、日本語も読めず不得手である学問に足を突っ込んでこういう書を書こうと思ったのだろうか。チェンバレンらとの対抗意識なのか、日本史へのスペンサー哲学の応用・発展が念願だったのか。独自の審美眼のもとに仕事をして、でも審美だけに甘んじようともしなかった、八雲という人の複雑さがありそうだ。

進化論との関係で言うと、一神教を多神教の上に置く見方を批判して、「どんな社会にしろ、その社会に対する宗教の価値というものは、その社会の道徳経験にその宗教がおのずから適応する力、それによって左右されるものであるはずだ」と、文化相対主義的な見方を示して、日本の多神教を擁護しているところなど、おもしろい(「キリシタン禍」)。

「じっさい、日本の国は妖怪の国だった。――不思議で、美しくて、怪奇で、しかも非常に神秘的で――どこの国にも見られない、まったく似てもつかない、珍奇な、魅力的な妖怪の国だった」(「前代の遺物」)。原文では “Here indeed was Elf-land”とある。

[J0148/210421]

松本博文『ルポ電王戦』

NHK出版新書、2014年。

第1章 開発者たちの描いた夢
第2章 プロ棋士挑戦への道―電王戦前夜
第3章 老棋士の奇策―第一回電王戦
第4章 プロ棋士が敗れた日―第二回電王戦
第5章 リターンマッチ―第三回電王戦(1)
第6章 決着―第三回電王戦(2)

こちらは藤井聡太現2冠の活躍でまた将棋を観るようになったクチだが、将棋におけるAIと人間との関係はおもしろい。このルポは、人間には敵わなかったところから、いよいよトップ棋士をも凌駕する2014年の第三回電脳戦までの状況を描く。棋士たちの才能や個性はそれなりに広く知られているところだが、将棋ソフトの開発に心血を注いできた天才たち、山本一成や保木邦仁らの情熱も魅力的。なるほど、保木がBonanzaを開発して、そのソースコードの公開に踏み切ったことが重要だったのか。全体の発展のために隠しだてしない感じは、羽生さんと一緒かもしれない。この本の記述は、たんにAI側だったり棋士側だったりにだけ肩入れしていないところもいい感じ。

棋士とAIとの関係では、糸谷哲郎現八段のインタビュー記事がおもしろくて、今は「努力型のほうがソフトを使った勉強に適正がある」とのことで、ひらめき型は受難だと。つまり、努力部分はコンピューターに委ねて、省力化をはかれるようになる、というようなイメージとも違うという。AIの発展が進むと、さらに状況が変わることもあるんだろうか。競争原理が働く以上、やっぱり努力の部分は省けないのだろうか。おもしろいな。

ライブドアニュース/王将リーグ『才能と努力』糸谷哲郎八段インタビュー(2019年9月)https://news.livedoor.com/article/detail/17107444/

[J0147/210416]

北村曉夫『ナポリのマラドーナ』

山川出版社、2005年。

1.イタリア対アルゼンチン
2.言説としての南イタリア
3.イタリアの北と南
4.アルゼンチンのイタリア移民
5.再び、イタリア対アルゼンチン

おもしろい。1990年イタリアで開催されたサッカーW杯のイタリア対アルゼンチンの対決、つまりシチリア出身のスキラッチと、セリエAナポリに所属していたマラドーナの激突でもあった試合を話の端緒にして、イタリア史における南北問題――アルゼンチンへの移民史も含めて――を辿る。

イタリアの「南部問題」は、国家としての統一のあり方がほかの国とは異なるイタリア特殊の事情であるとともに、歴史上よくある地域への「レッテル貼り」の一事例でもある。しかしここでも怪物チェーザレ・ロンブローゾが何度も出てきて、アルゼンチンのイタリア移民差別にまで影響を与えていることを知る。もちろん彼自身、イタリアの人だったわけだが。ユダヤ系だったのだろうか?ちょっと分からないが。

つい最近、亡くなってしまったマラドーナ。「いささか知的能力を欠いた人物というイメージが広まっているかもしれない。しかし、彼の言説を彼がそのときどきにおかれた状況に照らして再読するならば、それがきわめて論理的であり、核心をついたものであることに驚かされるであろう」(180頁)。「マラドーナはきわめて理知的であり、自分の周囲の状況がよく見えている」(181頁)。かつ、彼はトリックスター的な役回りを引き受けていたという。「彼がプレーをするだけで、彼の意志とはまったく別に、社会の矛盾や問題点があらわになってしまうのである」(181頁)。その謎ときは、本書本文で。

[J0146/210412]