Author: Ryosuke

高野信治『神になった武士』

副題「平将門から西郷隆盛まで」、吉川弘文館、歴史文化ライブラリー、2022年。

「今以て生きてござる」―プロローグ
神になる武士
神格化という記憶のスタイル―記憶としての祭祀
アイデンティティの支え
武士を神に祀る民
武士身分の消滅と近代化のなかで―開放と収斂
生き続けてきた武士の記憶と祭祀―エピローグ

神格化された武士という切り口でもって、日本宗教史を横断するといった趣の書。『武士神格化の研究』という大著をもとにする。著者の関心がもともと、江戸時代の武士と民の関係にあり、佐賀藩神代鍋島領の研究を進めてきた方と「あとがき」に記してあってちょっと納得、そこから武士神格化一般に手を広げることで視点が拡散してしまっている印象もあるが、話題は豊富。

祭神として祀られている数の筆頭が623件の徳川家康であるのはいかにもであるが、2位は153件の加藤清正だそうで、清正はハンセン病の治癒と土木工事をめぐる信仰から祀られているらしい(42)。3位の平景清は128件、芝居や謡曲でよく知られ、眼病治癒の信仰対象となったとか(43)。また、1789年の松井寿鶴斎撰『東国旅行談』の記載が紹介されていて、義経が関所を通ることに成功した弁慶が安産祈願の対象になっていたという話など、はじめて聞いたな(77)。

武士による先祖の神格化は室町期にもあったそうで、大内正弘が、白川家や吉田家の力を借りながら、父教弘を神格化を図ったとの話(113-115)。ここから連想すること、明治期の招魂社成立に大きく与したのは津和野藩や長州藩だが、中世の武士神格化のはしりが周防大内家からというのも、山口近隣地域になにかそういう土壌があるのかなと思ってしまう。

自分が勉強不足だからなのだが、北海道の義経信仰が、オキクルミやサマユンクルに対する土着の信仰を、和人が都合よく読みかえた結果だという話、僕はこの書ではじめて知った(124-)。なるほど、前から謎だった義経信仰の存在だが、そういう事情ならよく分かる。よく分かるし、アイヌの英雄をかってに置き換えて、例のよくある酷い話だ。

まとめとして、神になる武士の傾向が5点、掲げられている(235)。(1)家康について、「それは国家神として勧請が強制されたからではなかった。先祖として、また地域や家に利益をもたらす神として、積極的に受容されたといえる」(235)。うーん。いまいち納得できないな。文献資料の記述をそのまま受け取ればそうなるのかもしれないけれども。次。(2)「祭神数の多い武士には、古代・中世期の武士が多く含まれることである」(236)。近世の武士も少なくないので、これもよく分からない。(3)「武士祭祀はローカルな性格を持つことである」(236)。まあ、そうかもしれないが。冒頭に触れたとおり、著者の念頭にあるのは、もう少し近世に特徴的な社会構造との関連なのではないか。たんにローカルという言い方でまとめてしまっては、その味が出ないのでは。(4)「武士祭祀はプライベートな性格を併有する」(237)。むむむ。最後、(5)近代になり「武士が歴史上いなくなるなか、祭祀の機会はむしろ増えていく」(237)。

[J0263/220422]

増子博子・長恒さくら『ツキノワ木彫り熊ノート』

発行・木彫熊通信の同人誌、2022年。汽水空港で購入。

木彫り熊写真
ツキノワ木彫り熊ノートについて
第一章 月の輪を持つ木彫り熊(増子)
第二章 上高山兼太郎の木彫り熊を探して(増子)
第三章 上高山作木彫り熊の行方(増子)
第四章 葛巻生まれの木彫り熊の行き先を尋ねて(是恒)
第五章 北岩手の木彫り熊たち(増子)
第六章 木彫り熊に触れて(是恒・増子)

北海道ではなく、岩手県葛巻で、山仕事のかたわらで木彫り熊を彫った上高山兼太郎(1926~1988)の人と作品を探る。「東北に棲むのはツキノワグマだから、俺はそれを彫るのだ」と、ヒグマではなくツキノワグマをモチーフにしたという。たしかに独特の風貌が印象に残る木彫で、かつて彼の作品を買った人のことば、「売るために作られたような木彫りは嫌いだけど、上高山さんの木彫り熊はそうじゃないように見えた」という言い方がしっくりくる。

それにしても、マッチ箱に刷られた木彫りの熊をみてから、生涯木彫りの熊作りを続けることになった上高山さんの熱意も凄いが、かその作品をここまで探しまわり調べまわる著者おふたりの熱意もふしぎなほどだ。おふたりとも、自ら制作活動をしている人の模様。文章はわりと淡々としている、そのギャップもおもしろい。46年前の古いローカル番組のビデオまでみつかるとか、なかなか奇跡的と思うが。ニッチな話だが、イタコの話題のところでは、石津照爾の「東北の巫俗採訪」が参考文献に挙げられている。葛巻では、異常にかわいい「くまどうさま」はじめ、たくさんの神社や祠に木彫りの神さまが祀られているそうで、上高山さんの仕事にはそういう土壌もあったのかもしれない。

>木彫熊通信 Twitter

[J0262/220417]

てぱとら委員会『私たちの中学お受験フェミニズム』

同人誌、2021年、全80ページ。

はじめに
アンケート結果
第一章 近畿圏中学受験の制度に内在するジェンダー平等
 誰が中学受験をするのか
 近畿圏女子の狭き門
 対談1
第二章 女子中学受験生に対する教育期待の曖昧さ・歪さ
 母親たちの人生 娘たちの人生
 近畿圏中学受験家庭の母親像
 対談2
第三章 中学受験を終えて、その後の歩みとジェンダー不平等への直面
 対談3

関西の中学受験を、女性の当事者目線を基本線にして論じる。世代は、2000年代後半に中学受験をした方々とのこと。対談から少し抜粋。

「「こいつ関西捨てよった!」みたいな感情存在するよな。」「女の子やから東京の大学なんか行かんといてほしいって言われることは今でもまだまだある。私がそうやった。」(32)

実感としては分からないのだけど「〈エリートとして育てるべき〉圧がかかる中学受験でも、母親とスピリチュアルの親和性が高くなるのかもしれないな」(57)なんて発言も。

「ところで親について東京で同じように教育熱心な家庭で育った人と話していると、我々の親ってあまりにジェンダー観が保守的では?と思ってしまうことがある。東京では私たち放課後に愚痴ってたような進路とか家庭の悩みって一世代前に議論され尽くしてて、周回遅れなんじゃないか?!って悲しくなる」(65)。「東京が文化の中心とは言え、関西にしかないものもいっぱいあるし。でもジェンダー観に関しては停滞してて、というか東京だけが加速し続けている感がすごいある」。この辺の話、東京に対する「地方」ってまとめているけど、北海道出身の人間からすれば、近畿は地方じゃまとめらないんだよね。「東京」と「近畿」の方がまだしも精度があるかな。

「老後までを考えた時に、人間同士が結び付いていると社会に認識している手段が最終的に結婚しかないのが非常に・・・・・・厄介じゃない?ひとりで一生自分の食い扶持を稼ぎ続けるの体力的にも精神的にもしんどいし、助け合いは絶対必要やん。その扶助の形が基本的に結婚しか想定されてなくて・・・・・・。単身女性は孤独に陥るやろうなって。まあ女だけじゃないかもしらんけど。」(73)

関西における女性にとっての中学お受験という主題は、「男性/女性」「高学力/低学力」「都市/地方」さらに「東京/近畿」(?)といった軸による分断が関わっていて、さらにそこに「裕福/貧乏」という軸がいろんな形で絡んできている。本書を眺めて改めて思うのは、ジェンダー問題に関しては学校制度・受験制度におけるそれと、実社会におけるそれが切り離しがたく手を組んでいるということ。さらに分けるなら、「家庭」「学校」「職場」とこの三者。中学受験に焦点が絞られていることで、そのことが具体的によく見えてくる良書。

[J0261/220417]