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浅野順一『予言者の研究』

講談社学術文庫、2023年、底本は1997年版だが、初版は1931年。

まえがき[*1963年改訂版によせて]
エリヤの宗教改革
 1 序言 
 2 予言者エリヤの時代的背景 
 3 対カナン文化の問題 
 4 アハブ時代の宗教および道徳問題 
 5 エリヤの宗教改革運動 
 6 結語 
アモスの宗教
 1 彼の人物 
 2 彼の時代 
 3 神観 
 4 祭儀の問題 
 5 罪観
 6 審判 
ホセアの宗教
 1 彼の人物と時代 
 2 彼の家庭 
 3 神観 
 4 罪観 
 5 審判 
 6 結語 
イザヤの贖罪経験――イザヤ書第六章の研究
 1 彼の見た幻 
 2 神観 
 3 贖罪 
 4 召命 
 5 審判 
ミカの宗教思想
 1 序言 
 2 彼の人物と時代 
 3 彼の神とイスラエルの罪 
 4 審判と希望 
 5 結語 
エレミヤの召命経験――エレミヤ書第一章の研究
 1 序言 
 2 彼の生い立ち 
 3 万国の予言者 
 4 あめんどうの枝 
 5 煮え立っている鍋 
 6 結語 
神とエレミヤ
「主の僕」の歌
付録1 旧約聖書の方法論について
付録2 政治の世界における預言者の論理と倫理
解題  田島 卓

なかなかとっつきにくい旧約の世界、古代イスラエルの世界に近づくのに、預言者(予言者)の人物像を描いた本書が役に立つ。戦前に書かれた古い本なので、背景を知るの田島卓さんの解題が有益。「預言者個人の実存に注目し、その宗教体験を重視するという浅野のスタイルは、その意味で十九世紀的なロマン主義の残り香を強く発している。しかしそのことによってこそ見えてくるものがあることもまた事実である」(解題から、254)。

本書が取りあげているエリヤ、アモス、ホセア、イザヤ、ミカ、エレミヤは、啓典宗教の世界では、狭義の預言者(ザ・預言者?)と呼びうるような存在。彼らが活躍したのは南・北イスラエル王国における 300年ほどのそう長くない期間で、ホセア、イザヤ、ミカ、ホセヤは同時代人。

『旧約・新約聖書大事典』(教文館、1989年)の年表などから、関連項目をちょっと抜粋。

◆紀元前9世紀
エリヤが活動、異教の祭儀を取り入れた北イスラエル王国の王アハブと敵対。
◆紀元前8世紀
アモスが登場、北イスラエル王国とその王を告発。
ホセア(前750-722)が、北イスラエル王国で活動。
イザヤおよびミカは、ホセアと同時代人。南ユダ王国で活動。ミカはサマリヤやエルサレムの町を告発した。
前722年、北イスラエル王国はアッシリア帝国に併合される。
◆紀元前7~6世紀
前626年、エレミヤが召命を受ける。
前587年にバビロニアがエルサレムを破壊してユダ王国が滅亡、バビロン捕囚時代に。

モーセは前13世紀の人と言われているので、それから400~500年以上経った頃のこと。

本書を読んでいて興味深いのは、神ヤーウェとの関係で、それぞれの預言者の受けとめ方がいろいろだというところ。著者によれば、ヤーウェとイスラエルの理想的な関係は、ホセアにおいては愛、イザヤにおいては聖(カードーシュ)、アモスにおいては正義なのだという。もちろん、こうしたイスラエルの神の性質の多面性はキリスト教にも受け継がれてることが明らかだし、ヘレニズムとの習合を経てより複雑にもなっているだろう。

エレミヤについては、その宗教史上の意義が強調されている。

「もし紀元前588年の第二回バビロン捕囚をもってイスラエル史とユダヤ史との時代的限界とするならば、エレミヤはイスラエル宗教史の最後に現われた、しかも最大の予言者とみなす事が出来る」(154)

「エレミヤは、旧約において人格的個人的宗教の最初の主張者であったと見てもよい。ロバートソン・スミスの説くように、元来イスラエルの宗教においてその単位は個人に非ずして国民全体であった。神ヤーウェの前に立つ者はイスラエルそのものであり、イスラエルの個人個人ではない。しかるに旧約の宗教はエレミヤにおいて、従来共同体的であった宗教の単位が個人にまで推移して行ったのであるから、エレミヤはイスラエルの宗教思想史において画期的な人物として極めて深い意義を持っている」(179)

[J0393/230826]

井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』

講談社学術文庫、2008年、原著1990年。

プロローグ―奇跡の一千年
第1章 ローマ皇帝の改宗
第2章 「新しいローマ」の登場
第3章 「パンとサーカス」の終焉
第4章 栄光のコンスタンティノープル
第5章 苦悩する帝国
第6章 ビザンティン帝国の落日
エピローグ―一千年を支えた理念

通史的な記述、とくに固有名詞になじみがない領域では、あまり詳細すぎてもあまり概論すぎても読みにくいことがあるが、本書はちょうどいい感じ。395年のローマ帝国東西分裂の後、やがて滅びた西ローマ帝国に対して、その後長くローマ帝国を名のりつづけたビザンティン帝国が、1453年のオスマン・トルコに破られるまでの千年間の歴史。

「ビザンティン帝国ほど建前にこだわった国家は少ない。人種的にはギリシア人であり、ギリシア語を用いていながら、ローマ人・ローマ帝国と自称し続けたことはその最たるものであろう。」(23)

コンスタンティヌス(在位306-337)の「改宗」について、筆者はその理由は簡単なことだという。「ローマ帝国とキリスト教が結びついたことは、私には当然のことのように思える。むしろ支配者にとってこれほど都合のよい教えは、他にさがすのが難しいと言える」(49)。

なお、330年のコンスタンティノープル遷都について、コンスタンティヌスがそこで一挙に壮麗な都市をそこでつくりあげたというのは、後年つくられた神話であると。とくに重要なのは、その後1000年の生命を持つことになる、テオドシウス(在位408-450)による大城壁建築であり、また410年の西ゴート族によるローマ陥落は、コンスタンティノープルこそが「新しいローマ」であるという意識を人びとに植え付けることになったという。

532年、ニカの乱。「ニカの乱をひとことでいえば、キリスト教に支えられつつ独裁者への道を歩む皇帝と、古代民主政治の思い出を抱く市民との対決ということになろう」(100)。皇帝ユスティニアヌスの出自は農民であったが、ゲルマン人に奪われた旧西ローマ帝国領を奪回し、大ローマ帝国を再建したいという理想に燃えて戦争準備を進めるが、そのしわよせに対するコンスタンティノープル市民の不満が爆発したのが、当時人びとを熱狂させていた戦車競争を行う競馬場からはじまったニカの乱である。一時は逃亡も企てたユスティニアヌスであったが、最終的には市民の殺戮によって乱を鎮圧。「ユスティニアヌスによって古代の民主政治の伝統は最終的に否定され、ビザンティン専制国家への道が開かれた」(100)。

こうして版図拡大の時代を迎えたビザンティン帝国であったが、ユスティニアヌスが死ぬと、帝国は急速に衰退していく。そこでカルタゴから反乱軍を率いて帝位に就き、救世主となったのがヘラクレイオス(在位 610-641)であった。彼はペルシア遠征に勝利して、エジプトやシリアの奪還に成功する。しかし、彼の栄光は長くは続かなかった。彼がペルシア遠征に経ったその年、ムハンマドはヒジュラすなわちメジナへの移住を行っていた。ムハンマドが死去した2年後の634年、今度はアラブ軍がビザンティン帝国へ侵入しはじめ、ペルシアから奪い返したシリアやエジプトにいたる地方は、イスラームの手に落ちたのである。

717年には、イスラーム軍にコンスタンティノープルが包囲されるが、巨大な城壁、「ギリシアの火」と呼ばれた火器を用いてレオーン3世はこれの撃退に成功。この危機を経て、「キリスト教が人々の日常生活にまで及ぶようになり、キリスト教国家としてのビザンティン帝国が完成する」にいたったという(137)。

レオーン3世の息子コンスタンティノス5世(在位741-755)は、偶像崇拝を厳しく禁じたことで、ずっと評判の悪い皇帝であったという。著者は、これら聖像崇拝論争の背景に、超越的な存在であるオリエント型の神と、人々と似た存在であるギリシア型の神とがあったとした上で、「思い切ったいい方をするなら、キリスト教の神は、オリエント型の神とギリシア型の神の折衷であった」(146)として、両者のせめぎ合いを想定している。

その後、ニケフォロス2世、ヨハネス1世、バシレイオス2世(在位 976-1025)と、ビザンティン帝国は版図を拡大させていき、繁栄の頂点に達する。しかし、バシレイオスが死去すると、今度はまた帝国は衰退の途をたどる。帝国の再建に努めたアクレシオス1世(在位 1081- 1118)が、トルコ人に対抗するために援軍を求めたのが、十字軍との関わりのはじまりであった。その後、そのひ孫にあたるアクレシオス3世(在位 1195年 – 1203)は、宮廷の陰謀で幽閉の身となった際、十字軍に対して、皇帝位奪取の援助の代わりに、即位後に聖地へ向かうための費用を支払うという協定を結ぶ。結局はこの協定を守ることができなかったことがきっかけとなり、1204年、コンスタンティノープルは十字軍によって陥落することとなった。その後、各地での亡命政権としての存続を経て、コンスタンティノープルを奪回するのは、1261年のことである。

ビザンティン帝国の晩年、パライオロゴス王朝時代(1261-1453)のことについて、筆者はあまり多くを記述していない。なにか機会があったら、オスマン・トルコの歴史とともに、これら時代のこともまた読み直してみたい。

[J0392/230814]

平野卿子『女ことばってなんなのかしら?』

副題「「性別の美学」の日本語」、河出新書、2023年。

第1章 女ことばは「性別の美学」の申し子
第2章 人称と性
第3章 日本語ってどんなことば?
第4章 西洋語の場合
第5章 日本語にちりばめられた性差別
第6章 女を縛る魔法のことば
第7章 女ことばは生き残るか

翻訳家の著者による「女ことば」論。言語学者ともまた異なる、文学畑の人らしい感触。著者が一貫して主張していることは、「女ことば」は少なくとも今ではひとつの表現として問題ないが、過剰な配慮のもとにはっきりした意思表明を妨げる「女らしい言い回し」は止めるべきだということ。

ことばの裏にあるジェンダー・ギャップを指摘して、ちょっとそれは牽強付会ではと感じる箇所もあるけれど、さほど気にならないのは、著者自身が生活の中でジェンダーについて感じてきた違和感を丁寧に説明してあるから。

日本語論・日本文化論としても読める。西洋の騎士道では女性は崇拝の対象であるが、日本の武士道は女性を排除するだとか。「少女から女になるためらいや恐れ」というモチーフは日本独特のもので、早く一人前の女に見られたい、セクシーと思われたいという気持ちが強い西洋の女性には共感されにくいだとか。

日本語の特徴として、自動詞好きや受け身好きが指摘されている。自動詞好きとは、「風呂が沸いた」のように、人間以外を主体とした表現に対応する。自動詞好きも受け身好きも、「どちらも、自らを動作主として示したがらないだけでなく、往々にして自分の力ではどうにもならないという無力感を含む」のだと(88)。日本語の受動態は「無力感や悲しみなどの感情を表す」という特徴を持つという。

著者の平野さんは1945年生まれとのことだが、引き合いに出されている話題に新しいものが多いこともあいまって、年代をまったく感じさせない叙述になっている。うがった見方をすれば、女性をめぐる日本の社会状況が、根本的には変化してきていないということもあるのかも。

[J0391/230811]