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及川順『非科学主義信仰』

副題「揺れるアメリカ社会の現場から」、集英社新書、2022年。

  • 序章 なぜ非科学主義信仰を知るべきか
  • 第1章 非科学主義の狂信者たち
  • 第2章 政治を突き動かす非科学主義
  • 第3章 なぜ非科学主義に走るのか
  • 第4章 非科学主義とどう向き合うか
  • 終章 彼らは私たちの映し鏡

アメリカの現地で取材をして、テーマ的にも重要。勉強になる本ではあるが、一方で、アメリカ文化の基本的な理解に疑問が残る。NHKの記者でもこんなかんじなのか。なんでもかんでも、むりに「非科学主義」に結びつけすぎ。なにかとすぐ聖書や神と結びつけるのはアメリカではどの陣営でもふつうのことであって、それは近年台頭してきたところの非科学主義とは言えない。本書で描かれているところの銃規制反対派は、もちろん僕もその立場を支持するつもりはまったくないが、別に宗教上の狂信でも非科学主義でもないのでは。ブサヨと呼ばれる人たちがネトウヨを叩くやりかたに似てきてしまっている。

とはいえ、知らなかった情報も多い。たとえば、反ファシズム・反白人至上主義をかかげながら暴力を辞さないという黒装束集団アンティファとか。陰謀論を主張する非科学主義者のなかに、SDGsを自分たちと信じていることと同じだと主張する人たちがいるという話もおもしろかった。Qアノンがネット上の選挙部隊としてよく働くことから、政治家と結びつきやすいというのは、例の統一教会の話とも通じている。

[J0342/230319]

石牟礼道子・伊藤比呂美『新版 死を想う』

平凡社新書、2018年。2007年の本に、石牟礼さんの詩一篇と伊藤さんの解説を増補として付したもの。

まえがき 石牟礼道子
第一章 飢えと空襲の中で見たもの
第二章 印象に残っている死とは
第三章 それぞれの「願い」
第四章 いつかは浄土へ参るべき
あとがき  伊藤比呂美
増補 詩的代理母のような人ほか一編

若い老女と、その親世代の老女とで、死をめぐる情緒を語る。伊藤さんがぐいぐいと、石牟礼さんの過去や心情に迫っていく。あとがきや増補を読んで、それは石牟礼さんに抱いている親近者のような気持ちからということが分かる。

あれこれの、戦争前後の、ちょっと前の過去の歴史をうかがうという読み方もできるし、なんだろう、死の情緒の共有とでもいうべきものがあって、日本的宗教とくには日本的仏教がずっとそういったものだったのだろうなと思う。寂しさの話や、「お名残惜しゅうございます」といった挨拶のエピソードに見られるような。

ふたりとも、妙にというか、『梁塵秘抄』に強く共感を感じている。キリスト教世界の罪概念と近いようでまたまったくちがった罪業意識というか、そういったもの。個人の意志や責任に帰される罪ではなくて、生きるためにはやむをえない罪業。それに対して、哀れみや遠巻きの共感、さらには「相哀れみ」のような感情がそこには漂っている。

巡礼、乞食がよく訪ねてきた頃の話。そうした人を大事にしたそうで。
石牟礼「女の乞食さんって、本当に可哀そうで・・・・・・。今も記憶にありますけど、目つきが鋭くて。」
石牟礼「お米を差し上げるときは、なんとなく母の目つきが悲しそうだった。決して豊かではないのに、食べるのが減るから。」

もうひとつ、本筋(?)には関係ないけど妙に印象に残ったのは、あとがきにあった、伊藤さんが石牟礼さんにこの対談を持ちかけたときの話。

「最初に思いついたのは昨年の夏だった。電話で話したら、石牟礼さんは暑さに息もたえだえで、「この、呪われた、熊本の夏!」とののしっておられた。」

そういうものよ。そういうもの。

[J0341/230309]

毛内拡『「気の持ちよう」の脳科学』

ちくまプリマー新書、2022年。

第1章 心ってどんなもの?
第2章 脳ってどんなもの?
第3章 心を生み出す脳のはたらき
第4章 心が病むってどういう状態?
第5章 心を守る心のはたらき
第6章 「気の持ちよう」と考えてしまうワケ
第7章 「気の持ちよう」をうまく利用する
第8章 「わたし」ってなんだろう

なるほど。心理的な調子の悪さについて、脳科学的な説明を求めている人には意味のある本なのではないかな。僕はそれ以上のことを求めて読んでいるので、批判的になってしまうが。そもそも、著者が脳科学者としてどういう位置にある人なのか、分からないままに読んでいる。

「脳と心の関係は、コンピュータやスマホでたとえると、ハードウエアとソフトウエアの関係と言うことできる」(37)。「心というソフトウエアのはたらきを知るためには、まずは脳というハードウエアというしくみの理解が欠かせない」(38)。この喩えは僕もよく使う喩えで、以上の言い方には賛同できる。ただし、僕ならこのあと「ハードウエアだけをいくら研究しても、ソフトウエアの働きをじゅうぶんに理解することはできない」と付けくわえるのだけど。なぜこのことをスルーする人が多いのか、むしろそっちの方が理解できない。この一言で、本書への感想は終わるとも言える。

「「いくら気の持ちよう」「病は気から」などと言っても、いくら脳幹に「動け、動け、動いてよ!」と言ったところで、心拍を意のままに動かしたり、止めたりはできない」(55-56)。なるほど。要するには、心理現象の生理的・生物学的基盤ということで、こうした脳神経科学の洞察というのは、「意志の力だけではどうにもならない心理現象がある」とまとめられそうだ。だけん、こうした脳神経科学の称揚というのは、ある意味、理性や意志を決定因に置く啓蒙思想的人間観のカウンターとして理解することができそうだ。このことについては、178ページあたりで著者自身も触れている。

また、この観点からすれば、脳神経科学のもたらす洞察について、「まったく意志や計画をもって働きかけようのない=傾向を知ることしかできない生理的・生物学的側面」と、「意志や計画をもってその働きに影響を及ぼしうる生理的・生物学的側面」とを区別することも有効そうだ。

「シナプス伝達は生体の持っている伝達方式のほんの一部でしかない。したがってシナプス伝達だけを模倣しても、脳のような情報伝達をする人工知能を作ることはできないと考えられる」(65)。その例として挙げられているのは、脳の広範囲調節系のはたらきであるノルアドレナリン、セロトニン、ドーパミン、アセチルコリンである。

ご自分のパニック障害的傾向をやりすごす方法について。「気の持ちよう」を「逆手にとる」のだそうで、「ここぞとばかりに持てる知識を総動員して、我が身に起こっていることは単なる「交感神経系の亢進、ノルアドレナリン!」とか頭の中で唱えながら、なぜかひたすら故郷の海を思い浮かべていた。そうやっていったん冷静になると、鼻からは呼吸ができることに気がついた」(168-169)。

そうそう、脳神経科学に基づいた心理への働きかけには、薬物療養や侵襲的な措置の他に、この種の「冷静な対処」がありうる。ただし、これについては、従来の「精神論」と何がちがうのかを再度検証する必要もあるだろう。このことだけでなく、一言に脳神経科学とはいうが、実際の心理現象との関連づけ方について、そこで提供されている説明の種類やレベルは雑多であって、統一された説明体系にはなっていないことには注意すべきである。

[J0340/230309]