Author: Ryosuke

浅見雅一『キリシタン教会と本能寺の変』

角川新書、2020年。

第一章 信長とキリシタン宣教師
第二章 報告書「信長の死について」の成立
第三章 キリシタン史料から本能寺の変をたどる
第四章 光秀の意図
史料編 完訳・ルイス・フロイス「信長の死について」

かなりの部分が、ルイス・フロイスの報告書「信長の死について」をはじめとするキリシタン史料の性質について述べた記述で占められている。そういう本。

明智光秀の娘であった細川ガラシャは、光秀を破った高山右近を恨んだり、あるいは細川忠興に離縁される理由となった謀反をおこした父親光秀を恨んでいなかったのか、というのが、本書のひとつの問い。浅見さんがガラシャの態度とフロイス文書から推測するに、光秀には野心や私怨以外に謀反を起こす大義があったらしく、おそらくは明智家の存続を脅かすような何からの事態があったのではないかと。もしそうだとすると、細川家を守ろうとしたガラシャの自害も理解できるのでは、とのこと。

[J0193/210829]

シャボットあかね『生きるための安楽死』

日本評論社、2021年。

第1章 生きるための安楽死
第2章 オランダの安楽死制度―京都「ALS患者嘱託殺人事件」から見る
第3章 安楽死の倫理と「安楽死法」
第4章 安楽死の国際比較
第5章 安楽死エキスパティーズセンターと臓器提供
第6章 若い人たちの安楽死
第7章 後期認知症患者の安楽死
第8章 死の脱医療化と自律志向

著者はオランダ国籍を持つライターさんのようで、この本は『安楽死を選ぶ』という前著の続編的な位置づけとのこと。ぐいぐい主張をしているわけではないが、安楽死推進派寄りであることは明らか。オランダ語の情報も含めて、いろいろと調べてあるので、オランダの状況を知るのにとても勉強にはなる。

ただ、この本にしたところで議論や配慮が尽くされているわけではない。正直に言うと、京都の嘱託殺人の件を引き合いに出して、次のように書いているところで、どうかと。「いろいろな情報を集めてから形になってきた私の認識はこうです。林さんは献身的なケアチームによって、考えうる最高のケアで支えられていた。愛する人たちもいた。それにもかかわらず真摯に、持続的に死を願っていた。林さんが直面していた、まったく絶望的な状況を考えれば、彼女の死の願いは、私には理解できるものでした」(20)。僕も林さんのブログとTwitterは全部目を通したけども、「考えられる最高のケアに支えられていた」とはどこから出てくる判断なのか。林さんの個別ケースはSNS経由の情報くらいで判断するよりないにしても、現実にどれだけのALS患者が社会的なケアや支援の不十分さに悩まされているか、知ろうともしないのか?「まったく不十分なケア制度や社会的支援という限定された状況内で、実際に林さんのケアに当たっていた人々は、それぞれができる範囲内で最高のケアを行っていた」ということだったらまだ分かるが。

これは実は決定的なことで、「死ぬことを選択できる状況」を作るためには、「生きることを選択できる状況」が完全に整っていなくてはならない。そうでなければ「選択」ではない。「Aを選べば、家族には年に500万円相応の負担が掛かります。Bを選べば、無料です。さあ、ご自由に選択してください」というのでは、一見選択に見えても、本当に自律的で自由な選択ではない。安楽死/尊厳死や難病の問題については論じておかねばならない重要なポイントが他にいくつもあるのだが、この記事ではこの一点だけでもまず。だから本当は、オランダにおいて「生きること」を選択した人(たとえば難病患者)に対するどんなケアや社会的支援がなされているか、その状況をきちんと知らなければ、当地における「死ぬ選択」の在りようと意味も分からないはずだ。

上述の件がひっかかったものだから、筆者の軽妙な文体が、逆に気に触ってきてしまう。たしかに、もっと気軽に死のことを考えましょう、という問いかけも大事かもしれないけど、やっぱりそれなりに慎重さや配慮が必要な事柄ではある。とくに法律の問題というのは、社会全員に適用されるものだけに、一部の人の利害だけで決めてはいけないものだ。だから、じゅうぶんな目配せや、ときにノロノロとして見える議論と交渉が必要になってくるもの。

実はこの本でもしっかり触れてあることとして、法律とは別の医療現場では、日本であっても延命治療の差し控えはそれなりに認められている。このことは一般にはあまり知られていなくて、実践の問題と法制化の問題をごっちゃにして「心情的な推進派」になっている人も多いように思われる。

[J0192/210827]

ティアナ・ノーグレン『中絶と避妊の政治学』

岩本美砂子監訳、塚原久美・日比野由利・猪瀬優理訳、青木書店、2008年、原著2001年。

第1章 序論
第2章 利益をめぐる政治
第3章 お国のために―戦前の中絶・避妊政策
第4章 日本における人工妊娠中絶の合法化
第5章 中絶の政治―優生保護法を改定する運動(1952-2000年)
第6章 産児制限よりも中絶―日本の避妊政策(1945-1960年)
第7章 ピルの政治学(1995-2000年)
第8章 結論

著者は、コロンビア大学で政治学を学んだ人。なぜ日本社会は、他国との比較において、中絶に対する拒絶感が薄い一方で、ピル使用に対しては厳しい規制を敷いてきたのか。それを国民性や文化の問題として説明するのではなく、歴史的な経緯の帰結として、しかも各種の利益団体が干渉を続けてきた歴史の帰結として説明しようとする。こうした説明への志向はまあ、最近の英語圏の歴史学ではスタンダードな仕草のひとつとして、中絶という主題の拡がりに気づかされる一冊ではあった。本書の内容については、監訳者による長めの解説が掲載されているので、そちらでも。

一般的に言えば、優生思想とのかどで、非難の目で見られることがほとんどの優生保護法であるが、ノーグレンはそうした側面を認めつつも、そこに当時としての進歩性をも認めている。「優生保護法が1948年に中絶を事実上脱犯罪化し、しかも医師たちが法律を緩やかに解釈したために――たとえ法的にはそうでなくとも事実上――請求次第の中絶が実現されたからである」(7)。

「こうした〔優生保護法を制定することになった優生学的および民族主義的イデオロギー〕がもたらした肯定的で意図せざる結果のひとつは、日本女性が他の国々の女性よりもはるかに早い時期に、安全で合法的な中絶を――きわめて統制され制限された状態とは正反対だという意味で――簡単に手にできるようになったことであり、そのおかげで望まない妊娠と出産にまつわる多くの心理的・身体的・家族的・経済的困難が回避された。ところが、中絶が早い時期に合法化されたために、かえって受胎調節の導入が遅れるという意図せざる強情な結果が生じてしまった。しかも、1950年代の終わりに受胎調節が幅広く受け入れるようになった後も、早期の中絶合法化のゆえにピルの承認過程に否定的な「フィードバック効果」が働きつづけた」(260)。

占領期における日本の中絶の合法化や規制緩和は、1960~70年代における先進諸国における中絶合法化とはかなりちがう性格を持っていたという。まずは、医師であり日本母性保護医協会会長の谷口弥三郎が、国会議員としても働いた、その役割の特異性である。第二点として、「他の国々(たとえばフランス)でも国益が中絶政策の決定に一定の役割を果たしたが、日本ほど国益が重要な位置を占めることはほとんどなかった。逆に言えば、中絶の合法化の政治的議論で日本ほど倫理と宗教が小さな役割しか果たしてこなかった国はまれである」(85)。

第三点として、「他の先進民主主義国では、中絶を脱犯罪化するプロセスは女性運動やその課題と切り離せないものだったのに対し、日本では中絶合法化の取り組みにおいて女性運動はまったく参加しておらず、最終的に、初期の中絶政策の策定にも、それを取り巻く言説形成にも何の役割も果たさなかった」(85)。

第二点と第三点は、ある意味日本社会の一般的特徴にも通じるものとして重要で、第二点は、国益の問題と、宗教の問題とでふたつに分けた方が良い。この場合の国益とは、人口爆発を恐れた人口抑制という観点である。「戦後初期において注目すべきなのは、避妊政策の成否ではなく、日本のエリートたちが、戦前の反産児制限の立場を驚くべき速さで捨て去ったにもかかわらず、生殖に関する個人の意志決定は公共の利益に合わせて行われるべきだという戦前からの観念を保持したことである。つまりエリートたちは、今や帝国拡大ではなく経済的利益に中身は変わったが、国益を中心とする生殖イデオロギーを抱きつづけていた。優生思想の強調は戦後も生き残り、むしろ戦後のほうが強まったと言えるだろう」(160)。

本書内ですでに指摘されているとおり、「優生保護」といっても、日本では戦前でも戦後でも、ナチス・ドイツのようには、優生学的な思想や実践は必ずしも社会の全面には現れていない。しかし、「優生保護法」という名称には、国益優先という日本の政治の特徴をよく示している。戦時下の人口政策については「象徴的かつイデオロギー的な理由で採用された」と指摘されていたが(58)、日本の国家的政策がある程度一般にそうかもしれないと思った。

宗教に関しては、谷口雅春率いる生長の家が、反中絶の立場から優生保護法廃止運動に携わっていた模様。優生保護法改正の試みが、青い芝の会をはじめとする障害者運動を活性化させたという記述にも、そういえばそうかという納得感。優生保護法改正運動は、1996年に母体保護法へと結実する。でもここでも、母体保護という、いかにもな名称。ノーグレンさんは、障害者運動に関して次のように指摘。「この種の左翼運動が直面するイデオロギー的困難は、彼らが用いる反スクリーニング・反中絶のレトリックの大半――生命に内在する価値や「生活・生命の質」をもっときめ細やかに見ることを強調するなど――が、右翼や宗教団体のプロライフのレトリックに似ていることである」(132)。ふむ?

ピルの話もなかなか面白い。ここでは結論だけ、「日本国民に仕えているのは、個人のニーズや生殖の健康・権利、あるいは正確で公平な情報などほとんど顧みることもなく、自らの利益や課題を追求するばかりで、なすべき役割を果たしていない政府や利益集団、マスコミばかりである。日本のピルの物語は、主人公がいない物語なのである」(236)。

[J0191/210827]