Author: Ryosuke

中西徹『うだつ』

二瓶社、1990年.

1.ウダツのある風景
2.ウダツとは何か
3.都市の誕生
4.絵巻物の世界
5.洛中洛外図屏風の世界
6.名所図会の世界
7.ウダツの終焉
8.現存するウダツ

「うだつが上がらない」という言葉に名残を今に残す、ウダツ。非アカデミックな研究者によくありがちな冗長さが、むしろ本書の場合は迫力にもなっている。全国各地に残るウダツを紹介、といった本かと思いきや、全体の三分の二くらいの分量は、絵巻物などの歴史資料の中に描かれているウダツを追跡。凄いのは、「まだウダツが描かれてない」という、不在までを辿っているところ。

ウダツは防火機能でよく語られているが、それは機能の一部で、装飾的な意味も大きい模様。むしろ、防火機能は低かったとか。基本的に、江戸時代後半には町衆の文化だったウダツは終焉を迎えたという理解。1680年頃から1780年頃の100年間に、京都・大坂・江戸の三都には大火が相次ぎ、ウダツも焼亡。自主の精神を持っていた町衆は「町人」となり、倹約令などの下にウダツ文化もなくなったというのが本書の説明。美意識においても、枯淡を好むような変化のなかで、異形のウダツは時代に合わなかったと。しかしもちろん、1990年当時のこととして、江戸末期や明治に作られ現存するウダツも紹介されている。

[J0187/210816]

植村邦彦『隠された奴隷制』


集英社新書、2019年。

第一章 奴隷制と自由──啓蒙思想
第二章 奴隷労働の経済学──アダム・スミス
第三章 奴隷制と正義──ヘーゲル
第四章 隠された奴隷制──マルクス
第五章 新しいヴェール──新自由主義
第六章 奴隷制から逃れるために
終章 私たちには自らを解放する絶対的な権利がある

奴隷をめぐる思想史。啓蒙思想家やその後継者たちが、その当時の黒人奴隷をどう捉えていたか。また、ヘーゲルを経て、マルクスが喝破した資本主義下の奴隷制度は、まさにいまも生きているというそういうお話。

アダム・スミスが経済的コストの問題として考えた奴隷と自由な労働者との比較を「正義/不正」の問題として整理したのがヘーゲルの法哲学であり、それがマルクスの思想的出発点となった(107)。

「黒人奴隷には「自らを解放する絶対的な権利」がある。これは、同時代の自由主義者も博愛主義者も認める「正当な」権利だった。それを主張することで「直接的奴隷制」の廃止に成功したならば、次は「環節的奴隷制」の番である。そして、ヘーゲルが一貫して奴隷自身の「自らを解放する絶対的な権利」を擁護したように、マルクスもまた、賃金労働者自身が「間接的奴隷制」に気づくことを解放の必要条件としていた。その第一歩が、長時間労働を不当なものとして拒否することだったのである。」(133)

「スミスにとって、奴隷は「財産を取得できない人」であるのに対して、「自由な労働者」は「ある程度商人となる」。自分を労働力という「商品」の保持者と見なし、「自由な自己決定」によって自らの「商品価値」を高めることに努力し、他方ではことあるごとに「自己責任」を問われ続ける「商人」としての賃金労働者。そのような「商人」意識を内面化してしまった労働者こそ、マルクスの説得対象なのである」(150)。うーむ、身も蓋もない、鋭角的なまとめ。身につまされる。

「マルクスが「隠された奴隷制」のヴェールをはぎ取ろうとしてから、すでに一五〇年が経過した。その間、労働者たちは、そして私たちは〔マルクスが求めた〕「並外れた意識」を内面化することができたのだろうか。「賃金制度の廃止」を要求することができただろうか。現実はむしろ逆行している。資本主義がグローバル化して地球の隅々を覆い尽くそうとしている現在、私たちはスミスの言う「商人」どころか、意識の上では「資本家」になってしまい、自分自身の労働力をたんなる「商品」を超えて「人的資本」だとさえ見なすようになっている。つまり、自分自身の労働能力が、未来の利益を生み出す「投資」の対象であるかのように論じられている。本当にそれが「資本」ならば、自分では働かなくても利潤や利子をもたらしてくれるはずなのに、少なくとも日本における労働者の実質的な拘束労働時間は、「八時間運動」がいまだに切実な要求になるほどの長時間だ」(158)。あががが。この段落ひとつで痛いところを正確に突いてくる。

現代社会批判というだけでなくて、思想史の試みとしても、新書とは思えない濃さだ。

[J0186/210816]

知里真志保『アイヌ語入門』

北海道出版企画センター、1956年初版、1985年復版。

第一部 地名研究者のために
 第一章 語形と意義について
 第二章 音韻と語法につちえ
 第三章 古代人のこころ
 第四章 メイ(?)著『北海道蝦夷語地名解』
第二部 アイヌ語入門
 第五章 単音
 第六章 音節
 第七章 アクセント
 第八章 音韻変化
 第九章 文法
第三部 辞書および参考書について
 第十章 バチラー博士の辞書
 第十一章 参考書について

きっと有名な本なんだろうけど、最近存在を知る。先行研究に対するこきおろし(?)が凄いというので、そこのところだけ読むという邪道な。たしかに舌鋒鋭く、こんな具合。
「アイヌ語の辞書といえばたいていの人はバチラー博士の辞書を思いだすにちがいない。それほど、こんにち、この辞書は有名になってしまった。しかも、いっぱんの信用とはあべこべに、この辞書くらい、欠陥の多い辞書を私は見たことがない。欠陥が多いというよりは、欠陥で出来ている、と云った方が真相に近いくらいのものである」(237)。永田方正『北海道蝦夷語地名解』についても、40頁以上を割いて誤りをあげつらっている。

自身がアイヌだとはいえ、言語学的に見て、著者自身のアイヌ語解釈がどれだけ正確かは、僕には判断できない。でも、少なくとも彼から見ていいかげんなアイヌ語の解説がこれだけ出回っていたとしたら、それは義憤にも駆られるだろうとおもう。これくらい率直にそれをぶつけてくれるのでなければ、なかなか僕ら読者にもその「惨状」が伝わらないだろう。「アイヌ研究を正しい軌道にのせるために!――この本を書いた私の願は、ただそれに尽きるのである」(276)。十勝アイヌが「人送り」と人肉食をしたなどという「史実のでっちあげ」についても告発しているが、その悪質さからすれば、知里の筆致は冷静なくらいである。

筆者が強調している点のひとつは、アイヌ語地名には古いアイヌの考え方が反映しており、たんに訳語として日本語を当てるだけでは十分な理解には達しないということである。とくに川について、「第一、アイヌは川は生き物――自分たちと同様に肉体をもち、性交を行い、子を産み、親子連れで山野を歩きまわり、眠りもすれば、病気もする、また死にもする――というような、まったく人間同様の生物と考えていた。第二に、日本人の考え方とは正反対に、アイヌにおいては、川は海から来て浜へ上陸し、村のそばを通って、山へ入って行く生物と考えられていた」(118)という。

アイヌと川との関係については、狩猟採集というライフスタイルの他に、北海道という土地における河川の地理的特徴についても考えておきたい。もちろん道内で地域差はあるにしても、一般に山の隆起速度が穏やかで降水量が少ないため、あまり谷が発達していない。泥炭地を河川が流れていたり、あるいは水際が低木の森になっているケースが多い。川の存在感や存在のしかたが、日本のほかの地域とはだいぶちがうんだよね。

文法の部分についてはまじめに読んでいないが、ちょっと目についた点として、名詞が人称に応じて語形変化するのだという。つまり、「私の目(ku-siki)」「君の目(e-siki)」「彼の目(siki, sikihi)」等々の変化形があると(ホロベツ方言の例)。ふむ。

なお、知里真志保の著述物については青空文庫で公開が進んでおり、この『アイヌ語入門』についても準備作業が進行中とのこと。

[J0185/210810]