Author: Ryosuke

斎藤幸平『人新世の「資本論」』

集英社新書、2020年。

はじめに――SDGsは「大衆のアヘン」である!
第1章:気候変動と帝国的生活様式
第2章:気候ケインズ主義の限界
第3章:資本主義システムでの脱成長を撃つ
第4章:「人新世」のマルクス
第5章:加速主義という現実逃避
第6章:欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム
第7章:脱成長コミュニズムが世界を救う
第8章 気候正義という「梃子」
おわりに――歴史を終わらせないために

昨年から話題の一冊、なるほど、すばらしい。公平にみて、脱成長コミュニズムというヴィジョンを具体的に示せているかというと分からない。資本主義批判の内容も、とても新しいというわけではない。それでも、現実逃避の冷笑主義に対してNOをつきつける宣言としては、本当にそうだと納得させられる。

そういう意味では、「おわりに」で参照されている研究が印象的だ。「ハーヴァード大学の政治学者エリカ・チェノウェスらの研究によると、「3.5%」の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わるというのである」(362)。ソースはこちら、
Erica Chenoweth and Maria Stephan, Why Civil Resistance Work, 2012.
David Robson, “3.5% rule.” bbc.com <https://www.bbc.com/future/article/20190513-it-only-takes-35-of-people-to-change-the-world>

[J0160/210520]

追記:Less Than Useful 氏による、本書への批判記事。SDGs の画期的な本質が矮小化されて理解されているという。 <https://note.com/lessthanuseful/n/n974e25689201>
LTU氏のような人、あるいはLTU氏が SDGsの本質や画期性を書いた本が欲しい。いちおう、中公新書の解説本は読んだのだが、そうした画期性はみえず、アリバイ的キャンペーンとしてのSDGsというイメージは払拭されず。岩波新書の方も読んでみようと思うけども。「SDGsには本来グローバル資本主義・新自由主義に対する「毒」が仕込まれている」というのだけど、こっそりみえないように仕込む作戦だったら、アリバイだ批判は出てきて当然なわけで、うーん、その毒の部分の解説をしっかり読みたいなあ。

広尾克子『カニという道楽』

西日本出版社、2019年。

序 ズワイガニとは?
第1章 カニを都市に持ち込んだ人
第2章 カニツーリズム誕生とカニの流通
第3章 カニ産地を行く
第4章 ズワイガニの日本史
第5章 カニという道楽を守るために

かに道楽にはじまる都会でのカニの食文化から、産地での町おこしやカニツーリズム。漁の実際。それからカニをめぐる文化史。こういう研究を読むのは好きだな。

カニがありがたがられるのは高度成長以降のことで、それまでは産地の人もそんなに価値があるものだと思っていなかったという。この本を読めば、現在にいたるその過程がよくわかる。カニに熱を入れるこの感じ、関西・西日本ではまた独特のものがある。こうして人気が出てみれば、カニって大きさもあるし、色も赤くて華やか。季節感もあるからたしかに魅力のある食材だ。

各地のカニ供養が、日本人のアニミズム的感性から・・・・・・ではなく、町おこしのイベントからスタートといった小話もおもしろい。本書では蟹工船、カニを使った駅弁や、カニかまの話にも触れられているし、あとはカニグラタンとかあれはなんだべかとか、さらにいろいろ想像してしまう。

[J0159/210520]

川島秀一『春を待つ海』

冨山房インターナショナル、2021年。

はじめに―にわか漁師の奮闘記
第1章 シタモノと食い魚
第2章 魚を売りに行く
第3章 春雄さんの半生記
第4章 新地の沿岸漁業
第5章 新地の漁業民俗
第6章 寄りものとユイコ
第7章 海辺のムラの災厄観
第8章 東日本大震災からの漁業
あとがき―福島の海と暮らして

気仙沼に生まれ、長年福島に住み込んで、民俗調査を続けていた著者。僕自身、東北に10年以上住んでいたこともあって、東日本大震災が起きてから急に東北地方を研究対象にしはじめた学者にはどうも構えてしまうが、川島先生といえば骨太の民俗学者として、ずっとこれら地域に寄りそってこられた方。気仙沼もそうだが、関わられてきた福島県新地町の漁村がまた津波と原発の影響の直接に受けてしまって、続けてこられた民俗調査がまた別の重い意味を持つことになった。それでも、原発問題をことさらに取り上げるわけではない。新地町の漁師さんの生活やライフストーリーに、原発問題が深く食い込んできているという理由から、それを取り上げている。当事者にほとんど憑依した『苦界浄土』ともまた異なったやりかたで、民俗誌という記録を残すという筋の通し方。

漁業といえば、採れた魚に目が行くが、川島先生は網にかかって売りものにならない貝殻やヒトデなどの「シタモノ」、このシタモノをはずす重労働――シタモノハガシ――が漁の一部であることを強調して、その様子を詳細に記す。この一事だけでも、生活の具体的なディティールこそが命だという、川島先生のまなざしのありようがうかがわれる。

第七章「海辺のムラの災厄感」では、トリチウム水の海洋放出に反対する漁師たちの反応の裏にある「民俗の論理」が示され、そのことによって、現代社会の科学信仰のあり方があぶりだされている。本稿では1954年のビキニ事件や、それこそ水俣の話にも言及がされているが、先の大震災を含め、数十年前のことを簡単に「過去のこと」と片づけてしまう感覚こそ、多くの過ちや理不尽が繰り返されてきた理由のひとつではないのか。そんな感覚に抗って、今に生き続ける「民俗の論理」をたどる川島先生のお仕事から、問題提起のメッセージを感じる。

[J0158/210519]